UPDATED 06.01.2008
おやじカンタービレ Vol.2 by Niseko-Rossy Pi-Pikoe @ musicircus

006 カラフルなメシアンでさらなる次元のピアニズムを胎動させている

児玉桃ピアノリサイタル〜メシアン生誕100年を記念して〜
2008年3月1日(土)  彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール

メシアン: 《鳥のカタログ》 第12番 〈クロサバクヒタキ〉
ドビュッシー: 2つのアラベスク
ドビュッシー: 版画
ドビュッシー: 喜びの島
メシアン: ヴァイオリンとピアノのための幻想曲(日本初演)
ラヴェル: 夜のガスパール
メシアン: 《幼児イエスにそそぐ20のまなざし》より 第10番 〈喜びの聖霊のまなざし〉 ほか
【アンコール曲】
ショパン: ワルツ第3番 イ短調 作品34-2
メシアン: ヴァイオリンとピアノのための幻想曲

パリ在住の国際的なピアニスト児玉桃のリサイタル。日本初演の「ヴァイオリンとピアノのための幻想曲」(1933)はメシアン24さいの作品で、彼女がメシアンの未亡人イボンヌ・ロリオから手書きの楽譜を譲り受けて2006年にフランスで世界初演をしている。メシアンからのお墨付きを携えての凱旋公演の様相。1曲目のメシアン演奏で彼女が披露したのは、鳥のさえずるメシアン、を、さらに鳥が歌うメシアンにまで演奏の表現を、深めたのか変化させたのか、今まで聴いたことのないメシアンの表情だった。もしかしたらこっちのほうがほんとうのメシアンだったのだろうか?おそらくそうなんだろう、可憐で速度があってポップでさえあるドキドキするようなメシアン『鳥のカタログ』。それに引きずられるようにしてドビュッシーとラヴェルも、彼女のメシアン調にカラフルに聴こえる。まあ、おいらが聴いてきたラヴェルドビュッシーはコチシェとかミケランジェリみたいなピアニズムなのだからたいていの演奏はカラフルに感じるのかもしれないけれども。そして目玉とも言える「ヴァイオリンとピアノのための幻想曲」、これ、あまりメシアンらしくないというか、ドビュッシー〜ラヴェルのラインというより、突拍子もなくブレヒト〜ハンス・アイスラーの音楽に連想が飛んでしまうところがあった。それってフランスらしくもないってことだけど。メシアンは即興演奏を得意としながら自らのスタイルを築いていったとすれば、そんな未定義な作品があってもいいかな。1曲目で見せたメシアンを「20のまなざし」で再度堪能する。児玉桃の指はメシアンを弾く身体になっていると判断するのは間違いではないと思う。そんな指で弾くアンコールのショパン。そもそも彼女はショパン弾きでもあるのだったが、すっごく良かった。おれはショパンは嫌いである。ピリスのショパンは聴くかなーくらいにショパンは聴かない。ろくなもんでないと思っている。だけど彼女のショパンはとてもいい音楽だった。とろけた。アンコールの2曲目は、本日の目玉曲を再演。サービスサービス、なのか、さっきのはいまいちだったのでもいっかい、なのか、だけど、たいした曲には思えなかったのです。児玉桃はすばらしいタッチとセンスのあるピアニストだと思う。彼女は今年生誕100年記念特別企画として全5回のシリーズ公演「メシアン・プロジェクト2008」を9月から12月にかけて予定している。ぼくはそれを楽しみにしているけれども、メシアンに取り組むことで彼女のピアニズムが変容し、ちょっと予測を超えた次元の表現に至るのではないかという大胆な楽しみも抱いている。


007 クロード・ヴィヴィエ(1948〜1983)というカナダ生まれの現代音楽作曲家の作品におののく

アンサンブル・ヴィヴォ2008 Ensemble Vivo 2008 Creative Works in 20th → 21th Century European Tendency
2008年3月6日(木)  東京オペラシティ リサイタルホール

・クロード・ヴィヴィエ:フルートとピアノのための小品 (1975)
・クロード・ヴィヴィエ:ヴァイオリンとピアノのための小品 (1975)
・クロード・ヴィヴィエ:パラミラボ〜フルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための (1978)
・ベアート・フラー:粘土の足で立って[日本初演]〜声とフルートのための (2001)
・フィリップ・ユレル:墓(トンボー)ジェラール・グリゼーの思い出に〜打楽器とピアノのための(1999)
・セバスチャン・ガクシー:ジグゾーパズル[日本初演]〜テナー・サクソフォンのための (2004)
・アラン・ゴーサン:球体のハーモニー[日本初演]〜フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、打楽器のための(2006)

