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SJ: 田中泯(編集部註:舞踏家)ともずいぶん共演しましたね。
DB: 田中泯と初めてあったのは日本だ。彼が僕のコンサートに来てくれた。その頃の彼は英語がまるで駄目だったんだけど、マネジャーの木幡和枝がしゃべれたんだ。彼女も素晴しい人物でね、特別な存在だった。彼女はミンの旅に付合い、しかも精力的なジャーナリストなんだ。ノーマン・メイラーやスーザン・ゾンタークといったレベルの文学者にもインタヴューしてるし、通訳でもある。とにかく、彼ら(ミンとカズエ)は僕にとってとても大切な存在になった。そして関係は今も続いている。 僕が2度目に日本へ出かける前のことだったが、ミンから一緒にニューヨークへ行って欲しいと依頼があった。ところが、僕はニューヨークへも行った経験がなかった。なにしろ遠過ぎると思っていたからね。それに、アメリカにはたくさんのギタリストがいるから僕のような老いぼれギタリストに用はないと思っていたんだ。 SJ: ということは、あなたがミンと最初に演奏したのはニューヨークだったのですね? DB: その通りさ。それから1981年にツアーを組んでくれた。バンドも組んでくれた。これはバンドといっても良いと思う。バンドの名前はアルファベットの組合せでMMD、つまり、ミン、ミルフォード(グレイブス)、そして僕、デレクのイニシャルだ。それから15〜18ヵ月かけてあらゆるところを回った。日本ツアー、アメリカ、全ヨーロッパ。イギリスでもコンサートをやった。ミンの舞踊と僕とミルフォードの演奏。ミルフォードの演奏というのはいろんな要素の総合なんだ。ダンスにしゃべくり、それに彼がやりたいすべて。日本のコンサートはすべて録音された。もっともこのグループを上手く録音するのは不可能だ。ふたりはほとんどステージを動き回っているんだから。 結局僕はツアーが終わったあとも日本に居つづけることになってしまった。他にやりたいこともなかったからね。日本で仕事を続けられることが分った。少なくとも当時はね。今はかなり変わっていると思うが。最高の仕事場だと思った。その気になれば仕事はいつでも何でも取れたからね。たとえば、仕事のできるクラブがいくつかある。そしてもちろん生活水準には大きな隔たりがある。イギリスの場合は、第2と第3世界の間のどこかだと思う。日本の場合はまるでケタ外れだ。(日本の)極く普通のギグで稼げる出演料は、イギリスで稼げる出演料に比べて、かなり魅力的だったといえる。 |
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