UPDATED 09.07.2004
寄稿者リスト(掲載順)
デイヴィッド・ベイカー略歴「ニューヨークタイムス」の死亡記事デイヴィッド・リーブマンジョルジュ・ロベール悠雅彦及川公生原田和男(写真提供)田村夏樹藤井郷子坂本勝義ウェイン・ゼイド稲岡邦弥大江旅人(資料提供)カレン・ベイカー・ハートランプ京子・ベイカー

David Baker
撮影日: We ehawken, New Jersey, November 18, 2001.   Courtesy of Phil Stiles
デイヴィッド・ベイカー略歴

 デイヴィッド・ハワード・ベイカー、1945年10月12日、ニューヨーク州マウント・ヴァーノンの生まれ。父は、ハリー・アレキサンダー・ベイカー、母は、ヴィオラ・テノーレ・ベイカー。

 デイヴィッド・ベイカーがレコード業界でもっとも多忙な人物のひとりであったと指摘されても驚くに値しない。なにしろ、彼が関係したレコーディングは2000を超えるのだから。彼がレコード・ビジネスに就いたのは半ば宿命的であった。彼の祖父は20年代後期、コロムビア・レコードのセールスマンだったのだ。彼が6才の時、デイヴィッドの父ハリーはジョージア州アトランタにベイカー・オーディオを興した。デイヴィッドはオーディオに囲まれて育ち、やがて、大型のハイファイ・システムのセッティングを手伝うようになった。その後、ベイカー・オーディオはAM/FMステーションを併設し、「音楽が育てた家」として知られるようになった。この環境の下、デイヴィッドはエンジニアリングに興味を示し、教会ミサやジャズのビッグバンドのアマチュア録音、ラジオ放送のテープ編集を手掛けるようになった。まもなく、デイヴィッドはアトランタ・アート・フェスティヴァルのサウンドを任されるようになり、ステージ・オーディオのすべてともに、毎年16時間に及ぶ音楽の仕込みを担当することとなった。

 1965年、デイヴィッド20才の時、当時の彼にとって人生最大の仕事に赴くことなった。公民権運動が歴史的に大きな盛上がりを見せたまさにその時、デイヴィッドがある録音を担当するよう推挙を受けたのだ。デイヴィッドはミシシッピ・デルタに赴き、公民権運動に係る登録運動から教会での集会まで数々のフィールド・レコーディングを行った。デイヴィッドによれば、「公民権運動は、音楽のレコーディングを生業とする我が人生に深甚なる影響を与えた」。「当時のフィールド・レコーディングは、運動の重要な記録であるアルバム『Movement Soul』に集約され、現在でも国会図書館のカタログを通じて入手可能である」。

 それは、1967年のことだった。「夏の日の恋」とジャズ・シーンがまさに大変換の只中にあった。ディヴィッドは、ニューヨークのアポストリック・スタジオのドアを叩いていた。当時、そのスタジオはフランク・ザッパとマザーズ・オブ・インベンションの拠点として知られていた。デイヴィッドはすでに数々の現場の仕事をこなしていたが、1967年の夏、トロントの王立音楽院で、同年秋にはニューヨークのオーディオ・リサーチ学校でそれぞれ正式トレーニングを受けた。アポストリック・スタジオでは、1970年に閉鎖されるまでチーフ・エンジニアを務めた。デイヴィッドが、ジョン・マクラフリンとラリー・コリエルのアルバム『スペーシーズ』を制作するのはこの頃のことであった。

 アポストリック・スタジオの閉鎖に伴い、デイヴィッドは友人のアドバイスを受けポートランドに向かう。しかし、当地のシーンには関心が湧かず、半年も経たないうちにニューヨークへと舞い戻る。ノー・ソープ・ラジオにチーフ・エンジニアの職を見つけたが、そこはヴィレッジの小さな広告代理店で、ラジオのジングルを制作していた。

 1973年、デイヴィッドは、ヴァンガード・スタジオのドアを叩いていた。チーフ・エンジニアとなったデイヴィッドは、1975年まで在職し、フリーランスの道を歩むことになる。この頃、デイヴィッドと日本の間に強力な関係が築かれるのだ。デイヴィッドはエンジニアの鈴木良博と出会い、フィリップス/イーストウインド・レーベルの仕事を始める。エンジニアの鈴木良博とプロデューサーの伊藤八十八との強力な関係はソニー・レコードをベースに現在まで続いていた。