クロード・ヴィヴィエ(1948〜1983)というカナダ生まれの現代音楽作曲家の作品におののく。ピアノの鳴らしかた、フルートとの描く時間の図形は、まさにECM70年代作品と同時代的に発生していたものだし、そんな現代音楽があったとは思わなかった。濃厚にロマンチックで狂気をのぞかせる、そういった楽想なのだ。1曲目は演奏した大須賀かおり(ピアノ)と難波薫(フルート)の演奏の良さもあってか、『レッド・ランタ』(ECM)を凌駕してあの世界というのかな。というか、ヴィヴィエは70年代ジャレット(たとえば『イン・ザ・ライト』)を聴いていた可能性はかなりあると思う。「バラミラボ」、4つの楽器が織りなす鋭角直線ばかりでできた図形のような美しさはなんだ。ヴィヴィエはパリのゲイバーで出会った男に刺殺されたという。大須賀かおりのピアノはしっかりと音楽を捕まえていてなおかつそこに表現を置くことができるレベルのピアニストで群を抜いていた。ぜひ、ヴィヴィエの作品をCDにしてください。この日はヴィヴィエの作品の静かな狂気にあてられて、ほかの作曲家についてはまったく興味がわかなかった。打楽器の窪田翔は演奏の間違いをごまかそうとして失敗、途中で演奏を止めて演奏しなおしたりしている。技巧に慢心しとる。現代音楽でテナーサックスの作品を初めて聴く。演奏する原博巳はアドルフ・サックス国際コンクールで1位日本人初というだけあって、見事な演奏を聴かせた。ジャズ・即興リスナーの耳で聴くに、楽譜の技巧だけが手にとるように見える演奏で、ヴォイスがないという厳しい評価になる。ジャズ者にそう言われても困るか。ヴィヴィエの作品は、現代音楽のくくりにはないように思った。19世紀以前の音楽との連続さえ感じたし、作曲された時の“新しい審美に飛び出た感覚”を保持していた。さて、現代音楽を規定する枠の中で作曲されているような現代音楽って、だめなんじゃないだろうか(指摘する言葉としてはあまいけど)。


008 映像的である響きを印象付け新しい聴衆を獲得した三善作品と読む

第469回読売日本交響楽団定期演奏会
2008年3月10日(月) サントリー・ホール
指揮:下野 竜也 ヴァイオリン:チョーリャン・リン

・三善晃:アン・ソワ・ロアンタン 《遠き我ながらに》 〈創立20周年委嘱作品〉
・バーンスタイン:セレナーデ
・伊福部昭:倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク
・バーンスタイン:〈ウエストサイド物語〉からシンフォニックダンス

