UPDATED 7.26.2015

追悼 オーネット・コールマン
R.I.P.:Ornette Coleman

追悼 オーネット・コールマン Ornette Coleman 1930-2015
photo:courtesy of Jazz Promo Service, NY


Ornette Coleman (sltosax violin trumpet composer)
March 09,1930 - June 11, 2015

オーネット・コールマン
テキサス州フォートワースの生まれ。14歳でアルトサックスを手にし、チャーリー・パーカーの影響の下、南西部のR&Bバンドで仕事を始める。1959年にドン・チェリーとレノックス・スクール・オブ・ジャズに学んでいるが、基本はLAでエレベーターボーイなどをしながらの独学(しかも、理論書を誤読したり我流に解釈していたという)。彼の異能を認めたジョン・ルイスの計らいで、1958年に『サムシング・エルス!!!!』(Contemporary)でレコード・デビュー。続く『Tomorrow is the Question!』(Contemporary)、『The Shape of Jazz to Come』(Atlantic)と賛否両論を巻き起しながらも、欧州を中心に評価が高まる。1960年に発表した『Free Jazz』の集団即興演奏がシーンに大きな衝撃を与えながら、1962年から3年間シーンから身を引きヴァイオリンとトランペットの習得に励む。ジョン・ルイスpやガンサー・シュラーの提唱した“サード.ストリーム・ミュージック”に興味を示し『アメリカの空』(1972)を制作するが、その過程で“ハーモロディクス”という概念を提唱、ハーモニー、メロディ、速度、リズム、キー、拍子、フレーズなど音楽を構成するあらゆる要素を等価とみなした。1972年のモロッコへの取材旅行でアフリカのリズムに目覚め、1975年、ファンクやロックの要素を取り入れたエレクトリック・バンド「プライム・タイム」で大きく変貌、『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』(1976)に結実させる。数々の試練を経ながら1985年、パット・メセニーgとのコラボ作『Song X』 (Geffen) を完成させ、続くツアーで最大の聴衆を獲得するに至理、“ハーモロディクス理論”の究極の精華とみなされた。
作曲の才にも恵まれ、1959年の『The Shape of Jazz to Come』に収録された<ロンリー・ウーマン>を始め多くの曲が愛奏されている。
来日公演は1967年のトリオ以来プライム・タイムなどで何度か経験しているが、1998年には渋谷オーチャードホールで大作<アメリカの空>を演奏している。
2001年、「高松宮殿下記念世界文化賞」の「音楽部門」の受賞者に選ばれ、金メダルと1500万円が授与された。
ジャズ評論家ハワード・マンデルの言葉を借りれば、「オーネットはフリー・ジャズを演奏したのではない。ジャズを従来の縛りから解放した(free)」革命児といえよう。

1. 悠 雅彦 Masahiko Yuh
2. カール・ベルガー Dr.Karl Berger
3. ロベルト・マゾッティ Roberto Masotti
4. オスカー・デリック・ブラウン Oscar Deric Brown
5. 杉田誠一 Seiichi Sugita
6. 望月由美 Yumi Mochizuki
7. 剛田 武 Takeshi Goda
8. 常盤武彦 Takehiko Tokiwa
9. 小橋敦子 Atzko Kohashi
10. 稲岡邦弥 Kenny Inaoka
11. メモリアル・サービス Memorial Service

1. 悠 雅彦 Masahiko Yuh

悠々自適 Vol.66 オーネット・コールマンを追悼する
http://www.jazztokyo.com/column/editrial01/v66_index.html

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2. カール・ベルガー Dr.Karl Berger

追悼 オーネット・コールマン
オーネット・コールマンとクリエイティヴ・ミュージック・スタジオ

オーネット・コールマンについて言葉を紡ぐのは正直なところ容易ではない。彼の存在があればこそわれわれが此処ニューヨークにいるのであり、今の活動を続けていられるのだから。1971年、私とヴォーカリストであり詩人、そして何より私の生涯の伴侶であるイングリード・セルツォが非営利団体としてクリエイティヴ・ミュージック・ファウンデーションを設立するにあたって手を貸してくれたのがオーネット・コールマンだったのだ。「問題ないよ。君らが非営利で行くんなら僕は営利を目的とするよ」、当時オーネットが僕らに投げかけた言葉だ。

オーネットの言葉はいつも強力で示唆に富んでいる。彼の音楽そのものだ。語り口の柔らかさと当意即妙さには唸らされる。誰もオーネットのように語れる者はいない。それは彼が演奏と同じやり方で語るからだ。つまり、まるで真っ当に始め(メロディ)、途中で、あるいは次の流れの途中でまったくあらぬ方向に向きを変えてしまう(たとえば、キーを変えてしまうように)。どこまでもある議論にこだわり続けようとすると彼はこういうだろう。「少し突き詰めて考えるのを止めてご覧。気分が楽になるはずだから」。

