UPDATED 06.29.2008
おやじカンタービレ Vol.4 by Niseko-Rossy Pi-Pikoe @ musicircus

<016>「レーベンクロフトと小澤の放つ演奏にはヨーロッパで日常的に楽しまれている音楽の受容される空気が満ちている」

小澤洋介 チェロ・リサイタル
2008年5月21日(水) 東京文化会館 小ホール 

・ボッケリーニ: チェロソナタ イ長調
・ベートーヴェン: モーツァルトのオペラ「魔笛」の『恋を知る男たちは』の主題による七つの変奏曲 変ホ長調 WoO.46
・マルティヌー: ロッシーニの主題による変奏曲
・シューベルト: アルペジォーネソナタ イ短調

そうか、こういう演奏がおそらく音楽なのだ。わたしの聴いたチェロ演奏体験は、ライブは紀尾井ホールでのアンナー・ビルスマで、CDはECMでのトーマス・デメンガがレイテストなので、それを参照点に聴き始めるしかない。それっておれがミルコ・クロコップや佐川幸義と素手で戦うことを比較されるようなことではないのか(意味不)。わたしたちは、表現の突出(もしくは輪郭の明晰さ)とか技巧的な強度、など、で、演奏家の価値を推し測りがちである、ややもすれば。ルックスとか集客力で測るひとたちもいる。小澤さんのチェロ、早いパッセージで駆けるところがふんわりと柔らかく物足りない気がするけど、旋律に至るところでみせる柔らかな音色はなんなんだろう・・・。18世紀のイタリアのチェリストにして作曲家のボッケリーニ、これだけでわたしの耳は幸福感に満たされてしまった。これって、高い音楽性としか言いようがない気がするぞ。こんなふうに音楽は入ってくるものなのかー。と、朗々と歌うような旋律にうっとりとするばかりであったのだ。ピアノのティモシー・レーベンクロフトの、羽根のように軽やかで控えめで優雅な速度を鳴らしているたたずまいが、これがまたいい。お、ピアノのフタ板を20センチくらいしか開けていないぞ。ときにピアノの流れがかすかにしか聴こえなくなるけれども、それが必要なバランスだったりするのか。そうか、物足りないのではなく、チェロが歌うためにそこの部分のピアニシモは柔らかく過ごすのであったか。レーベンクロフトと小澤の放つ音楽に身をゆだねながら、ヨーロッパで楽しまれている音楽の受容される空気ってこれなのだろうか、と思った。たぶんそれがアタリだ。彼は弾きたい音楽を、チェロを用いて音楽に語らせている。彼が主体となって弾きたい、のではなく、彼もまた聴きたい音楽を放っているように弾いている。これは何度も通いたくなる、小澤さんが弾きたいと思った曲によるプログラムは全部聴きたくなる、そういう魅力にあふれている。なのに客席が半分くらいしか埋まっていないぞ。すぐれた演奏家は観客からエネルギーをもらったりするのだ。そういえば、シューベルトの「アルペジォーネソナタ」が終わると、大切な余韻を聴く数秒をさえぎるように「ブラボー!」と叫ぶおっさんがいた。ちょっと待ってくれ。20数年前おれはコンサート会場であまりに拍手が早い客がいたものだから「オマエは音楽を聴きに来ているのか!」とその場で仁王立ちに怒声を浴びせたことがあった。もうおれは若くない。東京文化会館におられる音楽を愛するガイストたちはこういう観客は許さないだろう。アンコール曲直後でも早すぎるブラボーがかかって空気をこわしている。めったに聴くことのできないヨーロッパの空気なのに。こんな幸福なチェリストを聴くことは稀有なことだろうと思う。もっとこういう音楽を愉しむ聴衆は増えるべきだ。


<017>「1曲目に黛敏郎を持ってきたチェリスト宮田大の戦慄の第一歩」

(財)ソニー音楽芸術振興会創設”齋藤秀雄メモリアル基金賞”
受賞記念 宮田大コンサート with ジュピター・カルテット・ジャパンの仲間たち 
2008年5月22日(木) 日本大学カザルスホール 