それにしても・・・三善、伊福部、バーンスタインの作品が並ぶプログラム、豆もやしとセロリのごまあえ、松尾のジンギスカン、エビフィレオバーガーがテーブルに並ぶよう。三善晃の「アン・ソワ・ロアンタン 《遠き我ながらに》」が聴けるのだから、あとはよろし。開演でいきなり、この繊細で透明で柔らかく弦楽器がぞわぞわと音の絹の糸を空中に放っているがごときの響きが展開し始める。あまりに幽玄に響かせるところなんぞ、「あんた、タケミツかい!」とうれしなみだ目で突っ込みを入れたくなっている。わたしはそもそも欧州完全即興を聴くときに図形が見えたりニューヨークの沸騰ジャズシーンを聴くときに湧き出る温泉のような渦が見えたりするたちなのですが、この響きに陶酔しながらわたしの脳裏に浮かんだのは正直アニメ『ハウルの動く城』の最も静かなシーンだったりして、演奏が終わって「宮崎駿さん、あなたはこの響きをご存知なのでしょうか」と、こころでつぶやきながら拍手している。ひとこと注文をすれば、読売オケはややスコアに頼ってしまった。もう少しだけイントロとエンディングをゆっくり振るかオケを泳がせるようなサジェスチョンがあれば、たゆたうような夢幻な感じをもっと響かせることができたのではないか。楽曲構造のダイナミックさの落差に三善のすごさを認識するが、チェレステの異化はどうか、ピアニストの音の置き方はどうか、もっと上はあったように思う。次にバーンスタイン。バーンスタインについては、かなり見直した。バーンスタインは聴くものではないと思っていた。だけど、このスコアリングはやはり革新的なエキゾチズムの成果だったのだ。バーンスタイン、かなりまじめでインテリなん。残酷なくらいにクールなん。おそらくぜにもうけも。他者を感動させるのにクールに卓抜した技巧的な視点を持つ、という資質では、テレビ番組で大衆をこばかにし続けたマユズミさんと似ている。マユズミはテレビに出ている場合ではなかっただろ、当時は。・・・なんでそんなこと今日のコンサートでわかったんやろ。三善、バーンスタイン、伊福部、と、プログラム史上初共演とも思える3曲を聴いて、コンセプトは映像的、端的にアニメのBGM的であることに気付く。ちょっと待って、20世紀の現代音楽がアニメのBGMの上部構造であるような価値体系はわたしにはない。最初は、読売オケの異なった聴衆を足し算して動員を確保しようという思惑をうがってみたわたしだったが。ただではおきないのか、読売オケ。だけど、ラストの「ウエストサイド物語」は、みごとに日本人っぽかった。日本のジャズメンがバークリーから帰ってきてハードバップを演奏して日本人にだけウケている様相とほぼ同じにおいがした。ちとはずかしかったぞ、読売オケ。ちなみに。バーンスタインは革新だったとして、ポール・モーリアは過激なのですね、あたしの見立てとしては。今日の聴衆、三善作品だけが古びたり懐かしんだりされないでいる響きであったことを発見したはずだと思う。コンサートが終わって「ああ、楽しかった。ねえ。そういえば最初に演奏された曲って、なんかすごくかったですよね?」と、耳の底にひっかかったと思うのだ。


009 鈴木輝昭の器楽作品における古典的でありながら現代的である語法に驚愕する

Point de Vue Vol.II 邦人作曲家の作品によるコンサート 
2008年3月12日(水) 府中の森芸術劇場 ウイーンホール 

・佐藤岳晶 -箏とピアノのための新作-(初演)
・築田佳奈 -チェロとピアノのための新作-(初演)
・新垣 隆 「バルカローレ――辺境―地峡第2番」(初演)
・森山智宏 「Secret Passage」(2004/改訂初演)
・鈴木輝昭 「Dialogue」(1997)
・中川俊郎 「Trans-figuration,?-B」(1983〜2008/初演)
・杉山洋一 「間奏曲?」(2000)
・三善 晃 「マリンバ協奏曲」(1970)

桐朋学園大学音楽学部の皆さんがOBとともに創作を発表しあうコンサート。この日は三善晃の「マリンバ協奏曲」を目当てに出かけた。いよいよ「マリンバ協奏曲」で出てきたのは先週慢心していた窪田翔、カラフルで薄いガウンを素肌にまとっている、スターなのか窪田翔、しかし、演奏はしっかりとしていた、さすがだ。指揮者の青年が全身をもんどりうちながら手を振り回して独走しているのがほほえましい。奏でるアンサンブルも全員一丸の集団大脱走、これはかなり練習したんだろう、音楽を自分たちの手の中にしている熱狂は炎のようだ。カチっとしたマリンバの背後で山火事のようになった三善の響きをばっちり堪能できた。拍手。この日のコンサートで演奏者として優れたものを感じさせたのはクラリネットの檀野直子、ヴィオラの江副麻琴、ピアノの黒田亜樹でした。黒田亜樹のピアノが奏でた杉山洋一「間奏曲II」は、「ほとんど瞬間的にこの作品が出来上がっていた」と作曲家が書いたのは曲の前半までであって後半はコンポジションが息切れしていたし、ピアニストにあの負荷をかける表現はわたしには凡庸な逃げに感じられた。この日聴いた作品では、鈴木輝昭作曲の「Dialogue」が別格だった。パンフレットに自ら「クラリネット、チェロ、ピアノという編成の背後にはベートーベンの顔があり、ブラームスの姿を感じる。豊かな伝統の延長にある現代(いま)を認識し、同時代の言葉を発信してゆく個の在り方、語法を探っている。」と記している。伝統をうけとめた上で創作するこの静かな覚悟といったものを読み取る。だけど、そんな表現こそが最もむずかしいところだと思うし、現代音楽の世界的な大家たちでさえ、自らの語法(発明)とかエキゾチズムとか古典の禁忌とか戦略とかで汲々とするわけでしょう?おおざっぱな物言いだけど。「Dialogue」には耳をみはった。曲が始まったとたんに連れてゆかれた。クラリネット、チェロ、ピアノ、の、旋律の相互関係、古典的でありながら現代的である語法、演奏の緊張関係の必然、息をのんだ。これはスコアリングされているのか?と驚く瞬間が何度かあった。ときに完全即興的感覚さえおぼえた。この作曲家はすごい。演奏者もすごかったのだと思うが。クラリネット、チェロ、ピアノという楽器編成はECMレーベルが得意とするところであるし、このカテゴリーでの自分の判定基準は厳しい。鈴木輝昭の作品は追いかけねばなるまい。