僕らのオーネットとの最初の出会いは、60年代初期のオーネットのアルバム『This is Our Music』(Atlantic)だった。僕らの反応は素早かった。「これって、僕らの音楽だよね!」あまりにも明白だった。「だけど、どうする?」当時の僕らは、僕の故郷ハイデルベルクとパリを行ったり来たりの生活。ハイデルベルクには由緒ある「Cave 54」に連夜出演し、カルロス・ワードやドン・エリス、レックス・ハンフリーズらと相見え、パリのジャズ・シーンは目覚しい展開を見せていたのだ。他でもない、エリック・ドルフィーと出会ったのもパリのクラブだった。1965年4月、5時間かけてパリに出かけたその日、「バターカップ・カフェ」でドン・チェリーの演奏を目の当たりにしたのだ。彼のエネルギーに打たれた僕は思わず彼に歩み寄り、自己紹介を済ますと、「あなたと演奏したいのです」と申し出たのだ。彼は微笑んでから僕に住所を手渡し、「明日の午後4時からリハーサルがある」と告げた。それをきっかけにドンとの共演が始まり、ヨーロッパの都市を巡り、ついにはNYへと出奔することになった。NYでは『シンフォニー・フォー・インプロヴァイザーズ』(Blue Note)の録音が待っていた。1966年9月のことである。思い返してみるとドンの行動は高度に本能的で、パリでのぽくらの唐突な出会いも彼にとっては決して特別なことではなかったのだ。

突然、僕は“ハーモロディック・ミュージック”の嵐の只中に放り込まれることになる。ドンが僕と(それから、当時のクインテットの他のメンバーたち、ガトー・バルビエリts、JFジェニー・クラークb、アルド・ロマーノds)オーネットのアプローチを全面的に共有し、ワールド・ミュージックの世界に翻案し出したのだ。オーネットとドン自身のオリジナル・テーマに加え、ドンは世界中のメロディを日々のリハーサルや演奏に持ち込んで来たのだ。後日、オーネットは僕に「ドンは象の記憶力を持つ男だ」と語ったことがある。「ドンはどんな複雑なメロディをも聞き分け、記憶し、完全に再現することができるからだ」。ドンとイングリードはまるで兄妹のように親しくなった。ドンは彼女の声をとても気に入り、イベントやレコーディングに誘い出したものだ。
僕らが初めてオーネットに出会ったのは、パリのクラブ「ル・シャキュペシュ」で、僕らが定期的に出演しだして1年以上過ぎた頃だった。その時、オーネットは彼のトリオ(デイヴィッド.アイゼンソンb、チャールス・モフェットds)でコンサート出演のためパリに滞在していたのだ。
それ以降とくにオーネットがソーホーのプリンス・ストリートにロフト(そこは、のちに彼の演奏の場として「アーチスト・ハウス」名付けられた)を持つ1970年以降は度々顔を合わせるようになった。クリエイティヴ・ミュージック・ファウンデーション設立の構想が生まれ、オーネットと契約書に署名したのも、そのロフトだった。イングリードと僕、それにふたりの弁護士でクリエイティヴ・ミュージック・スタジオ(CMS)の大枠を合議した。CMSは、ワークショップやセミナー、コンサート、レコーディングを運営し、あらゆるスタイルの音楽に共通する原理の交流や学びを支援し、さまざまなフォームによる個人の表現を喚起するとともに、異なるバックグラウンドに由来する音楽精神の出会いや、さらには新しい音楽の実験や制作に場を提供することを目的としていた。
オーネットは設立当初からクリエイティヴ・ミュージック・ファウンデーションにただならぬ興味を示し、評議員制度を提案、ジョン・ケージ、バックミンスター・フラー、ウィレム・デクーニング、ギル・エヴァンス、ガンサー・シュラーらを招聘した。ジョン・ケージは「私はジャズは嫌いだが、オーネットは好きだ」と発言、CMSが通年の組織に発展した70年代、ウッドストックで開催されたCMSセッションにはガイディング・アーチストとして参加したのだった。

本質的には、CMSの哲学的な発想の多くはオーネットの音楽や発言の高度に個人的な形態に拠っていたと言えるだろう。しかし、オーネットはつねに自分自身から素早く注意をそらしていた。
彼の口癖は、「音は永遠である。しかし、個々に意味する内容は一定ではない」で、個々の判断の均質性を完全に避けていた。あるいは、「あらゆるリスナーの意見は平等である」とも発言していた。さらに、議論があまりにも理屈に走り過ぎると、こう言ってたしなめる。「考え過ぎると、感情が入る余地が無くなるよ」。と、発言したかと思うと、次にはひねりを加えて、禅の公案のように、「音の感情があなたを捉える。故に、存在はかくも悠久なのだ」。

オーネットが自身のバンド「プライム・タイム」を結成したとき、彼は自身が思い描く音楽を次のような言葉で表現したが、それは完全にCMSの主調をなす哲学そのものだった。「すべてのミュージシャンは、如何なる音楽環境の形態を以って参加しても良い。さもないと、自身のトーン、フレージングはおろか、個性まで失われてしまうからだ」。また、オーネットはもう一点のCMSの主調哲学にも触れるのも忘れなかった(それは、イングリードが自身のワークショップを開講するときに触れる哲学でもあるのだが)。誰も、そして何事も本質的、能力的に音楽に由来している。オーネットならこう付け加えるだろう。「音は、あなたが想像だにしないことを変えてしまうことができる」。

オーネットとイングリード、それに僕が同乗してNYの街中を走っているときのこと、あるタクシーのバンパーに次のようなステッカーが貼られていた。「お前がクラクション ブーブー鳴らさなきゃ、俺も鳴らさないぜ」。それを見たオーネットはすまして言ったものだ。「僕の次の新作のタイトルに使えそうだね」。(Co-Founder/Artistic Director=Creative Music Foundation, Woodstock, NY /訳責:稲岡)

* 関連リンク
インタヴュー
http://www.jazztokyo.com/interview/interview131.html

カール・ベルガー Karl Berger, Dr.

