UPDATED 01.09.2006
SJ: 思うに実入りはかなり良かったのでは?

DB: そうだね。帰国してから自分の車を買ったからね。そう、たしかに実入りは良かった。だけど、あの国が本来負担すべき内容からいうとそれほどでもなかったと思う。初めて訪日したとき以来いくつかの変化が見られるが、なかには注目すべきものもある。初めの頃は、東京を出ると日本語以外で書かれたものを見ることはまるでなかった。汽車で旅に出るとする。幸い、僕ひとりで出かけることはなかったけど、自分が何処にいるのかまったく分からないんだ。目印が何もない。すべて素晴しいのだが何も情報がない。80年代初期からいろいろ変化が見られるようになった。アメリカのミュージシャンが大挙して来襲するようになったことも含めてね。彼らは皆<シャクハチ>を学んで帰るんだ。その後はドイツのミュージシャンだ。あらゆる名目を駆使してゲーテ協会の助成金を得てね。なかには現地妻を調達した輩(やから)もいた。もっともドイツのミュージシャンは皆それをねらっていたようだけど。

アイダはギグ(編集部註:クラブの仕事)を取る名人だったね。彼は、ブッキングするミュージシャンの音楽はおろか、どんな音楽にも関心がなく、一度もコンサートを開いた経験のない相手にさえ公演を買取らせることができたんだ。そのひとつが日本の最北の島、北海道の小さな漁村だった。まったく異様な場所でね。(会場は)絶壁に近いところに建てられていた。その村は山の中程から海に向かって傾斜していき港がある、という地形だった。道を駆け下りるか息をついて登って行くしかない。マーケットが一軒あったが、売り場の大部分はタコに占領されていた。傾斜地だからマーケットは急勾配の階段の上にあって、ステップごとに売り場がある。階段を下りて行くにしたがってタコがだんだん大きくなるんだ。肩で息をしながら道を上ったり下りたりして行くとやっと日本ではありふれた現場に出会うことになる。通り過ぎる店々から大音響で音楽が流れてくる。しかもそれぞれの店が違う音楽をかけているんだ。スピーカーを店の外に吊るしてね。店が小さいから、道を小走りで下りて行くと3歩か4歩ごとに音楽が変わっていく。まったく音の渾沌の中に放り込まれたようだった。僕の経験の数々は、ある意味で、僕が知り得た人たち、つまり、ミュージシャンか音楽関係者に限られていると思う。だから、僕の経験したことがどれほど普遍的であるかは分からない。しかし、僕が日本人について気付いたことのひとつは、僕が<ギグル・ファクター>(忍び笑いの癖)と名付けたものである。表情には出難いところでいつも忍び笑いがある。とくに音楽の場合、真剣さにとってこれが致命的な欠陥となる。もちろん、自分達の音楽については真剣である。しかし、彼らは同時に「大仰であること」も必要条件であることを理解していない。ヨーロッパのミュージシャンと違って、日本人がシリアスな音楽を演奏する場合、持って回ったやり方で鎧(よろい)を付ける必要があるということだ。これは乗じるということではないんだが。

SJ: クスクス忍び笑いをしているドイツ人のインプロヴァイザーというのは想像だにできない...

DB: ドイツという国には「忍び笑い」というのはあり得ない。しかし、日本人はある種の「軽やかさ」というものを身に付けており、だからこそ彼らは不運から身を守る大事なことを紹介できるともいえる。そのことは同時に彼らがメロドラマの分野では行くところまで行ってしまい、おかしなことになってしまう要因にもなっている。

アイダはジャーナリストでもあったんだ。彼はペンネームを3つ持っていたのだが、当初僕はそれを知らなかった。彼が全体の8割も書いている音楽雑誌もあるんだ。彼の気に召さない場合、それはかなり不幸な結末を迎えることになる。彼は君のような批評家になるんだ。しかも凶暴な犬のようなね。だが、その点、僕の場合は幸運だった。彼は僕の音楽が気に入っていたから、僕の音楽についてはいつもとても好意的だった。彼は翌年32才で逝ってしまった。死因は脳腫瘍だったか。羽目をはずす男ではなかったんだが。タバコは1日に60本は吸ってたね。彼と一緒に仕事をしていた連中は掛け替えのない男を失ってしまったことになる。

80年代のあるとき、僕は彼の故郷で演奏していた。彼の母親が洒落た喫茶店を営んでいてね。いつもBGMにクラシック音楽が流れていた。ひとしきり流れていたバロック音楽が終わるとお決まりのモーツァルト、というわけだ。音楽は、コーヒーとケーキの良きお伴、という感じだな。僕らは皆でアイダの墓に詣で、タバコに火を点け、墓石の上に置いた。12本の、いや、もっとあったかな、タバコが蝋燭(ろうそく)のように燃えていき...幻想的な光景だった。アイダも喜んでいたと思うよ。

▲ PAGE TOP