『三橋千鶴/キャバレー 〜 クルト・ワイル・トゥ・ウィリアム・ダックワース』
Geisha Farm MSM - 60105
三橋千鶴 vocal
矢沢朋子 piano、synthesizer、arrangement、
根本和典 sound programming (1、15、16)
矢沢朋子 sound operator
1.Applause 2.Speak Low ( 1943 ) 3.Bilbao Song ( 1929 ) 4.Sex - Appeal ( 1930 ) 5.Illusions ( 1948 ) 6.Peter Peter, komm zu mir zuruck ( 1929 ) 7.Sous le ciel de Paris ( 1951 ) 8.The Letter ( 1990 ) 9.Standing Still
( 1991 ) 10.Six O' clock 11.If Love's No More 12.The Stranger 13.Freilingslied 14.Always or the Children or Whatever 15.Die Kleptomanin ( 1931 ) 16.Foot Steps
2002年4月、2003年3月、SFOスタジオ録音
2000年3月10日、Mandala(東京・青山)でのライヴ録音(3、4のみ)
本作の主人公たちの演奏(演唱)を初めて聴いたのは1年少し前の昨年3月末、音楽家援助機関からの要請で足を運んだ「 Electro Acoustic Music 」というコンサートにおいてであった。インドネシア生まれでブライアン・イーノやフィリップ・グラスらと並ぶコンテンポラリー・ミュージックの作曲家トニー・ブラボウの作品を紹介するとの触れ込みにも心が動いた。その日最も強く印象づけられたひとつが実はコンサート劈頭で、紹介された初来日のウィリアムス・ダックワースの作品、『 Their Songs 』と『 Simple Songs about Sex & the War 』で、それら作品の日本初演にあたったのが表記の三橋千鶴と矢沢朋子だった。そんな縁から後日送られてきた資料に混じって、この『キャバレー』があった。からくりを明かせば、ここに取りあげた『キャバレー』はすなわち、2003年に世に出たCDの再発盤である。再発作品をあえて選んだのは一聴に値する純粋に優れた内容であることに加えて、わが国の音楽界や音楽ジャーナリズムから冷淡に取り扱われることが多いこの種の作品の中でも、上質の1枚としての価値をリスナーに喚起したかったからにほかならない。
「キャバレー」とは、ミュージカルの題名ではない。20世紀に入って間もないパリの下町モンマルトルで隆盛を極めたステージ付きのレストランやクラブのこと。舞台ではやがてフレンチ・カンカンを生んだダンス、コメディー、今日でいうシャンソニエなどが上演され、「シャノワール」や「ムーラン・ルージュ」などのキャバレーは絵画や音楽家たち芸術家のたまり場となった。そこにはロートレックやルノワール、サティやピカソらがいた。一方ドイツでは、文学的なバラエティー・ショーとして全盛期を迎え、いわばドイツ寄席ともいうべき” カバレット "として大衆の間で人気を博した。20年代末に現れて脚光を浴びたクルト・ワイルや戯曲家ブレヒトらはこの流れから生まれた才人だった。
冒頭で少し触れたウィリアム・ダックワースは60代半ばの米国の作曲家。吹奏楽の分野で名が通っているらしく、近年の出版作品に「 Rock of Ages 」など5曲がある。先記コンサートのプログラムに寄せた横井一江氏のノートには、「アメリカなどでは今でも作品が書かれ、ひとつのジャンルとして定着しているようだ」とあるが、寡聞にして私は知らなかった。しかし、そうであればこの表題の意味やこのCDの意図が明瞭になるだろう。本作の掉尾を飾る「シンプル・ソングス」(10〜14)を聴くと、なるほどこれが現代のカバレット・ソングだと納得することもできる。歴史的カバレットの持味は第1に歌詞にこめられた反権力の精神、時代や社会に向けた風刺にあり、それを踏まえれば歌詞を理解した上で聴くことが望ましい。このCDがどんなタイプの音楽を収めた作品であるかがおおよそはお分かりいただけたと思う。
中身に移る。出演者はヴォーカリストとピアニストの2人だけ。いたってシンプルだが、聴けば聴くほどよくできている。お世辞抜きに感心した。