1935年3月30日、独ハイデルベルクの生まれ。
10才の時にピアノのレッスンを始め、ヴァイブは25才の頃自己流で始めた。
1948年〜1954年ハイデルベルク音楽院に学び、1955年〜1963年はハイデルベルクとベルリンの大学で音楽学と哲学を修め、1963年、音楽美学で博士号を取得。1964年6月27日、ベルリンでエリック・ドルフィー最後の公演のリーダーとなる。1971年、オーネット・コールマンらと「アーチスト・ハウス」に設立した非営利団体CMF(Creative Music Foundation)をベースにCMS(Creative Music Studio)を通じて1973年からウッドストックでワークショップを展開。同時に、KBIO(Karl Berger Improvisers Orchestra)を主宰、現在に至る。
2013年ジャズ・ジャーナリスト協会(JJA)よりパートナーのイングリート・セルツォと永年にわたるジャズ教育と啓蒙に対し「Jazz Heroes」賞を授与された。
http://www.creativemusicfoundation.org

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3. ロベルト・マゾッティ Roberto Masotti

オーネットの白いプラスチック・サックス



僕のキャリアのなかではもっとも初期のアナログ・ショット。しかも1カットしかない!1969年、ボローニャのテアトロ・コミュナーレにて。オーネットとチャーリー・ヘイデン、チャールス・モフェットが出演した。じつは、この写真は父親のローライフレックスを借り出して撮影したもの。
オーネットが演奏しているのは白のプラスチック製でキーなどメカニカルなパーツ以外はすべてプラスチック製だがもちろん安物のおもちゃの類ではない。ホーンの形などにもこだわりを持った革新的な楽器で、オーネットのようなイノヴェイターにはふさわしい楽器と見た。

訳注:ネット情報によれば、オーネットが使用していた白いプラスチック製サックスは、チャーリー・パーカーも使用していたイギリスのグラフトン社製の「Grafton Acrylic Alto Saxophone」。管体は白いアクリル樹脂製で、1950年に製造が始まり、68年まで続いたとのこと。最初期のアルバム『Something Else!!!!』と『The Shape of Jazz to Come』に写真が掲載されている。

Roberto Masotti ロベルト・マゾッティ

1947年イタリア・ラヴェンナ生まれ。1972年からミラノを拠点に活動。1973年からECMのセッションを撮影、数十作のカヴァー写真、数百作のライナー写真を提供。1976年から2008年までECMのイタリア・レップとしてプレスを担当。1979年から19年間、妻のシルヴィア・レリと「Lelli e Masotti」の名で、ミラノ・スカラ座のオフィシャル・フォトグラファーを兼務。その間、スカラ座と3度の来日、2度の写真展を実現。最近は、アーティストの等身大の全身像を使ったインスタレーション「Life Size Acts」、コンピュータに取り込んだ映像とミュージシャンとの共演「improWYSIWYG」を展開中。

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4. オスカー・デリック・ブラウン Oscar Deric Brown

追悼 オーネット・コールマンの思い出



60年代後期の頃までには、ほとんどすべての私の知り合いは偉大なるサックス奏者で作曲家でもあるオーネット・コールマンの音楽を聴き知っていた。
1972年のことだったが、ベーシストのノーマン・ジョンソンの自宅でのリハーサルが終わるとノーマンがわれわれに言った。「おい、皆んな、オーネットの新作を手に入れたぞ」。その新作というのは、コロンビア・レコードからリリースされた『アメリカの空』だった。マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』もそうだったが、『アメリカの空』も大胆な作曲手法を使った作品で、アメリカの劇的な変化とベトナム戦争への介入をテーマにしていた。
1976年、私は多くの仲間がそうしたように自分自身のキャリアのさらなる展開を目指してNYに移住した。私が最初にオーネットに会ったのは、画家で彫刻家、そしてパカーッショニストでもあったダニエル・ラルー・ジョンソンの自宅スタジオだった。そこで私が紹介されたのは3人の男たち、オーネット・コールマン、ラシッド・アリ、ジェームス・ブラッド・ウルマーだった。そして事態が動き、私はフリージャズのネットワークの内部へと誘い込まれていったのだ。

1年後の1977年、私はラシッド・アリ・カルテットのツアー・グループに参加することになったが、メンバーは他に、ゼイン・マッセイ(ts,ss)とウィルバー・モリス(b)だった。ラシッドのレギュラーは、ジェームス・ブラッド・ウルマーとアーサー・ブライス(as)とブッチ・モリス(tp)、後に才能のあるアーサー・レイムス(ts)が加わった。
ラシッドは、「アリズ・アレイ」という自分のクラブを所有していたので、われわれはそこで毎夜演奏したのだが、「アリズ・アレイ」は、NYのロフト・ジャズ・シーンの中心的な存在になっていった。月曜日の夜はテナーのフランク・フォスターのビッグバンド“ラウド・マイノリティ”がレギュラーで出演していたが、私がピアニストを務めていた。
1978年の夏のことだったが、われわれ“ラウド・マイノリティ”が1週間スウィート・ベイジルに出演した。最後の3夜はオーネットが聴きにきて、当時の私が左手を多用する奏法を聴きつけ、「マッコイ(タイナー)の影響だね」と指摘された。当時は多くのピアニストが少なからずマッコイの影響を受けていたのだが、正直なところ、一緒に演奏していたラシッド、ウルマーらの強力な奏法に相対するための奏法でもあった。
当時、私はソーホーにあるオーネットのロフトにしばしば出かけていたのだが、ある日、オーネットの親友でもあったソニー・ロリンズがやってきた。ソニーも交えて色んなアートの話にふけった。クラシックのセルゲイ・ラフマニノフやアレクサンダー・スクリャービン、それからサルバドール・ダリ...。
当時、オーネットのリハーサルにもよく顔を出した。新しく結成した「プライム・タイム」だった。ヴァーノン・リード(g)がフィーチャーされていたのを覚えている。
80年代中頃オーネットは、私がロニー・ドレイントン (g)、ショーン・ソロモン(b)、デイヴィッド・プレイター(ds)と組んでいた「シリウス」というバンドをよく聴きに来た。そして、90年代初めは、「ウォンバット」というバンド。