チェロの公演、二夜連続。宮田くん、ぼくの耳の中のチェロはビルスマとデメンガと昨夜の小澤だ、相手が悪いとしか言いようがないぞ。未来を嘱望される若きチェリスト、宮田大のチェロ・リサイタルは、わたしの耳によって思いっきりアウェーな環境で観賞された。演目を見ておののく。な、なんとこの若者、1曲目に黛敏郎の「文楽」を持ってきているではないか!日本と西洋を斬新で卓抜した技法で融合させた黛の冷徹な才気を封じ込めた無伴奏チェロ曲を、宮田は静かに的確に力強く弾き切った。息を乱さず。これは見事だと言うしかない。この挑発的な第一歩に、チェリストとしての覚悟の射程に、戦慄が走った。そしてこれがすべてであった。続きの3曲は、規定演技的な技巧披露。牛の品評会に出されて回って歩いていたもの。そのあとの3曲はジュピター・カルテット・ジャパンのメンバー3にんをひとりづつソリストにした披露宴は続いた。ここで、第一部が終了。第二部はカルテットが揃ってヴォルフとブリテンを弾いた。ざっくりと言って、シャープに的確に弾ける、という程度。おそらく彼らの師匠ガボールタカーチ・ナジから「あんさんらモーツァルトもブラームスもショスタコも無理どすえ、ピタっと揃えられるブリテンで締めときなはれ」と助言されたに相違なく。若さゆえにピタっと一糸乱れずに決められるブリテン、華麗な動きなわりにこじんまりとした子毛ガニの引き締まった肉の味わい。表現力とか、深みとか、奥行きを一切感じさせない、ゼロからの出発をここからわたしたちは始めます、と、すがすがしく感じるところはあった。ふと考える。彼らは誰に向かって弾いていたのか。関係各位各部署のみなさんは今回しか来ない。これは感謝状だったのか。であれば合点がいく。このストリング・カルテットは、その一糸乱れぬ美しさに、技術的な世界レベルを充分期待できるが、その表現はまだつぼみである。


<018>「教養として説明されることを目的にされたドビュッシーの端正な響きを受信する」

青柳いづみこ ドビュッシー・シリーズ ふたたび in 2008 第2回「ドビュッシーとパリの詩人たち」
2008年5月24日(土) 浜離宮朝日ホール 

・ドビュッシー:忘れられた小唄(ヴェルレーヌの詩による)
・ドビュッシー:ビリティスの歌(ピエール・ルイスの詩による)
・ドビュッシー:6つの古代碑銘(同上・4手連弾)
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲(マラルメの詩による)
・ドビュッシー:フランソワ・ヴィヨンの3つのバラード

そもそもピアノとソプラノという楽曲形式には思いっきりアウェイ感をもってはいる。フランス語を解さないで、おれは何かを感じるのか。いや、米語スラングを解さないでも現代ヒップホップを聴いては(ああ、完全に黒人の才能はジャズにではなくヒップホップに流れているナ)と嘆いてみたりしているではないか・・・。そうさな、コトバを音として音楽として対峙してみようか。ソプラノの野々下由香里、ヴィヴラートがかかるという現象ではなくして言葉が痙攣しているようで美に届いているような感じがする。に対して、青柳いずみこのピアノは、これは端正な演奏である、と、書くのが妥当なのか。ナイフとかガラス細工とか香料とか低温度のオブジェとかを期待するところに、数値の書かれた四角の硬い積み木が置かれたようなとまどい(あくまで比喩だぞ)。美少年愛好ヴェルレーヌ、レズビアン愛好ピエール・ルイスの散文詩という冒険と、巨星ワーグナーのあとを透明でヴィジュアルな鋭利な響きを開拓したドビュッシーのコラボレーション、であれば、やはり陶酔するとか妖しいとか、水とか鏡とかを連想させるピアニズム成分は必要なのではないだろうか、何かが足りないのか何もないのか。このピアニストはレコ芸の特選を5枚獲得しているという。かつて持っていた才気が、無色に変わることはあると思う。おれの耳がレコ芸特選に勝っていたためしなぞないし。3・4曲目は4手連弾の作品で、深尾由美子と下山静香という二人の女性ピアニストが弾いた。硬軟のタイプが極端に対照的なピアニズムでその対比に耳が奪われるもので、これも評価は難しいと感じた。この二人はクロード・ドビュッシー・アンサンブルという名前なのだけど、そのネーミングはどうなのよ、だれがつけたのよ、おれにはすごく安直なはったりに感じる。ざっくりとおれは考えるけれども、存在のギリギリを賭けるような演奏によってでしか、ドビュッシーの狂気なり薫風なりヴィジュアルなりは現れないのではないだろうか。このコンサート・シリーズが教養として説明されることを目的とされていると考えれば、過不足のないところを聴衆に提供する演奏としては適当なものなのかもしれないが。だいたい朝日がソロバンはじいて「ふたたび」とご多忙ないずみこさんにねじ込んだ企画なんだろ?浅い朝日だ、言っとくがおれはそういう聴衆ではない。