 1975年以降、デイヴィッドは基本的にはフリーランスの立場を貫いていたが、 1981年、矢野顕子のセッションで紹介された京子と結婚する。1986年、ヴァンガード・クラシックスの全カタログをCD化のためにリマスタリングする仕事を請け負う。

 彼の仕事は多岐にわたり、関係したレーベルは、ECM、Enja、Blue Note、Atlantic、Sony、Verve、Universal/Polygram、Black Saint、Soul Note、Amuletなど十指に余る。デイヴィッドが関係したプロジェクトのセールスは何百万枚を遥かに超えていると思うが、仕事のペースを落とす気は無いという。「ソース・レベルでのレコードのプロダクション・クオリティが僕の本来の目的なんだ」とディヴィッドはいう。この発言は最近の彼のプロジェクトでも明らかだ。フィールド・レコーディングではなく、スタジオ・レコーディングの現場で。

 彼の業績はあまりにも広範なため、そのすべてをリスト化するのは不可能なほどだ。ヴァーヴの歌手シャーリー・ホーンとの録音歴は長く、1998年ついに『I Remember Miles』でグラミー賞を獲得する。彼が仕事を共にしたミュージシャンは、ウィル・バウルウエア、デイヴ・リーブマン、リッチー・バイラーク、ポール・ブレイ、アル・ディミオラ、アート・ファーマー、メデスキー・マーチン&ウッド、マリア・シュナイダー、ジョージ・ラッセル、メイシオ・パーカー、ブルース・バース、ジョン・スコフィールド、ジョン・ゾーン、サン・ラなどなど。直近では、ジャズ・アット・リンカーン・センターの2003/04年のシーズンをアーカイブとしてライブ・レコーディング、デイブ・ブルーベック・オクテットやトゥーツ・シールマンなどもその一部。

 相次ぐ仕事をこなすため世界中を駆け巡る。デイヴィッドはいまや録音芸術のマスターのひとりとなった。録音は誰でもできる。しかし、デイヴィッドが過去30年にわたって例外無く成し遂げてきたように、卓越した情熱と技量をもってそれができる者はほとんどいない。
(文責:マイク・ブラウン)

7月25日付け「ニューヨーク・タイムス」の死亡記事

David H. Baker

 2,000回以上の録音経歴を有するグラミー賞受賞のオーディオ・エンジニア/プロデューサー、録音芸術の巨匠。2004年7月14日死亡。享年58才。
 あらゆる音楽ジャンルにわたる録音キャリアは40年に及ぶ。1998年、シャーリー・ホーンのアルバム『アイ・リメンバー・マイルス』でグラミー賞受賞。
 録音対象は、デイブ・リーブマン、ラリー・コリエル、リッチー・バイラーク、アート・ファーマー、ウィル・バウルウエア、メデスキー=マーチン&ウッド、マリア・シュナイダー、ジョン・スコフィールド他多数。父故ハリー・アレキサンダー・ベイカーと母故ヴィオロ・テノーレ・ベイカーを両親に持つ。
 妻は京子・ベイカー。姉妹に、カレン・ベイカー・ハートランプ、ダイアン・ベイカー・ハーウェル、ハリエット・ベイカー・パーカー、ロビン・ベイカー・ディクソンがいる。告別式は、8月16日正午よりアバター・スタジオにて。詳細は、 www.avatarstudios.net




デイヴィッド・リーブマン (sax)

 デイヴィッドに初めて会ったのは60年代末だった。ジム・ペッパー、ボブ・モーゼス、ラリー・コリエルをフィーチュアした<フリー・スピリット>といういわゆる“フュージョン”のはしりのバンドと一緒だった。ベイカーはどこにでも現れ、ミュージシャンにアイディアが浮かぶとスタジオを提供し、また手頃なギャラでレコーディングを引き受けてくれた。彼は一面でミュージシャンのようなところがあった。誰もが彼を知っていて、一緒に時間を過ごした。
 これまでに彼と制作したアルバムは数知れないほどある。デイヴィッドについて確実にいえることは、音楽に対する熱意の途方もない大きさ、そして、ものごとの処理の仕方を完全に把握していることだ。正直なところ、時にはいささか度が過ぎることもあった。しかし、それは音楽を愛するあまりであったり、高い理想を実現しようとする意志の強固さが原因であった。
 ディヴィッドは、事の善し悪しを完全に把握していた。彼をナメてはいけない。彼の耳にはすべてが届いていたから。ライブ・レコーディングについていえば、彼ほど現場のヴァイブレーションをポジティブに捉えることのできるエンジニアを他に知らない。
 彼は、ジャズ・レコーディングの世界でかけがえのない存在となった。彼がレコーディングの現場に現れて君の前にマイクをセットすることが二度とないことを実感するにはしばらく時間がかかることだろう。
 デイヴィッド急逝の報に接し悲嘆に暮れている。 liebman