とにかく、オーネットはいつも新しい音楽に興味を示していた。つまり、オーネットのいう「ネクスト・ジェネレーション」(新しい世代)。マイルスもつねに新しい世代の音楽に注目していたが、オーネットは自分なりのやり方で若手ミュージシャンを鋭い目で観察していた。彼は新しい概念のチャンピオンといえる。過去の影響にはまったく囚われなかったが、あらゆる人間の生きる力とつながっていた。ラシッド・アリとオーネットを囲んでディナーを食べながらよくそんなことを話し合ったものだ。

アリが亡くなる1週間前と(ラシッド・アリは、2009年8月12日心臓発作のため逝去)、入院する2日前、アリの奥さんも一緒にアリの家で食事をしながらオーネットの当時のバンドについて語り合った。次いで、アリの新録のことにまで話は及んだのだが、アリが急死したため、このレコーディングは流れてしまった。ところで、私がオーネットに最後にあったのは、2014年のこと。ブルックリンのセレブレートで行われたオーネット・コールマン・トリビュート・コンサートだった。このコンサートの口火を切ったのが他でもないオーネットの大親友ソニー・ロリンズだった。それはまさに魔法のような瞬間だった。
オーネット・コールマンは、われわれの時代のもっとも輝かしく、ユニークでオリジナルなミュージシャンのひとりだった。
私はそんな彼と知己を得られたこと、そして演奏の場を共有できたことにたいへん感謝している。オーネット・コールマンは紛れもなくアメリカの財宝である。(コンポーザー、ピアニスト、プロデューサー/訳責:稲岡)

オスカー・デリック・ブラウン(Oscar Deric Brown)

1953年、ジョージア州の先住民地域トッコア・フォールズに生まれる。ピアニスト、キーボーディスト、コンポーザー、プロデューサー。
3才からピアノを始める。1962年LAに移住、クラシック・ピアノの訓練を受ける。オリヴァー・ネルソンに作曲を、ホレス・シルヴァー、ウォルター・ビショップJr.にジャズ・ピアノを学ぶ。サンタナ(1976~77)、ユッスー・ンドゥール(1990)などとのツアー、中川勝彦の『Human Rhythm』(1989)、阪神淡路大震災ベネフィットCD『レインボウ・ロータス』(1995)などのアルバム・プロデュース、ヴィム・ヴェンダースの『Till the End of the World』 他3作の音楽制作など多彩な活動を展開。
http://www.thejazznetworkworldwide.com/profile/OscarDericBrownOscar

