UPDATED 03.31.2007
追悼:ジェームス・ブラウン「ドラマーが崇めた男ジェームス・ブラウン〜ゴッドファザーよ永遠なれ!」ジム・ペイン

 ショー・ビジネスに精通しているだけでなく、ジェームスは音楽にも精通していたが、とくにドラムについては熟知していた。彼がドラムを理解していたのは彼自身がドラマーだったからだが、“ショー・ビジネスでもっとも多忙な男”でいるために、彼には「ショー・ビジネスでもっとも激務に耐えるドラマー」が必要だった。ジェームスのサウンドの決め手はドラマ−だったのだ。「ジェームスはドラマーを中心にバンドを組み立てたんだ」とJBのドラマーのひとりクレイトン・フィリアウは回顧する。「ジェームス・ブラウンのスタイルが変わるたびに、ドラマーも変える必要があったんだ」。
 ジェームスはドラムスの虜になっていたので、ふたり、3人とドラマーを雇った。時には、ドラマーが4人、5人になり、しかも全員が同時にステージに勢揃いすることさえあった。欲しいフィールに応じて得意なドラマーを起用したので、長く激しいショーの流れに応じてドラマーをとっかえひっかえ使うということもあった。その場合、彼は待機中のドラマーにも演奏中と同じ集中力を継続することを要求した。クレイトン・フィリアウは述懐する。「彼に指名されたら直ちに応じられないといけないんだ!」
 ドラマーのクライド・スタブルフィールドによれば、
「バンドが目一杯ノッてるときは、シャーマンの戦車がばく進してくるような凄まじさになるんだよ!」
 それに、彼のコスチュームの素晴しさ!ジェームスの仕立て屋って?衣装担当のゲルト・ソーンダースに脱帽!各地のドライ・クリーナーにも!
 彼のインパクト?
 ダン・アックロイドは証言する。「ジェームス・ブラウンはファンク、ラップ、ハードR&B、ハード・ソウルの創始者だ。彼は神が創造した最高のエンターテイナーであり、魅力的で人を惹き付けるカリスマのひとりだ」
 リトル・リチャードの証言。「彼は革新者であり、解放論者であり、創始者である。ラップ・ミュージックと呼ばれている音楽は全部ジェームス・ブラウンから出てるのさ」
 そして、彼のドラマーがポピュラー・ミュージックのリズムのフィールを絶えず変えていった。

♪ 幼年時代 ― 踊ることと克服すること

 ジェームス・ブラウンは、ジョ−ジア州境に近いサウス・カロライナ州バーンウェルの森の中にあるワン・ルームの掘っ立て小屋で極貧の子として生まれた。
 4才の時に母親に捨てられ、父親はふけてしまったので、叔母のミニーによって、姉妹がジョ−ジア州アトランタ(後に、シン・シティ=歓楽都市と呼ばれることになった)で経営する売春宿に連れていかれた。8才までに彼はすべての人生経験をしてしまう。靴磨きをしたり、ストリート・ダンスをして近くのキャンプ・ゴードンに駐留する兵隊から小銭を稼いだ。ドラムから転向したダンサーとして、バディ・リッチやスティ−ヴ・ガッドの仲間になった。ストーンズのビル・ワイマンは、「ジェームスのダンスはミックと同様すばらしいものだったが、テンポはミックより20倍は速かった」と証言している。
 ダンスは20倍速かったが、洋服がボロボロだったので、「要注意」として学校から自宅へ返された。だから、プロになってからは、1回のショーで3,4回は衣装を変えていた。また、NYアポロ劇場の最後のお別れの時には(ゴールドの棺に入っていた)、キンキラのミッドナイト・ブルーのサテン地のスーツを着ていた。オーガスタでの近親者のためのお別れの時には、黒いスーツに赤のシャツを着ていた。オーガスタのジェームス・ブラウン・アリーナで行われた3回目のお別れ会ではまたお色直しをしていた。
 若い頃のJBは、あらゆる機会をつかまえては演奏していた。地元の教会では人気者だったので、誰もいないときには自由にピアノが弾けたし、オーガスタ・ハウスにブルースマンが逗留しているときには、タンパ・レッドがギターを教えてくれた。
 彼は、説教師のダディ・グレースが本気で説教している姿に打たれるような子どもだった。グレースは東と南の30ケ所以上の町に祈祷室を持っており、ケープを来て台座に座っていたが、長いカーリーヘアでスーツは一張羅だった!!