■ David Liebman
1946年、NYブルックリンの生まれ。ニューヨーク大学で音楽を学ぶ。エルヴィン・ジョーンズ、マイルス・デイヴィスのバンドで活躍。

レコーディング・スタジオにて(1988.5)
『デイヴィッド・リーブマン/トリオ+1』(OWL)
左から、ジャック・ディジョネット(ds) リーブマン(ss)
ベイカー(42才)
ミキシング・スタジオにて(1988.5)
『デイヴィッド・リーブマン/トリオ+1』(OWL)
左から、ベイカー(42才) リーブマン(ss)




ジョルジュ・ロベール

 ジャズを愛した偉大な男、デヴィッド・ベイカーの急逝を知り、悲しみに暮れております。われわれは決して君のことを忘れることはないでしょう。

■ George Robert
1960年、スイス、ジュネーブの生まれ。ジュネーブ音楽院、バークリー音楽院、マンハッタン音楽学校で音楽を学ぶ。1985年3月2,3日、Eras Recording Studioでデビュー・アルバム『First Encounter』を録音。エンジニアはDavid Baker。この録音は、ニールス・ラン・ドーキー(p)のデビューでもあった。

davidbaker

David Baker(Photo by:George Robert)

1985年3月(40歳)ニューヨークのスタジオで。
アルバム『ジョルジュ・ロベール/ファースト・エンカウンター』





ベイカーの死を悼む   悠雅彦

 何ということだ。彼までが忽然と去ってしまうとは。余りにも不意に襲ってきたこの悲しい知らせには、言葉もない。

 思い返せば、ベイカーとはかれこれ 30 年来のつきあいになる。彼と初めて会ったのは1975年の初夏の頃で、当時彼はまだヴァンガード社のレコーディング・スタッフの1員だった。当時トリオ・レコード社洋楽部門の長だった稲岡邦弥(現JAZZ TOKYO編集長)の支援を得て新レーベル“ホワイノット”を設立した私は、プロデューサーとしての第1歩を踏み出すべくニューヨークへ飛んだ。それが75年のことだった。ホワイノットの記念すべき第1作はウォルト・ディッカーソンのフィラデルフィア吹込盤だったが、その後のニューヨーク録音は1、2の例外を除いてベイカーの手になるものであり、10枚を優に超えるホワイノットのニューヨーク吹込盤はいわば彼との共同作業の成果だったといっても過言ではない。

 最初はしばしば意見が衝突した。私の考えや意向を確かめることもなく、彼の一存だけで録音を進めるきらいがあったからだ。だが、レコーディングを終え、冷静になってみると、彼の主張に軍配が上がることの方が多いと分かってからは、いったん録音が始まってしまえば私は彼の判断と指示に従うことにした。何しろ、彼は音楽をよく知っている。最初のテイクで、テーマの構造からソロの展開具合やエンディングにいたるまでの一切が頭に入ってしまう。演奏者がどの部分でミスをしたかを正確に指摘したりする裏技もさることながら、録音前の入念なマイク・セッティングだけで最良の楽器バランスや音質を実現してくれる彼のプロ意識と高度な技量には、誰もが脱帽せざるを得なかった。録音がいったん始まってしまうと、演奏者がみな彼に全幅の信頼を示すようになる。そのため録音はいつもスムースで、サウンド・クォリティの決定に余計な時間を費やすことは決してなかった。その上、極めて良心的なギャランティで仕事を請け負ってくれた。

 ホワイノットにおけるベイカーとの共同作業の大半はアナログ時代のものだが、彼はアナログ文化が長い歳月をかけて築き上げてきた最良のノウハウに立って、単に優れたオーディオ機器に全幅の信頼をおいた、いわば物理特性の数値が高いレントゲン的録音とは一線を画す、演奏する人間の肌触りや息使いを大切にする繊細さを最後まで失わなかった。デジタル時代に入ってからは彼とコンビを組む機会はほとんどなかったが、その一貫した姿勢に微塵の変化もないことを、99年に藤井郷子オーケストラのニューヨーク録音に立ち会ったときに改めて再確認した。『月は東に、日は西に』(EWE)なる表題も、『ダブル・テイク』という副題も、自己の同一作品をニューヨークと東京のオーケストラで演奏してその違いを引き出そうとした藤井の意図を象徴しているが、ベイカー(ニューヨーク)と及川公生(東京)の録音姿勢またはポリシーが共通しあっていることが、もう1つの聴きものとなっていたことを忘れるわけにはいかない。