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5. 杉田誠一 Seiichi Sugita

追悼 オーネット・コールマン



ぼくがオーネット・コールマンの生と出会ったのは、ジョン・コルトレーンの 生と出会った翌1967年10月5日、大手町のサンケイホールである。
それまでのオーネットのアルバムは、すべて聴きまくり、とりわけ、1965年のヨーロッパ楽旅の輝かしい記録『チャパクヮ組曲』(日本盤CDのライナーノーツは、ぼくが書いている)と『アット・ザ・ゴールデン・サークル』は、ヨーロッパを圧倒的に席巻してしまった凄みがリアルでたまらない。フリーって、とてつもなく楽しく、アーティスティックでありつつも、エンターテインメントの極北に存在することを。加えて、オーネット・コールマン、デヴィッド・アイゼンソン、チャールズ・モフェットこそが、同時代のユニットの筆頭であることを知らしめさせたのだ。
その輝かしいヴァイオレンスが、とうとう、現実のものとなる。ただし、チャールズ・モフェットは入国できず、トラとして冨樫雅彦が起用される。カッコ良い。
ぼくは、確かに聴いた。1960年、国会議事堂前で、寺山修二が聴いた「寂しい女の叫び」と通底するものを。寺山修二は。樺美智子女史(東大)の死とオーネット・コールマンの名曲「ロンリー・ウーマン」をオーバーラップさせたのだ。フリージャズというものが、同時代のシーンというか、情況そのものではあった。
オーネット・コールマンと初めてNYCで出会ったのは、1969年、グリニッジ・ヴィレッジのピース・チャーチ。あのAACMが、“グレイト・ブラック・ミュージック”のいまを創出する夜である。白いマオ・スーツを着こなしたオーネットは、1リスナーとしてやって来る。ちゃんと入場料を支払っていることにまず驚かされる。
まず、日本から来たと言ったら、チャールズ・モフェットのことになる。
モフェットは、テキサス州で初めて修士号をとったアフリカン・アメリカ人であり、極東艦隊では、ウェルター級チャンピオンであると知らされる。そのチャーリーを入国させないなんて、失礼しちゃうぜってわけ。
「日本のオーケストラでは、やはり、N響ですかね?」
との質問には、少々戸惑う。「そうです」としか答えられないものね。ぼくは、目撃している。ギル・エヴァンスが初来日したとき、初見で演奏できるミュージシャンをという要求に対し、クラシカル畑から補完せざるを得なかったことを(初演されたのは、Pooさん=菊地雅章の曲)。
1972年、その質問の意味を知る。NYCのリンカーン・センターで、ニューヨーク・フィルと壮大なる「アメリカの空」を演奏するのである。指揮も、もちろん、オーネット自身。「グレイト・ブラック・ミュージック」を標榜したのはAACMであり、アート・アンサンブル・オブ・シカゴであるが、オーケストラをして、現実たらしめたのはオーネットである。
端的に言い切ろう。それまで、フリージャズの旗手として情況を牽引してきたオーネットは、ついに情況を超えてしまったのである。ジャズ・ビヨンド〜ノー・ボーダーとして、普遍たる同時代音楽として。フリージャズを包摂してしまったのです。
フリー〜インプロヴァイズドの彼方の多くのシーンを示唆しつつも、「グレイト・ブラック・ミュージック」としての集大成「アメリカの空」に、合掌。
なお、『パリ・コンサート』のジャケットのオーネット・コールマンの写真は、ぼく自身が、1972年、「アメリカの空」@フィルハーモニー・ホール、NYCでの撮影。ライナー写真、デューイ・レッドマン(ts)、チャーリー・ヘイデン(b)、エド・ブラックウェル(ds)も、ぼく自身の撮影@NYC。
聖なるかな、同時代に生きる、輝かしきイノベーターよ!
先に触れた『チャパクァ組曲』のライナーは、オーネットに対する心からのオマージュ。オーネットがフリーの方法を編み出したのは、クラリネットの教則本でアルトを自己流で血肉化したことを加えておこう。
アルトサックスでは、クラの音は出せない。出せない音をどう表現するか、このとてつもない命題に対する帰結が、フリージャズだと、ぼくは納得する。(フォト・ジャーナリスト/横浜・白楽「ビッチェズ・ブリュー・フォー・ヒップスター・オンリー」オーナー)

杉田誠一 Seiichi Sugita

1945年4月、新潟県新発田市生まれ。1965年5月、月刊『ジャズ』、1999年11月、『Out there』をそれぞれ創刊。2006年12月、横浜市白楽にcafe bar Bitches Brew for hipsters onlyを開く。
著書に『ジャズ幻視行』『ジャズ&ジャズ』『ぼくのジャズ感情旅行』。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=497384450429846&id=100004748858266

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6. 望月由美 Yumi Mochizuki

音の見える風景 Chapter 24. オーネット・コールマン
撮影:1967年10月5日、東京サンケイホールにて
http://www.jazztokyo.com/column/mochizuki/chapter-024.html

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7. 剛田 武 Takeshi Goda

オーネット・コールマン「ロンリー・ウーマン」の追憶



はじめに オーネット・コールマン追悼特集の計画を耳にし、筆者が2011年大震災の一週間後に書いたブログ記事を転載したいと考えました。社会全体が閉塞状況に在ったときに、なぜオーネットのことを思い出したのかは自分でもはっきりしませんが、心の底から救いを求めたとき、オーネットが見えた、ということだと思います。

坂田明さんや大友良英氏が最新アルバムでオーネット・コールマンの「ロンリー・ウーマン」を採り上げている。坂田さんのライヴには最近3回連続で通ったが、毎回この曲を演奏してくれた。

元々この曲は1959年にオーネット・コールマンがドン・チェリー(tp)、ビリー・ヒギンズ(b)、チャーリー・ヘイデン(ds)からなる2ホーン・カルテットで発表した、フリージャズの萌芽といわれる傑作アルバム『ジャズ来るべきもの(The Shape Of Jazz To Come)』(1959)の一曲目に収録された曲で、美しいメロディと、意図的な不協和音が不思議な味を醸し出し、オーネットの初期の代表曲とされている。私は大学生の頃このLPを購入し、その革新的なサウンドにすっかり参ってしまった。その後自分でサックスやギターでこの曲をカヴァーしたりもした。

日本ジャズ界の大御所ギタリスト高柳“JoJo”昌行さんがタイトルも『ロンリー・ウーマン』という秀逸なソロ・ギター・アルバムを1982年に発表している。私は同時代にこのLPを聴き、ストイック極まりないJoJoさんのプレイに衝撃を受け、どんどんフリージャズの深みに嵌まっていった。その頃大学の生協で年2回中古レコード・セールが開催されていた。500円均一コーナーにかなりのレア盤がゴロゴロしていた。何故かフリージャズ系が充実しており、ESP DISKの諸作、デレク・ベイリーやグローブ・ユニティ・オーケストラ、EEU(Evolution Ensemble Unity)やニュージャズ・シンジケイトの自主制作盤など貴重なレコードをたくさん購入した。多分セールの主催者がこの辺の音楽についての知識が無かったための値付けだったのだと思う。