010 奇蹟の日に明治学院で鳴り響いたかけがえのないマタイ受難曲

明治学院バッハアカデミー第47回定期演奏会 明治学院チャペル改修記念 
マタイ受難曲 指揮:樋口隆一 
2008年3月21日(金)  明治学院白金チャペル 

うめぼしをたべたばかりのような表情をしながらカステラをタテに切って小分けにして差し出すような指揮だったのだ。意味不なことを書いてすまない。樋口隆一の指揮は、ドイツで学んだ正統的指揮法とあるが、その方法論以上に、音楽が指揮者の深い思いによって生成していたことにまずは感銘を言いたいのだ。バッハのマタイ受難曲を、改修されたばかりの明治学院チャペルで聴いた。改修前をわたしは知らないけれど、通りの自動車の騒音やら遠くの救急車のサイレンも響いてくるようだったので、おれはもっと分厚い壁にするべきだったと思う、もしくは安普請だな。オルガンの導入予算で逼迫してたのか明治学院。都心にあるチャペルで静寂は困難か、不自然か。この日のマタイ受難曲は、22日の公演が完売し、急遽追加公演となったもの。3月21日はJSバッハの誕生日であり、今年は聖金曜日にもあたる、という、それは何十年に一度という日だったとのこと。そんな日に「意図していない偶然は何かが起こるかもしれない」という恋の予感のような気持ちと、このところの寒さ続きが小休止した白金台は明治学院の夕暮れに人々は集まった。福音史家はイギリスの重鎮ジョン・エルヴィス。合奏団は左右2群に分かれていて、中央にオルガン、チェンバロが前後に並ぶ。合唱団は後方に、4・50名の中高年層の男女が正装で左右いっぱいに並ぶ。そのさらに後方の1メートルほどの壇上に15名のセーラー服の女声合唱団が見下ろすように並んでいる。この15名の声は、マタイ受難曲のテーマで、天上から降り注ぐような天使の歌声だったもので、これはこれでティーンエイジャーの女声合唱の響きは技巧や熟練ではどうもこうも太刀打ちできない代物だ。樋口隆一のゆったりとした祈りを捧げるような指揮に、マタイ受難曲が鳴り響く。バリトン、ソプラノ、テノール、それぞれの個性的な名唱がくりひろげられる。チェンバロの音がやや小さいところもそれはそれでいい。オーボエ・ダ・カッチャという半円形の筒状のオーボエの演奏は難しそうだ、若い女性演奏家は何度も吹き口の部分を外しては状態を整えている、時折大切なところで音をはずしてしまってもいる、それを後方合唱団のおばさんがにらみつけていたりもする、でもそういうこともこのマタイ受難曲の一部なのだ、指揮の樋口はそういうこともすべて抱擁して音楽を前に進めている。観客もまた音楽の中にいて、音楽を支えているのがおれにはよくわかった。テンポがどう、技巧がどう、バランスがどう、というモンダイはここにはない、そういうものではないのだ。演奏する人たちの、集う人たちの生命を鳴らすようにバッハはこの曲を構築した、それこそ祈るようにして。わたしのキリスト教に対する認識は中村とうようのそれと同じであるけれども、この演奏を聴いたあとチャペルに置かれていた新約聖書をご自由に手にして帰りの電車で読んでしまうくらいにこの演奏会には感動した。その後、日経新聞で樋口隆一が著した『バッハの風景』の書評を読んだが、この国のバッハの権威なのだった。この日の指揮のありようを、わたしは断然支持する。来年3月14日にはヘンデルのオラトリオ『メサイア』がここで上演される。


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