♪ ヴォーカルとドラム

 ジェームスは、クレモナというトリオを組んで、オーガスタ周辺で演奏を始めた。担当はヴォーカルとドラムだった。まったくの独学の上に、彼のドラムといえば、スネア・ドラムに26インチのパレ−ド用バスドラ、それに金属板から切り抜いたシンバル(どんな音がするか容易に想像がつく)の3点セットだった。右利き用のセットをレフティで叩いていたが、ジミ・ヘンドリックスの影響だろう。トリオのレパートリーは、チャールス・ブラウン、エイモス・ミルバーン、ビル・ドゲッティ、フェイエ・アダムス、ジョー・ターナー、ハンク・バラード&ミッドナイターなどだったが、ジェームスが最大の影響を受けたのはルイ・ジョーダンだった。
 15才の時に、車のホイール・キャップとインテリアから外せるものを盗んで逮捕され、8-16年の懲役!というきわめて不公平な判決が出された。監獄では囚人相手に唄を歌ったり、演奏を聞かせていたので「ミュージック・ボックス」と呼ばれていた。余ったエネルギーはボクシングと野球で発散させた。
 3年の服役の後、1952年に釈放され、歌手のボビー・バードの母親が保証人を名乗り出てジョ−ジア州トッコアのローソン・モータースで洗車の仕事にありついた。ボスに同じ車を2度洗車させられたジェームスは、ご褒美にと車を駆ってドライヴに出掛けたところ、溝にタイヤを取られ車が一回転、危うく刑務所戻りの難は逃れたものの、クビを言い渡される羽目に。ボビーのグループ「ザ・フレイムス」でヴォーカルの仕事を続けることになった。
 リトル・リチャードが町にやってきた時、休憩時間を見計らってジェームスたちはステージに上がり演奏を始めてしまった。リチャードは健気にも彼らを自分のメイコンのエージェント、クリント・ブラントリーに紹介、クリントはグループ名を「ザ・フェイマス・フレームス」と変えてしまった。リチャードには「お前らは、本当に有名になる前に自分達で勝手に有名にしてしまった!」とからかわれる始末。
 ジェームスとグループは時にはリトル・リチャードのトラを務めたが、ブラントリーによればジェームスはリトル・リチャードに成りきって歌っていたようだ。
 グループはキング・レコードと契約、デビュー・シングル<プリ−ズ、プリ−ズ、プリーズ>を録音したが、社長のシド・ネイサンは「馬鹿げた歌だ。同じ言葉を繰返して歌っているだけじゃないか!」と嫌ったが、結果は、ミリオン・セラーとなり、ジェームスはテイクオフ、快走を始めた。
 ハンク・バラードがジェームスをブッキング・エージェント、ユニバーサル・アトラクションズのベン・バートに紹介、ベンは連続60本!のツアーをブッキング、ジェームスとの長い関係がスタートした。

♪ 50年代のR&Bリズム

50年代後期から60年代初期にかけてのR&Bのリズムには4種のタイプがあったといわれる:

1- 8分音符の三連とバックビートを基本にしたスローからミディアム・テンポのバラード。<プリーズ、プリーズ、プリーズ>のリズムがこれにあたる。
2- アップ・テンポのゴスペル・リズム。右手は4分音符の早い2ビート・リズム、スネアで2拍目と4拍目にアクセントを入れ、フィールはスイング。好例は<シャウト&シミー>。
3- 8分音符をロック・フィールで打つ、ニューオリンズで始まったアフロ・キューバン風リズム。右手で8分音符をストレートで打ち、ドラムセットでコンガのリズムをまねる。<スィンク>や<ホールド・イット>がその例。
4- シャッフル。<デヴィルズ・デン>がその例。

♪ ジェームスとナット・ケンドリックがドラムをダブル・キャスト

 僕が初めてハイ・パワーのJBショーを観たとき、ナット・ケンドリックがドラムを叩き、<マッシュト・ポテト>ではヴォーカルもフィーチュアされていた。ナットにドラムの席を譲ったジェームスはステージ裏でドラムを叩いていたが、オカズもきっちり決め、ファンを喜ばせた。
 ジェームスは、シングル<ホールド・イット>(ビル・ドゲット)ではヴォーカルの他にドラムも担当。インストの<ナイト・トレイン>では、ナット・ケンドリックがテイクが始まろうとした時にトイレに立った。しびれを切らしたジェームスは、スタンバイできていたのでドラムを自分で叩いてしまった。曲は8分音符のグルーブでナットの演奏にとても似ていた。これは重要なポイントで、ジェームス・ブラウンのドラマーたちはお互いに学び合っていたことを示している。
 ビートが次第に複雑になっていくと、叩き方がドラマーからドラマーへと伝えられていった。その結果、ドラマーのサウンドが画一化され、ドラマーが変わっているにも係わらず、ひとつのバンドがひとりのドラマーで通した、と誤解されるケースも出る始末だった。
 <ナイト・トレイン>では、ジェームスはナット・ケンドリックに弟子入りしていたと思えるほど。

