![]() デレク・ベイリー Derek Bailey 1930—2005 Photo: Courtesy of European Free Improvisation Pages http://www.shef.ac.uk/misc/rec/ps/efi/efhome.html |
追悼 デレク・ベイリー ■『デレク・ベイリーそしてSABU、ブロッツマン〜「足穂」の想いで』望月由美 ■『宙吊りにされたサウンドの軌跡』横井一江 ■デレク・ベイリー・インタヴュー |
![]() Pieces of Guitar |
横井一江
1930年1月29日イギリスのシェフィールド生れ、2005年12月25日ロンドンの自宅で運動ニューロン疾患による衰弱のため死亡、享年75才 。
デレク・ベイリーの訃報に接して耳の記憶から甦えったのは、即興演奏家として云々ということより、ギターそのものの音色の美しさであった。彼ほど見事に、そして完璧にジャズから脱却し、また、イディオマティックな音楽からギター・サウンドを切り離してしまった音楽家はいないだろう。音楽を解体するようにイディオムを回避する演奏の独自性は、実はギターという楽器の中に回帰していくもので、ギターという楽器の特質から生まれ出たものに他ならない。 「この地球上にデレク・ベイリーのように演奏する者はいない。(アンソニー・ブラクストン)」 フリー・ミュージック・プロダクション(FMP)のボス、ヘルマ・シュライフからデレク・ベイリーの死亡を伝えるメールの冒頭に、ブラクストンの言葉が引用されていた。短いこの一文は、ベイリーの音楽性を見事に言い表している。 ベイリーは、サウスヨークシャー州の中心都市シェフィールドで労働者階級の家に生まれる。日本ではあまり馴染みがないが、産業革命によって鉄鋼業で発展した都市だ。少し前に公開された映画『フル・モンティ』(1997年イギリス)の舞台となったのがそこである。また、ヒューマン・リーグやキャバレー・ボルテールなどをニューウェーブ・シーンに輩出している大学の街だ。ベイリーのおじはプロのギタリストで、街で最初のエレクトリック・ギターを弾いた一人。音楽をC.H.C.ビルトクリフに学ぶ。20才過ぎには、既にプロとしてダンスバンドやナイトクラブ、またラジオでギターを演奏するプロ・ミュージシャンとして生計を立てていた。 ローカルな職業ミュージシャンだったベイリーが、フリー・インプロヴィゼーションに向かうきっかけは1963年に訪れる。仕事を通じて知り合ったジャズ・ドラマー、トニー・オクスレーと当時まだシェフィールド大学で哲学を学ぶ学生だったベース奏者ギャビン・ブライヤーとの出会いである。3人はジョセフ・ホルブルック・トリオを結成、毎月定期的に演奏活動を始める。ジョセフ・ホルブルックはコックニーのワーグナーと評された19世紀の作曲家で、命名したのはブライヤーズ。だが、彼らがその曲を演奏することはなかった。演奏の場となったのはザ・グレープスという店で、30人から40人のコアなファンが毎回聴きにきたという。いつの時代もそうであるが、新しい胎動はこのような小さなスペースで生まれる。現在も世界のどこかの小さなスペースで、何かをクリエイトしようとするミュージシャンが人知れず試行錯誤をくり返しているのかもしれない。 このジョセフ・ホルブルックがどのような演奏をしていたか。現在聴くことの出来るのは<マイルス・モード>一曲のみだが、当時、彼らが最もプログレッシヴだと思っていたジャズ、ビル・エヴァンスやジョン・コルトレーンの曲などを演奏していた。昔を回想してトニー・オクスレーが「彼は当時、たぶん今もジム・ホールが好きだったと思う」(注1)と語っている。確かに、ジャズ・ギタリストの中でジム・ホールの音色は際だったものがあったことを考え併せると納得がいく。また、ジョン・ケージ以降の動きも含め、現代音楽から多大なものを得る。ベイリーの初期のソロ演奏を収録したCD『Pieces of Guitar』(Tzadik TZ7080) のノーツで自らアントン・ヴェーベルンから強い影響を受けたと記している。モードによるアドリブから現代音楽などを触媒としてイン・イディオマティックな即興演奏へ、音楽は実にゆっくりと変化していき、1965年には最初に完全即興演奏に到達したとImpetus誌のインタビューでベイリーは語っているが、同時にポスト・ヴェーベルン的演奏とでも言うべきハーモニクスや音色の扱いもこのような試行錯誤の中から創られたといえるだろう。 1966年にこのトリオが解消された時には、アメリカの音楽であるジャズから独自の即興演奏へ既に脱却していたと考えられる。その後、三人三様に音楽の道を歩むが、32年後、トニー・オクスレーの60才の誕生日に再会したことがきっかけで、その年にジョセフ・ホルブルック・トリオでのコンサートがケルンで行われたというのは、どこかほほえましい。当然のことながら、32年前とは全く違う演奏であったということは疑う余地もない。 |
![]() Karyobin |
ロンドンに出たベイリーは、フリー・ミュージック・シーンのキーパーソンの一人であったジョン・スティーヴンスのスポンテニアス・ミュージック・アンサンブル(SME)に加わり、SMEの代表作『Karyobin』 (Island)にも参加した。エヴァン・パーカーに出会ったのもこの時期だ。二人でリハーサルを始め、そこにジェイミー・ミューア、ヒュー・デイヴィスが加わるかたちでミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニー(MIC)が結成される。このグループで特徴的なのはエレクトロニクスのヒュー・デイヴィスが加わっていること。パーカーによると「電子音楽やライブ・エレクトロニクスも用いてもっと音楽を拡大したいという考えから、MICが始まった」(注2)という。この時代、電子音楽に対して大きな興味を示していたことは、イギリスのミュージシャンに特徴的なことだ。ベイリーは他にもこの時代を象徴する幾つかのプロジェクト、Iskra 1903などにも参加している。