その頃、荻窪グッドマンの即興道場(参加者が楽器持参でセッションできる日)で出会った高島君というジミヘンとジャンゴ・ラインハルト好きのギタリストと私のサックスのデュオで「Other Room」というユニットを組んで吉祥寺のライヴハウス「ぎゃてい」で演奏活動を始めた。ちなみに同じ日の即興道場で知り合ったのが現ZENI GEVAのK.K.Null=岸野一之君である。岸野君はヴァイオリンの岡野さんという人とデュオを組み「Null」として活動するようになる。「Other Room」はフリージャズやアヴァンギャルド・ロック、民俗音楽などのごった煮ユニット、はっきりいえばメチャクチャ・サウンドで、パンクバンドのアレルギーや、現インキャパシタンツのコサカイフミオ氏とセッションしたこともあったと記憶しているが、1980年代半ばには活動を停止した。そのまま続けていれば別の道が開けたのじゃないかな、と思うこともある。

そんなことが「ロンリー・ウーマン」の哀しげなメロディを聴く度に頭の中に蘇る。そういった意味ではこの曲は私の個人的な「追憶のハイウェイ“82”」なのである。

半世紀
昔の曲が
今語る

こんな時だからこそ平時の感覚でブログを書いてみました。ライヴ/CDリリースが次々に中止・延期になる中、このブログで少しでも鬱憤を晴らしたいと思います。(2011年3月17日記/本誌コントリビュータ))

剛田 武 Takeshi Goda

1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。レコード会社勤務。 ブログ「A Challenge To Fate」 http://blog.goo.ne.jp/googoogoo2005_01

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8. 常盤武彦 Takehiko Tokiwa

追悼 オーネット・コールマン

1997年にリンカーン・センターで開かれたオーネットの生前回顧コンサート






ルー・リードとローリー・アンダーソンと一緒に

常盤武彦 Takehiko Tokiwa

1965年横浜市出身。慶應義塾大学を経て、1988年渡米。ニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アート(芸術学部)フォトグラフィ専攻に留学。同校卒業後、ニューヨークを拠点に、音楽を中心とした、撮影、執筆活動を展開し、現在に至る。著書に、『ジャズでめぐるニューヨーク』(角川oneテーマ21、2006)、『ニューヨーク アウトドアコンサートの楽しみ』(産業編集センター、2010)がある。

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9. 小橋敦子 Atzko Kohashi

Ornette Coleman追悼



『This is Our Music』(with Don Cherry, Ed Blackwell, Charlie Haden/Atlantic 1353) は大好きな一枚だ。「音楽には音と色彩と言葉があり、そこに人生がある」というオーネットの言葉がダイレクトに響いている。「これが僕らの音楽だ」というメッセージと共に。この世に多くの民族がいて様々な言語が存在する以上、音楽だってそれと同じくらい違っていていいはずだとオーネットは言った。「ジャズは自分の言葉でメッセージを伝えればよい」と。そして「スタイルじゃなくてアイデアだ」とも。人種や国籍に関わらず、ジャズは自由に表現できるもの――彼のおかげでジャズを続けてこられたというミュージシャンは多いだろう。私もその一人。チャーリー・ヘイデンだって、スコット・ラファロだって、ポール・ブレイだってオーネットの言葉に支えられたに違いない。音楽は自由だ、という彼のメッセージは強烈だった。スタイルやサウンドやジャンルに囚われず常に新しいアイデアを求める。そこに音楽をする楽しみがある。私は2009年東京でのライブ・レコーディングにオーネットのブルース曲<Turnaround>をとりあげた。3rdの音がmajor-minorと行き来しながら色彩の変化が感じられるテーマ、シンプルだが奥が深い。従来のブルースのイメージ(12小節、ブルーノートetc...)に囚われない解放感!共演ベーシスト井上陽介さんもこの曲では奔放だった。ブルースに必要なのはエモーションで、それを自由に解放すればよい、というオーネットの言葉通りだ。彼が何から「方向転換」する意図でこのタイトルをつけたのかは知る由もないが、私にとっては大きな転換となった曲の一つ。このCDのタイトルにTurnaroundと名付けたのもそんな理由があった。私たちミュージシャンはある一つの曲から、また誰かの演奏からヒントを得、それを栄養源に自身の音を方向付け育てて行く。『This is Our Music』の <Embraceable You> を初めて聴いた時も私は大きく動かされた。チャーリー・パーカーの演奏のpassionとjoyに感動してアルトサックスを始めたオーネットが吹くパーカーの愛奏曲。「これが僕の音楽だ」と主張しながらパーカーへの憧れが聞こえてくるーー彼の音楽は自由そのものだ。私が自身のアルバム『Lujon』で<Embraceable You>をとり上げたのも、実はこの時の驚きと感動が体のどこかに残っていたからかもしれない。ガーシュインの甘く切ない旋律、パーカーへの懐かしさ、対照的なほど解放されたオーネットのプレイ、それらが混ぜこぜになって...。

この文章を綴りながら、今私の部屋でオーネットの<Embraceable You>が鳴っている。

小橋敦子 Atsuko Kohashi

慶大卒。ジャズ・ピアニスト。翻訳家。エッセイスト。在アムステルダム。『Waltz for Debby』(TONIQ 2013)に続く最新作は、2015年3月Cloudよりリリースされたトリオ・アルバム『Lujon(ルージョン)』。
http://www.atzkokohashi.com/