 ニューヨークでの作業を終えたあと田村、藤井夫妻ともども彼の自宅に招かれ、京子夫人の心のこもった手料理をご馳走になったことも、今は懐かしくも悲しい思い出となってしまった。その翌年だったか、日本にやってきた夫妻を囲んで皆と談笑しあった夕べが、私にとっては彼とあいまみえた最後の時となった。何故こんなに早く、また突然に、旅立たねばならなかったのか。今はただひたすら、故野口久光氏や秋吉敏子さんなど多くの日本の知人を持ち、日本を愛してやまなかったデイヴィッド・ベイカーが、安らかに眠られるよう祈るしかない。





追悼 良きライバル・ベイカーさん   及川公生

 NYC「スィートベイジル」でのライブ録音の現場を覗いた。デイヴィッド・ベイカーが、配送人か整備士かと見紛うようなつなぎを着こなして、ご機嫌よく汗だくで立ち回っていたのを思い出す。
 音出しが始まって、倉庫のような所をミキシングルームに仕立てた部屋を覗くと、丁度いいところに来た。この音が遠いと思うだろう。「ソロのマイクを自分で見てオンにセットして欲しい、お願いします」と日本語でベイカーは私に要求した。そのソロ用マイクはといえば、ソニー製C-38Bである。私たちは、ジャズの音源に対しては、まず使わないモノである。学生にこのマイクを見せると、「お笑い系マイク」という。確かに「声」にはよく登場する。

 デイヴィッド・ベイカーはマイクを使いこなす名人であった。決してブランド・イメージに頼ることなく、「良いものは良い」と、自信を持って使いこなしていた。私は、その時、ソニーC-38Bを、サックスに対してオン・マイクで使いこなすと、どのマイクも拾い上げることの出来ない独特のブリブリのサウンドを創り出すことを知った。ベイカーには内緒だが、私はこのアイデアを戴いた。

 デイヴィッド・ベイカーは、マイキングに神経質な人であった。私は言ったことがある。「ベイカーさんのマイキングは、日本の華道みたいだね」と。楽器を芯に、その周りを必然性を持ってマイクが華のように形作る。私は口癖のように、「マイキングの姿がカッコよけりゃ、いい音で録れるよっ!!」と言うが、ベイカーから学んだモノだ。ドラムスでもピアノでも、どうも楽器に対してマイキングが、しっくりこないなと感じたときは、いいサウンドは上がってこない。

 ベイカーのマイキングは実に丁寧、録音作業のエネルギーのほとんどをこれにつぎ込む。必ず演奏者の目線でマイクを見つめる。ピアニストの位置からマイクを眺め、ほんの5cm程動かして、また、見つめる。高さを変え、2本のマイクの間隔を変え、向きを変え、5cmづつ動かして、納得するまで執拗にやる。見ている私にもその痛い視線が突き刺さりそうだ。ここまで、やられたら、マイクも、いい加減な音を拾うわけには行かないだろうなと。

 ミキシングに入ると、さすがに丁寧なマイキングのためか、思った通りのサウンドなのか、マイキングの変更はほとんどない。コンソールに座ると、ほとんどイコライザー等、エフェクターには手を伸ばさない。マイクの個性を適材適所に使って、それで、サウンドを構築している。コンソールのフェーダー操作にも、音楽、演奏者に対する情熱がこもる。大体のレベル管理が出来上がると、ジャズではフェーダー操作は事細かく、あまり動かさないものである。しかしベイカーは、ほんの一目盛り、その半分を、音楽の進行と共にリズムに乗って、あらゆる楽器のフェーダーをコントロールしていた。つまり、ミキシングを楽しんでいたようだ。

 一発録り、、。これは私と全く同じ手法である。そして、ブースは決して安易には使わない。どうにもならない極限まで、ブースなしで録音をしようと試みる。そして、お互いの楽器の音の「かぶり」も、音源として扱って録音の味としてしまう。この方法がうまく行っているのは、「及川さんも同じだろうが、お互いに放送屋出身であることが大きい」..と、語ってくれたことがある。ベイカーのこの言葉に、意を強くしたものである。

 マイキングも手早いし、サウンドチェックは絶対にやらない。「いいよっ!!演奏を始めて。聞きながらコントロールをまとめるから」。たしかに、演奏を始めようと意気が上がっているときに、ピアノの音をチェック、、などとやっていたら、ミュージシャンのヤル気をそぐことはなはだしい。