<019>「力量のあるソリストが集結したクヮトロ・ピアチェーリが現代を横断して取り上げる弦楽四重奏曲の数々に要注目」

クヮトロ・ピアチェーリ第4回定期演奏会 〜ショスタコーヴィチ・プロジェクト? 
2008年5月27日(火) 王子ホール(銀座) 
大谷康子(第1ヴァイオリン)、齋藤真知亜(第2ヴァイオリン)、百武由紀(ヴィオラ)、苅田雅治(チェロ)

・アウリス・サッリネン:弦楽四重奏曲 第4番 「ペルトニエミ・ヒントリクの葬送行進曲の諸相」(1969)
・林 光:弦楽四重奏曲<レゲンデ>(1989/90)
・ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲 第4番 ニ長調 Op.83(1949)

2005年に結成された弦楽四重奏団。これはすばらしい。個々のメンバーの力量もさることながら、とくにチェロの苅田雅治が放つ祈りにも似た静かな意志に裏打ちされた演奏、この四重奏団から音楽は立ち現れているようだし、その選曲。フィンランドのオストロボスニア地方の民謡を題材にしたサッリネン、天安門事件の犠牲者への追悼という感情と無縁ではないと語る林光、ソ連でジダーノフ批判という前衛芸術批判が行われた中で発表したアレグレット(アレグロでもアンダンテでもなくその狭間のテンポ)に重さを潜ませたショスタコーヴィチ。おれはショスタコーヴィチに言いたいが、この曲の楽想は第4楽章から第1楽章へと進むようにほんとはなっているんだろ、ある種の抵抗するような覚悟のようなものがこのコンポジションの根底にあって、そのロジックをまったく反対にたどって全楽章を構成したのだろ、おれは第1楽章で不覚にも涙してしまったこの情感を第2・3・4楽章はつらつらと時にらんちき騒ぎを模したりしながら後付け説明をしてくれていたんだが。サッリネンも林もすばらしい作品だったが、ショスタコーヴィチの後の時代にその枠組みで創造していると感じた。それだけでかいんだなショスタコーヴィチ。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲をわたしは今まで一度も聴いたことがなかった。このカルテットの演奏だからわかることがあると思った。部屋に帰って調べてみると、クヮトロ・ピアチェーリのこれまでの定期演奏会のプログラム、第1回がジャン・フランチェスコ・マリピエロ(1882〜1973イタリア)、三善晃、ショスタコーヴィチ、第2回がピーター・スカルソープ(1929〜オーストラリア)、松村偵三、ショスタコーヴィチ。第3回がイヴァン・フェデーレ(1953〜イタリア)、入野義朗、ショスタコーヴィチ、という。畳につめをたてたい気持ちだ。次回11月29日はアルフレッド・シュニトケ(1934〜1998旧ソ連)、一柳慧、ショスタコーヴィチである。そいえばぼくの前の席に写真で見たことある一柳さんが座っていた・・・え?一柳さんは75さいですって?どう見ても50代だぞ、あれは単に似たひとなのかな。今日のアンコール曲はショスタコーヴィチの旋律の断片を編集してアンコール用に作曲されたという弦楽四重奏曲、なんかそれって対象をおもちゃにしているようでいやだなと思った。


