![]() デレク・ベイリー Derek Bailey 1930—2005 Photo: Courtesy of European Free Improvisation Pages http://www.shef.ac.uk/misc/rec/ps/efi/efhome.html |
追悼 デレク・ベイリー ■『デレク・ベイリーそしてSABU、ブロッツマン〜「足穂」の想いで』望月由美 ■デレク・ベイリー・インタヴュー |
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インタヴュワー ステファン・ジャヴォルチン
(1996年ロンドンにて)
ステファン・ジャヴォルチン(以下SJ): 日本で演奏するようになった経緯(いきさつ)は?日本の関係者と連携できた方法は?
デレク・ベイリー(以下DB): たった一人の男、間章(あいだ・あきら)との出会いがすべてだ。1977年のある日のこと、彼がロンドンに現れた。彼については名前も聞いたことがなかったんだが、あれこれ情報を仕入れることができた。ひとかどの人物だということが分った。おしゃべりに応じたところ、僕に日本に来なさいというんだ。その頃、日本に行くなんてことは僕には考えられなかった。というか、行動範囲を広げること自体に気が乗らなかった。「ずいぶん遠いね」と答えたところ、「手筈は整えるから」という。帰国してから手紙のやりとりがあって、1、2度辞退を申し入れたこともあったんだが、とうとう1978年に日本の土を踏むことになった。僕は幸運だったんだ。4〜5月の日本は素晴らしい季節だったから。アイダがセットアップしたこのツアーで、僕は日本の全国各地を回れたと思っている。旅は6〜7週間つづき、ほとんど毎晩演奏した。予定より長い滞在になったがツアーは全国をカヴァーするものではなかったんだ。たとえば、沖縄には行かなかった。70年代には日本人でさえ沖縄の渡航にはパスポートが必要だったんだ。だけど、沖縄以外はほとんど回ったと思う。僕のような田舎者にとって日本ツアーは驚きの連続でショックからなかなか回復できなかった。(日本では、何年も前に引退したと思われていたミュージシャンの公演ポスターが掲示されていて、実際彼らは毎年訪日してコンサートを打っていることを知った。とくに懐かしのジャズ・ミュージシャンが多かったが、20年位前に亡くなったと思い込んでいた昔のフラメンコ・ギター奏者もいた。このプレイヤーのポスターは京都で目撃したんだけど、彼は永遠に日本ツアーをやっているようだった。日本では音楽というと基本的にナマの演奏を意味しているようだった。日本以外ではおそらくニューヨークを除いて何処でも、まず録音物が先に来ると思うんだが) アイダはいわゆるスヴェンガリ・タイプの人物だった。つまり、日本のフリー・ミュージック・シーンでは誰もが彼を通して仕事をもらっているように見えた。彼が仕事を造り出し、何人かのミュージシャンは彼の家に寄宿し、必要なものは彼がすべて提供していたんだと思う。僕が共演した相手もアイダのグループだったと思う。CNAとかCMMとかいう名前が付いていた。60年代や70年代は皆アルファベットでできた名前を付けていたが、そんな感じだった。まず近藤(等則、トランペット/ホーン奏者)、それからパーカッショニストの土取利行、ベース奏者の吉沢(元治)、テナー奏者の高木(元輝)、アルト奏者の阿部(薫)など。ツアーも彼らと一緒だった。まず僕がソロで演奏して、次に彼らと演奏した。僕のソロ、彼らとのデュオ、そして最後に全員で合奏、というのがアイダのアイディアだった。僕は否応なく彼の案を受け入れざるを得なかったよ!僕は当時から何やらガタが来ていたんだがショーはうまく行ったよ。ミュージシャンに加えてアイダ、そして彼の随行団が同行した。随行団というのは、レコーディング・エンジニア、カメラマン、ドライバー、そして6〜7人の、う〜ん何ていうか、取巻きというか、友人というか、つまりアイダの信奉者たちだ。どこへ出かけるのもこの一行だった。僕は彼らよりも1フィート以上背が高かった。当時、彼らはほとんど英語を話さず、僕の知っている日本語の単語はふたつだけだったからボディ・ランゲージ以上のたいした会話がなかった。一行はいつも12人以上で、アイダがホテルをブッキングする時は、僕にシングルを1部屋、あとはスイート1部屋だけだった。たまたまスイートに出かけた時に目にした光景は驚きだった。部屋中に人間が横たわっている感じだった。和風の宿屋に泊まることも多かったんだが(当然だけど)、アイダは僕には何とか洋式の部屋をあてがおうとした。結果として、ホテルのブライダル・スイートに泊められたことが一度ならずあった。 (ツアーで)僕が荷物を持つことはなかった。当時でも、僕は自分のギター・アンプを階段を使って持ち上げて3人の客を前に演奏するということには慣れていたのだが。(日本では)自分でギター・ケースを開けさせてもらうことすら容易ではなく、観客は600から700人はいた。それはそれは貴重な体験をした。 |
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