 デイヴィッド・ベイカーが、私に対抗意識を燃やしたと見られる事があった。藤井郷子オーケストラの『ダブル・テイク』。私は東京でホール録音。かたやデイヴィッドはNYでスタジオ録音という2枚組の興味ある企画。どう見たって、音場感、臨場感では私が有利。「及川さんはホール録音だから、ジャズ・オーケストラの音場感では有利。それにしても凄くいいんだっ!!。あの臨場感と奥行き、それに歪みをまったく感じさせない、位相管理がしっかりした録音はお見事!」と、お褒めをいただいたが、すかさず「仕掛けは何だ」と問いつめられてしまった。畳みかけるように「コンプレッサーは何を使った?」など、次々と質問。「非公開だから、舞台裏も気にせずに、アンビエンスのマイクをステージ上に立てた」と答えると、「なるほど。まだ仕掛けが隠されている。コンプレッサーは?」。「はあ!!コンソールに内蔵されているモノです」デイヴィッド・ベイカーは、納得したようでもあったが、あのサウンドは、それだけじゃないだろうと、今度は食事をしたnew DUGでも、続いた。

 穐吉敏子オーケストラのバリトンサックスのスコット・ロビンソンが、この間マンハッタンで録音したが、エンジニアはデイヴィッド・ベイカーだった。「いいサウンドだったよ。それに彼は今回は<キレなかった>よ」と、ユーモアを交えて話してくれた。現場で、ベイカーさんは<キレる>ことがあると噂を聞いていたが、やはり!!。


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ベイカー、NYクリントン・スタジオ、1993


及川/ベイカー/内藤克彦(左から)
NYクリントン・スタジオ、1993



伊藤薫/D.ホランド/ベイカー/稲岡/R.バイラーク/
J.ディジョネット/及川(NYクリントン・スタジオ、1993)
『リッチー・バイラーク/トラスト』(Transheart) の録音



新宿DUGにて2001.6
左から及川(本誌主幹)/ベイカー/京子夫人


左から ベイカー/京子夫人/稲岡


NYクリントン・スタジオにて 1993.2
「リッチー・バオラーク/トラスト」(Transheart)
撮影:及川公生



ジョン・スコフィールドのデビュー・アルバム
『ジョン・スコフィールド』(TRIO) の記念写真
(撮影:米田泰久 提供:原田和男)

後列左から:ジョン・スコフィールド (g)、 一人おいて日野皓正 (tp)、
David Baker (32才)、一人おいて日野元彦 (ds)
前列左から:クリント・ヒューストン (b)、原田和男、稲岡邦弥
1977年8月 東銀座・音響ハウスにて
『ジョージ大塚/ガーディアン・エンジェルス』(TRIO) 録音風景
( 撮影:内山繁 提供:原田和男)
左から:原田和男、ミロスラフ・ヴィトウス (b)、David Baker (33才)
1978年11月 東銀座・音響ハウスにて

『ガーディアン・エンジェルス』(TRIO)
ミロスラフ・ヴィトウス (b)、ジョージ大塚 (ds)、
ジョン・スコフィールド (g)、山口真文 (sax)、ケニー・カークランド (p)




熱きDavid、ありがとう   田村夏樹

 彼ほど録音に掛ける熱い思いが身体中から噴出するエンジニアは見たことが無い。

 ニューヨークのアバター・スタジオでの藤井郷子オーケストラの録音で、入り時間より少し早めにスタジオに到着したが、Davidはすでに大汗かいてマイクのセッティングをしていた。

 いろんなタイプのマイクを持って来ていて「デイブ・バルーにはこのマイクが合うだろう、スティーブン・バーンスタインにはこれが合う」などと言いながらプレイヤーの個性を最大限に引き出す工夫をマイク・セッティングの段階からやっている。メンバーが少しずつスタジオに来はじめる頃には鼻息まで荒くなってきている。

 サウンド・チェックが始まると、もう頭から湯気が立ちのぼりだす。

 こんなに興奮していてはたしてちゃんと録音できるの?と思ったりもするが、いざスピーカーから出て来る音を聴くと、「心配した私が悪うございました」と謝らなければならないほど、活き活きとしていて、ミュージシャンの思いがダイレクトに伝わるようで、しかも美しい。
 なるほど皆が彼を指名する訳だ。