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10. 稲岡邦弥 Kenny Inaoka

オーネット・コールマンのこと



昨年度の本誌「このCD2014海外編」にオーネット・コールマン・カルテットのリユニオン1990盤 (Domino Jazz) を選出したところ、2010年のリリースだったことと、ブートレグの疑いが濃厚ということで顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまった;
http://www.jazztokyo.com/best_cd_2014b/best_cd_2014_inter_03.html
この2枚組アルバムは、ジャズ史上のモニュメントとなったオーネットの『Shape of Jazz to Come』(Atlantic。邦題は『ジャズ、来るべきもの』が定番になってしまっているが、オーネット逝去にあたって週刊文春の表紙にこのアルバムのカバーを取り上げた和田誠は、『来るべきジャズの姿』と正している)リリース30周年を記念してイタリアの小都市で3日間にわたって開かれたオーネットのためのフェスティバル出演のために再結成されたカルテットのコンサート録音である。このアルバムを繰り返し聴いていた昨年7月に僕らはチャーリー・ヘイデンを失い、それからほぼ1年後にオーネットが逝去、『来るべきジャズの姿』を雄々しく提示した4人の侍は半世紀有余を経てすべてこの世から姿を消してしまった。このアルバムを聴くたびに思わず頬が緩むのは、オーネットがイタリアのファンのために<オー・ソレ・ミオ>を吹くくだり。オーネットの聴衆とのコミュニケーションを図りたいとの心配りに聴衆はまったく反応しない。しかし、<ロンリー・ウーマン>にはベースのイントロでどっと沸くのである。オーネットの心配は杞憂に終わるのだが、その心配りに彼の人間性を見るのだ。似たようなことが親友ソニー・ロリンズの生誕80周年記念コンサートを収めた『Road Show Vol.2』(Doxy) でも聴かれた。ゲストで参加したオーネットは良く知られた讃美歌を吹いて他のメンバーと相和し、どうなるのかと固唾を呑む僕らの心配を杞憂に終わらせたのだ。
http://www.jazztokyo.com/five/five832.html

僕が初めてオーネット・コールマンと相見えることができたのは1975年。NYダウンタウン、プリンス・ストリートのアーチスト・ハウスで。朝早く僕らを出迎えてくれたオーネットは、僕らの好みを尋ねソフト・ドリンクを買いに出かけてくれた(暑い日だったので、僕はコークを所望した)。出かける前に彼は予めセットしてあったジュジューカの取材ビデオのスイッチを入れてくれた。オーネットがモロッコのジュジューカに取材に出かけたのは1973年で、『Dancing in Your Head』(Horizon) として結実するのは1977年のことだから、彼は楽想の素材を僕らに公開してくれたことになる。別れ際に誘われた当夜のパーティに出かけてみると、会場はなんと天井から段ボールで作られたオートバイが吊られた美術家・篠原有司男のロフト(アトリエ)だった。邦人女性を伴い颯爽と現れたオーネットのダンディぶりはいまだに脳裏に鮮やかに焼きついて離れない。ヴォイオレット色の薄いソフトレザーのロングコートに黒い中折れ帽。オーラ漂うとはまさにこのことで皆の目が一斉にオーネットに向けられカメラのフラッシュが焚かれる。聞くところによると、オーネットをメインゲストに迎えた日本版月刊プレイボーイ創刊記念パーティということだった。

そもそも僕がオーネット・コールマンにとくに親しみを持つようになったのは、73年にトリオレコードが契約したブラック・ライオン/フリーダム・レーベルのオーナー・プロデューサー、アラン・ベイツから「クロイドン・コンサート」の逸話を聞かされたことに始まる。65年、欧州ツアーに出たオーネットのトリオ(オーネット、デイヴィッド・アイゼンソンb、チャールズ・モフェットds)はロンドンで労働組合の強硬な反対に会い、会場使用の許可が下りなかったところ、一計を案じたプロモーターやベイツらの計らいで、1部に現地のクラシックの五重奏団の演奏を加えることで辛うじて難を逃れる。ポリドールのジャズ・プロデューサーであったベイツは独断でコンサートを収録、『An Evening with Ornette Coleman』と題しクラシックの演奏を含めた2枚組ボックスセットとして世に問う。ベイツから吹き込まれた“プロデューサーは常に チャレンジング・スピリットを忘れてはならない”が、僕の座右の銘となる。ベイツはその後ポリドールから原盤を買い取り、翌66年パリで録音された映画『Who’s Crazy?』 のサウンドトラックと共にベイツのカタログの貴重な財産となったが、これらは日本ではトリオレコードが発売元となった。

オーネットとの縁は続き、1971年にパリで録音されたカルテット(オーネット、デューイ・レッドマンts、チャーリー・ヘイデンb、エド・ブラックウェルds)の演奏を『Ornette Coleman/Paris Concert』として1977年に直契約でトリオレコードからリリース。この時、アートワークにオーネットのレザーコートのヴァイオレットを使いたかったが、マーケットの嗜好性を考えブルー地を採用した。テスト・プリントのヴァイオレットは秘蔵品となっているのは言うまでもない。その後、80年代早々に来日したオーネットの新任のロイヤーと新録ライセンスの契約を交わしたものの、帰国後オーネットから破棄を申し渡される経験もした。ロイヤーが同意した前渡金がオーネットの格に見合わなかったようだ。1986年には、NYからサンフランシスコへの移動途次、オーネットの生地、テキサス州フォートワースにオープンした「キャラヴァン・オブ・ドリームス」を訪ねたが生憎改装中で当事者への面会も成らなかった。「キャラヴァン・オブ・ドリームス」は現地の石油事業家が投資、ナイトクラブとレコード・レーベルをオープンしたもので、開設にあたってはオーネットの「プライム・タイム」がアルバム『Opening the Caravan of Dreams』(1985) をリリースするなど協力姿勢をみせたものの、レーベルとしてはたいした成果を挙げるに至らなかった。ナイトクラブは2001年まで存続したようだが。