 <ナイト・トレイン>は、ジェームスがドラムを叩いた最後のスタジオ・レコーディングだったが、ライヴ・ショーでは、本職のスーパー・ファンキー・ドラマーの羨望の眼を尻目に、スポットライトを浴びながら1,2曲ドラムを叩くことを止めなかった。
 ナット・ケンドリックは、ジェームス・ブラウン初期の多くのシングルで演奏したソリッドでクリエイティヴなドラマーである。最大のヒットは<スィンク>で、この曲ではナットは、かなりストレート・フォワードな8ビートを叩いていたが、キックで1拍目にアクセントを付け、2拍目でフォローしたり、数多いJBドラマーの中では誰も試みたことのないストレートな8ビートにシャッフルを混ぜたようなフィールを随所に織り込むなどの技を見せていた。
 ナットがジェームス・ブラウンの伝説に寄与したもっともユニークな例は、『ソウル・プライド』というコンピに収録されている<ソウル・フードPt.1&2>だが、彼がこの曲で叩き出したグルーヴが後に現れる多くのJBドラマーに影響を与えている事実はほとんど知られていない。つまり、2小節ビートの1小節目の1拍目ではなく4拍目に強力なアクセントを入れ、16分音符と32分音符のゴーストを残すやり方である。

♪ クレイトン・フィリアウとジェームス・ブラウン・ビート

 ジェームスは旅を続けながらショーを洗練させていった。彼が有名なマント・ショーのヒントを得たのは、旅先のホテルのテレビで見たマントを付けたレスラー、ゴージャス・ジョージだった。ターザンのようにロープにぶら下がってステージに登場するアイリー・ブラザースのショーにも強力な印象を得た。
 1962年にはジェームスは新しいドラマーを迎えていた。フロリダ州ジャクソンヴィルでエッタ・ジェームス・バンド出身の若いドラマーからシットインの申出を一度は断ったジェームスだったが、後にその男クレイトン・フィリアウのプレイを聞いて驚きを隠せなかった。1ヶ月後、ジェームスはクレイトンに航空券を送り、ワイオミング州シェイーンでバンドに加わるように指示していた。フィリアウによれば、「飛行機から降りると白人とインディアン以外、何も見えなかった。雪が3フィート積っていた!」
 フィリアウがハイスクール・バンドで吹いていたのはトロンボーンで、ドラムに転向したのは軍隊だった。ヒューイ“ピアノ”スミス・バンドのドラマー(おそらく、チャールス“ハングリー”ウィリアムス)から習ったニューオリンズのリズムとフロリダA&Mのマーチング・バンドのリズムをミックスし、のちに「ジェームス・ブラウン・ビート」として知られるようになったビートを考案したのだった。彼がこのビートを初めて叩いたのがシングル<アイ・ガット・マニー>だった。

 ジェームスはクレイトンのユニークなリズムを独占したかったので、彼と専属契約を交わして他のバンドでの演奏を禁じ、また他のドラマーに叩き方を伝授することも好まなかった。しかし、クレイトンはジェームスのこの方針を受け入れず、真面目な生徒には積極的に教え、のちにJBのドラマーの座に着くクライド・スタブルフィールドにはショーそのものを教え込んだ。バーでは飲みながらハミングでドラミングを教えたが、クライドが間違えると拳骨で肩にパンチを入れ、飲み代をおごらせた。
 フィリアウは、ジェームス・ブラウンが全米に向かってブレイクした1962年の大ヒット、『ライヴ・アット・アポロ』の唯一のドラマーだった。このアルバムは究極の“ショータイム”パフォーマンスを収録したもので、ショーの最初から最後まで、JBのショーマンシップとクレイトンの創造的なドラミングをノンストップで伝える内容だった。フィリアウによれば「バンドの出来は最高だった」。
 キング・レコードに拒否されたためジェームスが自費で制作した『ライヴ・アット・アポロ』は66週間にわたってチャートを賑わし、音楽的にも大きな影響を与える結果となった。
 クレイトンはジェームスと口論することもあったが、ジェームスを心から尊敬しており、彼の頭の中で鳴っている音楽を実際の音楽として再現できることを誇りに思っていた。「彼が演奏して欲しい内容を自分に伝えるには一度で充分だった。ハミングや手振りで示してもらえれば、彼が望んでいることをたちまち理解し、彼に演奏して聞かせることができた」とクレイトンは言う。
 クレイトンはまた必ずしも小節ごとにアクセントを入れる必要はないと考えていた。「僕の音楽教師だったレイノルズ・デイヴィスから教えられたことだけど、アクセントを入れる場所さえ分かっていれば、キックでなくても良いし、スネアでなくても良いんだよ。シンバルでも良いんだ。もし入れ損なったら、アップビートでも構わないんだ。場所さえ間違えなければね!」
 ジェームスが初めてクレイトンを客の前で評価したのは何年も経ってからだった。コンサートのステージにクレイトンを上げ、「この男、ミスター・クレイトン・フィリアウがファンクの何たるかを示したんだ。この男がいなかったら今日のジェームス・ブラウンは存在しなかっただろう」と讃えた。ゴッドファザーを支えるために激務をこなしてきた何人ものサイドメンのひとりが正当な評価を受けた極く稀な一例だった。

関連リンク:
http://www.jazztokyo.com/rip/james_brown/brown.html

お次は:メルヴィンとメイシオのパーカー・ブラザース(Part2に続く)

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