 「音楽にまで口を挟んでくるから嫌だ」というミュージシャンもたしかにいるのだが、それはDavidの音楽に対するとてつもなく熱い思いがそうさせてしまうのだろう。あれだけ音楽にのめり込んでいたらつい「そこはそんなふうに演るんじゃない!」などと言ってしまうのも解る気がする。

 熱きDavid。ありがとう。

■ 田村夏樹
滋賀県生まれ。トランペッター。作・編曲家。バークリー音楽院、ニュー・イングランド音楽院に学ぶ。ピアニスト藤井郷子の良き理解者として多くの活動を共にする。最新作はソロ・アルバム『KO KO KO KE』(3Dシステム)

田村夏樹/ベイカー/藤井郷子
音響技術専門学校前(2000.5)
『田村夏樹ソロ/コココケ』(ポリスター/MTCJ-3012)




「共演者」であり信頼できる「大先輩」   藤井郷子

 David Bakerには、3枚のCD録音でお世話になりました。私のような駆け出しのミュージシャンが彼のような巨匠の力を得られたのは、いつも親身に相談にのってもらっている音楽プロデューサーの稲岡さんに紹介していただいたお陰です。3枚のCDはどれもニューヨークでの15人、16人編成のビッグバンド録音で、すべてワンデイ・セッション、スタジオで録音とミックスだけだったらわずかの時間のお付合いです。ところが、Davidは録音前のリハーサル、ライブにもすべて立ち会い、1枚目の録音時にはマスタリングにまで時間をさいて駆け付けてくれました。1枚目のCDは2枚組で、もう1枚はDavidの旧友のやはり録音の巨匠、及川公生さんだったこともこのプロジェクトのポイントでした。

 その他にもニューヨークで演奏する時は、録音に関係なくてもクラブに聞きに来てくれたり、ご自宅で奥様の京子さんにとっておきの手料理をごちそうになったりで、どれも忘れられない思い出です。

 その中でも私が一番忘れられないのは2枚目の録音時のAvatar Studioでの出来事です。録音にあまり時間をかけない私のプロジェクトの場合、スタジオを1日ロックアウトせず経済的に時間単位で借りるのですが、事前にスタジオからFaxされてきた契約書はロックアウトのものでした。私はその契約書をよく読みもせずにサインしてしまいました。精算時にようやくそれに気が着いた時、Davidは自分のことのようにスタジオと交渉してくれました。サインした私の勘違いだから仕方ない、と私が言っている横で。いつもどんなことでも中途半端でなく取り組むDavidの音楽に対する取り組み方も、もちろんそれ以上ですが。正直なところ、それ以降とくに音楽も超えての信頼関係が深まったような気がします。私が心を動かされたことにDavidは気付きそれに応えてくれるくらい、暖かく繊細な人でした。

 4枚目の録音の相談を今年5月にメールでしていたのに、本当に残念です。私にとっては、「共演者」であり、もっとも信頼でき信用できる「大先輩」でした。

■ 藤井郷子
1958年生まれ。ピアニスト、作・編曲家。バークリー音楽院、ニュー・イングランド音楽院に学ぶ。内外で多数の演奏活動、CD発表を展開中。『ダブル・テイク/月は東に日は西に』(EWE)、『ザ・フューチュア・オブ・ザ・パスト』(ENJA)、『ブループリント』(3Dシステム=10月発売予定) の3枚がBaker 担当。

藤井郷子オーケストラ・ウェスト
NYアバター・スタジオ、2003.7


藤井/ベイカー
NYアバター・スタジオ 2003.7


SFO西  SFO東
『藤井郷子オーケストラ/ダブル・テイク〜月は東に日は西に』
(EWE/ewcd-0019〜20)



デイヴィッド・ベイカー氏 追悼   坂本勝義

 ニューヨークの名物ミキサーであったデイヴィッド・ベイカーさんの訃報に接し、レコード業界がまたひとつ大きな宝を失った気持ちがしてならない。ひげもじゃ顔からこぼれ出る屈託のない笑顔のベイカ―さんとの最初の出会いは、1989年4月初旬だった。当時、あるレコーディングでロサンジェルスに居た私は、レコーディング取材を依頼していた評論家の青木和富氏と合流して、ニューヨ−クに行き、プロデューサー稲岡氏とさらに合流。当時、新生のキャンディド・レーベルの女性サックス・プレーヤー、エリカ・リンゼイさんの新録に立ち合わせていただいた。その時のレコーディング・エンジニアが、忘れもしないあのデイヴィッド・ベイカーさんだった。