2001年、オーネット・コールマンが「高松宮殿下記念世界文化賞」の「音楽部門」の受賞者に選ばれ、金メダルと1500万円が授与されたことは、日本人がオーネット・コールマンの功績を正当に認めた証として世界に誇り得る稀な例として記憶されるべきだろう。(本誌編集長)

*参考リンク;
https://www.youtube.com/watch?v=Tl216jhYZ8I

稲岡邦弥 Kenny Inaoka

兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。音楽プロデューサー。著書に『改訂増補版 ECMの真実』編著に『ECM catalog』(以上、河出書房新社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。Jazz Tokyo編集長。
https://www.facebook.com/kenny.inaoka?fref=ts

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11. メモリアル・サービス Memorial Service

追悼 オーネット・コールマン
メモリアル・サービス

編集部



去る6月11日、85歳でこの世を去ったオーネット・コールマンの生涯を讃えるメモリアルが6月27日、NYウエスト・ハーレムのリバーサイド教会で執り行われた。1967年7月21日に聖ピーターズ教会で行われたジョン・コルトレーンのメモリアルからほぼ半世紀後。コルトレーンの葬儀では、コルトレーン本人の希望により2人のベーシスト、チャーリー・ヘイデンとデイヴィッド・アイゼンゾン、ドラムスのチャーネット・モフェットを従えたオーネット・コールマンの<ナイーマ>の演奏で幕が閉じられたが、オーネットの葬儀ではジョン・コルトレーンの息子ラヴィがジェリ・アレンpと共にソプラノサックスでオーネットの<ピース>を答礼演奏した、と「ザ・ニューヨーカー」の電子版でデイヴィッド・レムニック記者が伝えている。
葬儀は3時間余続き、ファラオ・サンダース、セシル・テイラー、ヘンリー・スレッギル、ジャック・ディジョネット、ジョー・ロヴァーノ、デイヴィッド・マレイらジャズ界の名だたるプレイヤー達が演奏で御霊を送ったが、セレモニーの幕を開けたのは、バキール・アタールらのふたりのモロッコの「マスター・パーカッショニスト・オブ・ジャジューカ」で、このグループはアルバム『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』などでの共演で良く知られている。彼らがオーネットの遺体の先導役を務めたのだ。
セシル・テイラーは2編の詩の朗誦に続いてソロ演奏を披露、ファラオがテナーで続き、ジャックはトップ・タップ・ダンサーのサヴィオン・グローヴァーとデュオでコール&レスポンス。盛り上がりを見せたのは、ジョー・ロヴァーノとデイヴィッド・マレイがアル・マクダウエルb、チャーネット・モフェットb、デナード・コールマンdsを含むクインテットで<ロンリー・ウーマン>を演奏した。デナードが寂しさを振り払うようにライド・シンバルを狂ったように叩くのが悲しみを誘った。ヘンリー・スレッギルとジェイソン・モラーンはこの日のために作曲した<セイル>をデュオで演奏した。親友だったソニー・ロリンズも顔を見せたが演奏はしなかった。
弔辞を読んだのは、ヨーコ・オノ、カール・ベルガー、ハワード・マンデルら。
ヨーコ・オノは、50年近い交流に触れ、白いスカーフを編みかけたが間に合わなかったと悔やみ、永年の同志で作曲家のカール・ベルガーはオーネットの「ハーモロディクス理論」は“直感的論理”と断じ(別稿追悼文掲載)、「音楽は何を聴いているのですか?」というインタヴュアの質問に対し「あらゆるものが音楽だ」と答えたというエピソードを披露、ジャズ批評家のハワード・マンデルは、「オーネットは“フリージャズ”を演奏したのではない、ジャズを伝統的な縛りから解放した(free)のだ」と功績を称えた。59歳になったドラマーの息子デナードは悲嘆に暮れながら、「母親のジェイン・コルテスは世界最高の詩人、父親のオーネット・コールマンは世界最高の音楽家だ。オーネットは、“秩序”を嫌ったのではなく、自身に課せられる“秩序”を受け入れなかったのだ。つまり、彼は“箱”の外で考えたのではなく、もともと“箱”なんかがあるとは思っていなかったんだ」と述べた。
フェリッペ・ルチアーノとスティーヴ・ダラチンスキーが書き溜めてきた詩を朗読した。ダラチンスキーは詩の中にオーネットの曲名や歌詞のフレーズを次々に織り込んでいったが、詩は<ロンリー・ウーマン>で始まり、<フーズ・クレイジー・ナウ>で閉じられた。
メモリアル・サービスは、ジェームズ A.フォーブズ牧師の弔辞で締めくくられ、オーネットが1977年に結成したエレクトリック・バンド「プライム・タイム」の演奏で幕を閉じた。
オーネットの遺体は、ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬された。(文責:稲岡)

*参考リンク
セシル・テイラーのピアノ演奏(Liza Bear)
https://www.youtube.com/watch?v=bF9ZbULKOXQ



photo:Oscar Deric Brown

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