<020>「ブラームスに言いたい、浮かれモードで不手際でもったいないで余計な第7楽章、を、責めることにします」

日本フィルハーモニー交響楽団第600回定期演奏会
指揮:ジャンルイジ・ジェルメッティ
菅英三子(S)、河野克典(Br) 合唱:日本フィルハーモニー協会合唱団
2008年5月31日(土) サントリーホール 

・ブラームス:ドイツ・レクイエム 

おれはブラームスのドイツ・レクイエムというのは、もっと重厚で、おごそかな迫力があるものだと思っていた。サントリーホールのパイプオルガン前に8列で並んだ合唱団は、なんと総勢、推定241にん。男女比は男1女2。オーケストラはなんか配置が薄そうなんだけど、コントラバスは8台もある。日フィルの記念すべき第600回定演、指揮者はここで奮発の招待指揮者なのか。パンフレットのはじに正指揮者沼尻竜典との契約は終了したとの告知。日フィルは沼尻に見限られたのか、切ったのか。それはさておき。ドイツ・レクイエム。オケの鳴りがいまいち。ジェルメッティの指揮はこないだの樋口せんせいと同じドイツ式のもので、堂々と音楽を奮い立たせようとしている。オケの動きがにぶい。ジルメッティの身振りは空を切るようで、おれにはあからさまにいらだっているように思える。合唱団は・・・、これは烏合の衆なのではないか?人数分の声は響きわたるが、集合的に響きを構築するようでもなく、バラバラな積乱雲のように聴こえる・・・。ジェルメッティの不服が手に取るように伝わってくる。だけど合唱団もせいいっぱいその指揮に応えてみるのだが、制御と統率と鍛錬が噛み合わないリハ不足感いっぱいの伝達不安。無理もない、合唱団員募集情報によると入団費1000円月会費4000円協会費年5000円楽譜実費女性は指定ブラウス9300円負担さらにチケット販売協力ありという音楽版女工哀史、ドイツレクイエムと第九を週2で練習しているのだそうだ、その繰り返された練習の音楽造成感覚と、招待指揮者との準備はいかほどだったのか。8台のコントラバスが出す重厚も、どこかだらしなく拡散している。この日フィルって、どうなの。し、しかし、おれはブラームスを責めたい。この作曲、浮ついている。あとから勉強してみると、彼は書き直すんじゃなく書き加えては最終稿に至ったようだ。宗教改革に呼応してブラームスが意気軒昂に書いたというのだから、まさに公民権運動に沸騰する黒人ジャズミュージシャンのごとくの熱気に冒されていたのに相違なく、第6楽章の盛り上がりでピタリと終わらせる決断も付かずに言い訳のような第7楽章を書いてしまったのだ、ブラームスは。混沌とした公演に、わたしの妄想は暴走してゆく。バリトンの河野さんとソプラノの菅さんが援軍のもらえない敗戦投手のよう、だけどこのふたりの歌唱が実に堂々と聴き応えがあるもので、あとは彼らのバックバンドと捉えてみたときにすべてが許せる気持ちになった。サントリーホール名物のオルガンは時折鳴ってはいたことに気付く程度であって、どうなんだろ、客席で聴いてどうこうあれこれ最終調整していたのか気になります。終演し、お約束のようなカーテンコール儀式が終わって観客は銭湯の開場になだれ込むように出口に向かってゆくなか、ぼくは合唱団のみなさんが最後のひとりが退場するまで拍手する、音楽の遠くの峰にぼくもともにやはり歩むんだ、そして感謝、最前列の初老の夫婦とぼくだけの拍手が会場に響く、ほんとは聴きたかったドイツ・レクイエムが降りますよう。


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