 ミッド・マンハッタンにあるクリントン・スタジオで、大きな体をローラー付き椅子の上にのせて、まるで小さな子供の乗り物のように、体ごと椅子をすべらせては、ミキシング・ルームのあちこちを自在に移動するさまは豪快で、ベイカーさんの作業風景が今でもありありと思い出されます。ひげもじゃ顔にヘッドフォンをちょこんと付け、音の世界に入り込み、口もとで、うんうんと、うなっては、サウンドのごく細部に至るまでチェックするさまは、他人の入り込むスキが全くなく、神経質そうにも見え、ベイカーさんの「音への並外れた鋭敏さと集中力」は、その風格と共に「日本のミキサーとは、全く違う」という強い印象を受けたことを覚えています。

 アーティストのその場の雰囲気を即座に把握し、的確な判断により音造りを瞬時にこなしていくベイカーさんの冴えた感性と耳。OKテイクの途中に、一部、別テイクを差し入れ、チェンジする作業の出来映えは、人間の技術の水準を越えて、正に神業でした。

 ベイカーさんの奥様は、日本人の方で、気の抜けない作業の合間には、愛妻弁当のサーモンをはさんだベーグル・パンサンドをうれしそうに持ってきて、おいしそうに頬張るデイヴィッドさんの子供っぽい笑顔も忘れられません。

 その後も、何度か仕事でニューヨークを訪れた際に、増尾好秋さんのソーホーのスタジオなどでベイカーさんにお会いすることができました。また、ポール・ブレイのスイート・ベイジルでのライブの折にも偶然お目にかかりましたが、しっかり私のことを覚えて下さっていたのは、今でもうれしい思い出です。

 現在、トリオ・ジャズやスイート・ベイジル・レーベルのCDによる再発をさせて頂いておりますが、ジャケットのレコーディング・スタッフ名のところを見ると、何とデイヴィッド・ベイカーさんのレコーディング作品の多いことか、今更ながら驚いております。たとえば、弊社発足の際の記念すべきギル・エヴァンスの名盤「ニューヨーク1980」などデイヴィッドさんのたぐいまれな「耳」を通して出来上がった選りすぐりの録音による名作レコードは数え切れないほどです。

 徹底して細部にまで神経を行き渡らせたサウンド造りは、今はもちろんのこと、時代を超えて、色褪せない優れたサウンドとして、何時までもレコード史に残ることでしょう。デイヴィッド・ベイカーさんの冴えた職人技の光る素晴らしい録音作品の数々を、今もリリースさせて頂けることに感謝の気持ちでいっぱいです。

 デイヴィッド・ベイカーさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
(AMJ ディレクター)
『エリカ・リンゼイ/デイ・ドリーム』(CANDID)




Wayne Zade

 デイヴィッドとは一度しか会ったことがないが強烈な印象として記憶に残っている。ニューヨークのホテルの一室だった。日本のジャズ状況についての私の質問に対し、彼は、部屋の中を歩き廻りながら手振りを交えて、如何に彼が日本を愛しているか、早口でまくしたてた。日本とジャズに対する愛情がほとばしっていた。
 ただし、私にはひどく疲れているようにみえた。後日、デイヴィッドが紹介してくれた京都の友人と有意義な時を過ごすことができた。ジャズは大事な恋人を失ってしまった。天国ではゆっくり身を休めて欲しい。


■ ウェイン・ゼイド
ウェストミンスター大学教授。アメリカ文学とジャズとの係り、日本のジャズについて講義している。現在、Jazz Tokyoで連載講義中。




追悼 デイヴィッド   稲岡邦弥

 燃焼し尽くしたのだろうけど早過ぎる。まだまだ君を必要とするミュージシャンやレーベルは少なくないのだから。

 デイヴィッドとの思い出は数限り無くある。ミッドタウンにできた大きなブルワーを持つビア・カフェには何度なく通った。ふたりともビールが大好きだったから。これは楽しい思い出。

 デイヴィッドとの最初の出合いは、ジョン・スコフィールドのデビュー・アルバムだったかな。77年8月、東銀座の音響スタジオ。CBSソニー(当時)の伊藤潔氏の紹介だったと思う。78年6月、ヤマハホールでのリッチー・バイラークと富樫さんとのライブ録音では、激烈な論争があった。目に涙をためてアピールする君の激情に押されて君の意見を取り入れたが、このアルバム『津波』(TRIO) は、両者のベストの1枚として未だにその鮮度を失うことが無い。

 カーラ・ブレイのスタジオでの『ゼブラ』(PAN MUSIC) の録音、京子さんの愛妻弁当に二人で舌鼓を打った。レスター・ボウイーに続けてデイヴィッドを失った今、この愛聴盤をふたたび耳にできる日がはたして訪れるのだろうか?