「ワイルからダックワースまで」とあるように、1930年代初頭のドイツで一世を風靡したカバレットから、シャンソンのヒット曲 7「パリの空の下」などを挟んで、ダックワースら現代のカバレットで構成した全16曲(オープニングとエンディングの2トラックは短い効果音)からなるCDだが、単なる新旧のカバレット・ソング集ではない。全16曲のアレンジ、打ち込み、録音後のCD全体のミックス時の助言や指示はほとんどピアノの矢沢朋子の手で進められたようだが、それにしても歌詞と表裏一体をなす楽曲の表現に両者が綿密に策を練り、分けても矢沢がアレンジを含むサウンド構成に異能ぶり!を発揮したことが、本作の成功を導きだしたといってもいいのではないか。矢沢はバルトークからコンテンポラリー作品を得意とするクラシック分野の優れて奔放なピアニストだが、セシル・テイラーらのジャズをも好み、佐藤允彦に師事してインプロヴィゼーションを学んだこともあるとか。ここでも即興演奏はしないものの、随所にジャズ的ハーモニーやリズミック・センスをまぶしたアレンジ(スコアの再構成ないし書き換え)で、宙を飛び跳ねるような活気をもたらしている。少なくともジャズをよく知る彼女の八面六臂の活躍がなければ、この1作はありえなかった。それだけは疑いない。
彼女らしいそのオープンな開放的気分と音楽的センスを発揮した好例のひとつが、たとえば6の「ペーター、ペーター」。カバレット全盛期を代表するフリードリッヒ・ホーレンダーの作品(ここでの作曲はルドルフ・ネルソン)で、30年代初頭にかのマレーネ・ディートリッヒの歌った録音は当方も大好きで繰り返し聴いた。恋人を捨ててほかの男に走った女性がそれでも捨てたはずの恋人を忘れられずにいる女心をセクシーかつ物憂げなニュアンスで表現して聴く者を魅きつけたディートリッヒ版とは、また趣のまったく違う所在無さげではあるが満ち足りた生活に中にアンニュイの影を落とした女を巧みな演技力?で歌う三橋千鶴の好唱が印象的なこの「ペーター」が、何とここでは「猫」! かつての恋人を、70年以上経った現代では彼女の同居相手の猫にしてしまったこの逆転の発想ともいうべきシチュエーションに、思わず苦笑、いや感心した。生みの親が気持よくキャバレーでピアノを叩き、猫の鳴き声まで模してみせた矢沢だとすると、すべてのサウンドづくりに采配を振るったのも間違いなく彼女だろう。まさに変幻自在のサウンド・オペレーターだ。
日本の声楽家がオペラにしろリードにしろ日本語(訳詩)で歌うとき、どうしてああも意味不明の言葉にしか聴こえないのか。美空ひばりの歌なら目を閉じて聴けばときには目頭が熱くなる同じ日本語が、彼らの発声にかかると不鮮明な言葉にしか聴こえないことが多く、私は彼らの口から発せられる歌詞に要らぬ神経を集中する癖がついてしまった。それでも半分理解できればいい方だ。周りにはクラシックの唱法、特にベルカントと日本語の相性が悪いからだとうそぶく人もいるが、もしそうなら日本語をふさわしく響かせる唱法を見つける努力を誰もしていない(ように見える)のは声楽家たちの怠慢ではないのかとさえ思うことすらある。明治維新における文明開化のなれの果て、と苦笑するしかないのだろうか。こんな脱線をあえてしたのも、本作での三橋の歌唱、特に声楽の訓練を受けた人とは思えない明快な日本語の響きと表情変幻の活きいきした交感が素晴らしかったからである。ところが、意外や彼女は音楽学校で声楽を修めた人だった。本作を黙って聴かせたらミュージカルのさわり集と考える人もいるかもしれないが、ジャズでは馴染みの2「スピーク・ロウ」のオーソドックスな唱法から、同じワイルの3「ビルバオ・ソング」におけるロートレックが描いたムーラン・ルージュの色香溢れる場面を想起させる多彩な声、そして日本語の訳詩で歌う4、5、6のホーレンダー作品(作曲)のユーモラスでセクシー、ときにけだるい表現の幅広さなどは、この種のヴォーカリストとして三橋がいかに傑出した存在であるかを示している。特に、まったくのソロによる5「イリュージョンズ」が、かつてマリリン・モンローがケネディ大統領の誕生祝いに歌った「バースデイ・ソング」を彷彿とさせるのも愉快。ダックワースの難曲12「ザ・ストレンジャー」で音程がぶれた点以外は予想を覆す快唱集といってよい。
舞台に登場する主役の靴の音1で始まり、退場する主役の靴の音が消えていく16で幕が下りるこの『キャバレー』。まさにCDシアターともいうべき気分満点の作品だ。自主レーベル「Geisha Farm 」の第1弾だった本作は、米国の「モンロー・ストリート」からも発売されたとか。矢沢みずから現代 ”キャバレー・ソング”の決定版と書いていたが、決して誇張ではない。聴けばすぐに分かる。日本からこんな快作が生まれるとは思ってもみなかった。JT
(悠 雅彦)
編集部註:
* Geisha Farmの他のタイトルと同様、本作もダウンロード配信がスタート。世界各国に配信するためアルファベットで登録されているので、検索はアルファベットのみ可能。
また、携帯用「着うた」での配信も始まっている。こちらの携帯各社ごとのダウンロード方法は下記サイトに詳しい。
http://recochoku.jp/site/sound.html