70年初頭にはフリー・インプロヴィゼーションは、ジャズからはもう遠く離れた地平に辿りついていたといえる。もっともベイリーは、「自分にとってのジャズは1955年に死んだ」(注3)と言い放っている。1955年というのはチャーリー・パーカーが没した年であり、それ以降のジャズは興味がないと。この言葉はベイリーの音楽的嗜好を表していて興味深い。しかし、皮肉にも即興音楽もジャズのモダニズムであったビバップと同様、フリー・インプロヴィゼーションが刺激的な時期は永遠に続かず、クリシエの束縛からは免れることは出来なかったのだが。 Incus Recordsを設立しようとベイリーに提案したのはオクスレーだった。友人のマイク・ウォータースが資金的な面で協力し、そこにパーカーが加わるかたちで1970年に始まった。イギリスで最初のミュージシャン・レーベルである。60年代の後半から、ドイツのFMPやオランダのICPなどミュージシャン自身がレコード・レーベルを立ち上げたように、大きな時代のうねりの中で、これは必然的な動きだったといえよう。後にパーカーもオクスレーも離れ、ベイリーのパートナーであるカレン・ブルックマンが主体となって運営し、今日に至っている。 1976年には即興演奏家の“プール”をカンパニーと名付け、毎年カンパニー・ウィークを主催し、開かれたネットワークを演奏活動に結びつける。その背景には1960年代後半から広がった即興演奏家同士の付き合いが、ネットワーク化されていったことがあるだろう。各国のミュージシャンを積極的に呼び、様々な組み合わせで即興セッションを試みたカンパニー・ウィークは、フェスティヴァルというよりも即興音楽ならではの音楽創造の現場そのものである。これは一種の組織論であり、即興音楽の現場におけるベイリーのヴィジョンを具体化したものであり、彼の即興戦略にも重なるといえる。17年続いた定期的なカンパニー・ウィークとは別にロンドン以外の場所、ニューヨークや日本でもそれは行われ、参加したミュージシャンはジャンルや世代を超えかなりの数になる。それはまたベイリー自身の共演者の広がりとも一致するのだ。 しかし、ベイリー自身、認めているように「即興音楽のよい時代は終わった」(注4)といえる。どのような音楽、ディキシーにしろビバップにしろ、最もその音楽が生き生き活気づいていられるのは7、8年であるという彼の見解は当を得ている。即興音楽が出現した時代は、社会的にも異議申し立てをする対象が存在し、まだ“前衛”という言葉が有効であった。だが、即興音楽もやがて動脈硬化を起こし始める。その手法は新たなイディオムを産み出し、その限界も視野に入り始める。それを回避するかのように、ベイリーは異なったジャンルやずっと年下の世代のミュージシャンとも積極的に共演し続けた。80年代、ポスト・モダンの申し子ともいえるジョン・ゾーンと出会ったことも大きいだろう。彼を通じてニューヨークの音楽シーンと関わりを持ったことは双方に少なからぬ刺激を与えたと考えられるからだ。「ソロで演奏することは二義的なもので、演奏するということは他者と演奏することだ」(注5)と語っているように、即興演奏は他者との関係性の中で創造されるものである。彼にとって重要なことは相手が、即興演奏家であるかどうかではなく、興味を持てる演奏家であるかどうかということにつきるのだ。即興音楽の新しい世代、例えばThe Wire誌が“ロンドン・サイレンス”と称したミュージシャン達、ロードリ・デイヴィスなどとも共演していることに驚く必要はない。ベイリーの音楽に少なからぬ関心を示す若い世代も多いのだ。それもそのはず、“音響派”などという形容詞が出現する何十年も前から類いまれな音響的なアプローチを行っており、亡くなるまで演奏性の中で即興演奏を追求したことを考えると、サウンド戦略の転換によって新たな領域を切り開こうとする世代にとって、ベイリーはひとつのメルクマールとなり得るからだ。 |
![]() Carpal Tunnel |
2003年からベイリーは、最愛の街バルセロナに移り住む。しかし、残された時間は長くなかった。最後のCDとなった『Carpal Tunnel』(Tzadik TZ7612)では、既にピックを握ることが出来なくなったため、ピックなしで演奏するための練習を重ね、それまでとは異なった手法で演奏。当初診断された病名、手根管症候群がそのままタイトルとしてつけられている。ベイリーは最後の最後までギタリストであり続けたのだ。
空間に放たれた音の断片を追いつつ、そのプロセスを辿りながら、私は今、ベイリーがサミュエル・ベケットを好きだったということに妙に納得している。そして、散逸したサウンドの中にその姿を再び見たような気がしたのだった。
注1:Ben Watson, Derek Bailey And The Story Of The Improvisation, Verso, 2004 注2:エヴァン・パーカー・インタビュー『ジャズ批評108号』ジャズ批評社 2001 注3:Derek Bailey Interview, The Wire Issue247, 2004 注4:Derek Bailey Interview, The Wire Issue247, 2004 注5:Derek Bailey Interview September 2001, http://www.allaboutjazz.com |
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