 93年、ポール・ブレイのレコーディングではマイクの選択に悩むエンジニアに快く自前のショップスをペアで貸してくれた。現場からの緊急電話に対応してくれたのだった。

 数ある思い出の中で僕の胸にもっとも強く刻み込まれているのは、阪神大震災の被災者に捧げるベネフィット・アルバム『レインボー・ロータス』(Big Hand) に対する君の最大級の賛辞だ。君から初めてもらった長文の手紙だった。そこには、音楽の持つ強烈なメッセージ、ミュージシャンシップ、音楽に携わる者の使命が格調の高い文章で縷々(るゝ)綴られていた。キース・ジャレット、ハービー・ハンコック、坂本龍一、パット・メセニー等々の協力を得て、オスカー・ブラウンと半年をかけて達成したビッグ・プロジェクトだった。多くの新聞、雑誌に評価された作品だったが、僕にはデイヴィッドの賛辞がいちばん嬉しかった。それは君が誰よりもジャズを愛し、ジャズと真摯(しんし)に向かい合い、われわれが何をなすべきかを熟知している人間だったから。

 最後に。デイヴィッド、僕は君が日本のジャズ界に果たした大きな貢献を誰よりも理解しているつもりだ。
(音楽プロデューサー)


ベイカー/ジャック・ディジョネット/レスター・ボウイー(tp)


稲岡/ディジョネット/レスター/内藤忠行(カメラマン)


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1985.5  カーラ・ブレイのスタジオにて


『ジャック・ディジョネット+レスター・ボウイー/ゼブラ』(Transheart)




加古隆<TOKの>セッションより:

デイヴィッド・ベイカー
加古隆、オリヴァー・ジョンソン、悠雅彦
稲岡邦弥、原田和男、伊藤孝治

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「メモリアルの式次第」 提供:大江旅人(Strange Fruits)


ベイカー・ファミリーからの挨拶


 われわれデイヴィッドのファミリーは、アーチスト、友人、仲間からデイヴィッドに対して寄せられた溢れるような愛情にたいへん感動しております。また、本日のメモリアル・サービスを実現して下さったアヴァター・スタジオ、そして時間と財、スキル、才能、専門的ノウハウを提供して下さったすべての皆さまに衷心より感謝いたします。

 デイヴィッドは「悲しいこと」が大嫌いでした。ブルースやバラード、おそらくオペラなどを除いてですが。メモリアルというのは亡き者を悼むセレモニーですが、デイヴィッドの場合は、“セレブレーション・オブ・ライフ”(生の祝典)を意味します。デイヴィッドは間違いなく心躍ることや心寄せることが大好きでした。ですから、今日は、デイヴィッドと知り合いであったということの喜びを表現していただければデイヴィッドに相応(ふさわ)しいと思います。
カレン・ベイカー・ハートランプ


京子・ベイカーのメッセージ

 デイヴィッドは、自分が取組んでいるプロジェクトについて、可能性を100%実現することに挑戦することが好きでした。彼はオープンな心でひとびとに接し、つねにひとびとの気持ちを大切にしていました。彼は手を抜くことができず、純粋な音を最高のレベルで獲得することに全身全霊を傾けていました。デイヴィッドは彼が録音した音楽の中に生きていたのだと思います。

 デイヴィッドが亡くなったとき、突然私の心の中にぽっかりと大きな穴が開(あ)き、時の経過とともにそれがだんだん大きくなっていきました。私は、デイヴィッド無しで何を目的に生きていったらいいの?と自問を始めていました。そのとき、幸いにもとても多くの方々から親身のサポートと勇気を鼓舞する言葉をいただき私の気持ちが吹っ切れたのです。気持ちを持ち直した私は、デイヴィッドが生きてきた道を思いを込めて辿(たど)り直し、あらためて彼の人間性の本質に感謝するに至ったのでした。デイヴィッドは仕事を通して多くの人々に感動を与えてきたのだ...。私は決心しました。彼と同じ心持ちでこれからの人生を生きようと。これはデイヴィッドが私に課した新たなレッスンであると。

 デイヴィッドはこれほど多くの方々に愛されてきてとても幸せでした。私は彼が人生の使命を100%完遂したことを信じて止みません。私はデイヴィッドの伴侶であったことをとてもとても誇りに思います。

 皆さん、本日は心からのサポートとデイヴィッドに心を寄せていただきほんとうにありがとうございました。


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