MONTHRY EDITORIAL02

Vol.30 | 遠山慶子氏 (pf) 毎日芸術賞受賞によせてtext by Mariko OKAYAMA

毎年、元旦に発表される毎日芸術賞の音楽部門で、今年はピアニスト遠山慶子氏が受賞した。毎日(新聞)も味なことをやる。
たとえばこれが中村紘子のデビュー50周年を迎えての華々しい活動に、であれば、一般にもごく当然に思われたろう。賞というのは、だいたいが良く知られたビッグネームに与えられるのが普通だ。 でも今回の遠山慶子氏は、どちらかというと、知る人ぞ知る的な存在で、その中でも、熱狂的なファンと断固否定組とにはっきり分かれるタイプのピアニストである。
したがって、今回の受賞の意味は大きい。


photo by 林喜代種@遠山邸(ピアノ:ベヒシュタイン)


彼女は批評家遠山一行夫人で、一行氏が音楽監督を務める草津の音楽祭では講師陣に加わり、演奏会もするが、バリバリとコンサートをこなすような道は歩んでこなかった。
52年に来日したコルトーに招かれ渡仏、パリ・エコール・ノルマルに学び、3年をコルトーのもとで過ごす。デビューは63年パリで、欧米での活動が多い。
78年のリサイタルにおけるショパンの演奏で日本ショパン協会賞を受賞したが、79年録音のCD/ショパン『夜想曲集』から、次の第2集を出すまでに17年かかった。ドビュッシー『前奏曲集』録音も、全2巻にやはり17年。 今回の受賞は、ウィーン・フィルのコンサートマスター、ウェルナー・ヒンクとのモーツァルト『ヴァイオリン・ソナタ選集』の完結とデュオ・リサイタルによってで、選集T〜Xには、18年の歳月がある。 彼女の足取りは、実にゆっくりなのだ。先端を走り続けねばならないために、息切れし、消耗し尽くす消費路線とは全く別のところで、音楽を創り続けてきた。それを恵まれた幸福、と言うことは簡単だが、そこには音楽に対する彼女の倫理があり、貫くのが容易でないことも確かだろう。ここに受賞の一つの意味がある。 では、なぜヴァイオリン・ソナタでピアノが受賞するのか。これらのヴァイオリン・ソナタはヴァイオリン伴奏付きピアノ・ソナタだから、というのは一つの答えだが、誰と組もうが、トリオだろうが、クァルテットだろうが、彼女の存在感が圧倒的、というのが本当のところではないか。しかも、組む相手は西欧の演奏家がほとんどだ。ここにも彼女の演奏の特質が現れている。
その特質は二つ。まず、音、ひびき、それ自体の特異さだ。
以前、本誌で私は「触れたとたん、淡雪のように溶け、かつ相手を溶かし、そこに<そうあるべき音>をそのつど創出させる、ただならぬ音。」と書いたが(http://www.jazztokyo.com/live-report/v13/v13.html)、とりわけ生で聴くそれは、一音でたちまち聴き手の全身を溺れさせる。追っかけになる熱狂的ファンは、まずはこの音の虜になった人々で、彼女を共演者に望む西欧の音楽家たちもそうだろう。 昨秋のヒンクとのデュオの際、私は溺れながらも懸命にそのひびきの内実を探ってみたが、ぼんやり了解できたのは、そこにたゆたう「悲と慈」の境涯だった。
コルトーは彼女のショパンを「あなたのは孤独な音がするから、それはかけがえのないことだよ。」と言い、「単純にショパンが弾ける」彼女を祝福したという。コルトーは、人間の悲、あるいは生きることの悲と真闇を彼女が知っており、それをそのまま鳴らす、と感じていたのだろう。

 

一方で、その音はどこまでも、溶け、溶かす受容を湛え、光のなかに全てをくるみこむ。
デュオや室内楽にその特質がとりわけ発揮されるが、その受容の広さ、深さは、おそらく欧米の音楽家たちには見出し得ない、たとえようもない慈の容量、ありかたなのではないか。それを彼らは敏感に感じ取り、いわば、その音に抱かれたくて、彼女を欲する。
どこかにサインを入れねば気の済まぬ西欧の意識を嫌い、自分はアノニムで構わない、と言う彼女の響きは、誰をもそっとくるみこむのだ。
悲と慈、すなわち慈悲とは悲の極みから知る愛のことと私は思うが、一見豪奢な彼女の出自と人生の来し方の背後に、その淵源を読み取ろうとするのは無意味だろう。彼女の音は、もともとそのようであり、そのようになったのであり、そういう魂の持ち主だったのである。
もう一つの特質は、音楽の自在さ。
これが彼女の評価を二分する大きなポイントで、要するにスコア通りに弾かないことが多々あるのだ。あるいは、時々で大きな波があり、とりわけソロ・リサイタル(非常に少ない)でそれが激しい。完璧主義の聴き手には、受け入れ難い演奏スタイルと言える。
だが、これもまた西欧の音楽家たちが惹かれ、ファンが追っかけとなる強烈な魅力なのだ。
彼女の音楽、彼女との演奏は、毎回、どこへゆくかわからない。どうなるかわからない。常にスリリングな冒険に富み、はらはらドキドキさせられる。今、このとき、どのように音楽を生み出してゆくか、ゆかねばならないかを試される。
音楽的地力が求められると同時に、音楽本来の持つ即興の極みと愉悦がそこに溢れるのだ。それはかつての西欧の演奏に息づいていた喜びであり豊かさで、もはや失われつつあるスタイルなのである。
コルトーは「完璧を目指すな」「時にはわざと横の音を叩け」と言ったという。あるいは、マルグリット・ロンがショパンの協奏曲の終楽章の途中で止まり、客席に「パルドン!」と叫んで第一楽章から弾き直し、その演奏を二度聴けたことをお客が喜んだ話。ウィルヘルム・ ケンプはモーツァルトのソナタから途中でベートーヴェンに変わり、また戻って終わった、など。彼女が学んだパリには、そういう演奏と音楽を楽しむ空気があったのである。
精確、完璧、ノーミス・・・それがプロの演奏家の基本であり、より速く、より大きく、より強く、の演奏・音響肥大症、機械化は、チャップリンの描いた『モダンタイムス』そのままだ。
演奏とはplayで、遊びがなければ楽しくないという彼女の言葉は、一行氏の批評と重なる。


めまぐるしく変遷する音楽マーケットとは別の場所でこつこつと自分の音楽を育て、稀有の音のなかに稀有な境地を拓き、今日の演奏スタイルとは異なったスタイルを伝える遠山慶子のピアノが受賞したのは、すなわち時流とは関わりない音楽本来の姿への評価であったろう。
裏返せば、それを評価する人々が日本に確実にいた、ということである。
それは私たちの中での音楽の成熟の証とも言えようが、そのような独特さを持つ演奏家が他に見当たらないことも確かだ。草津に撒いた種が、やがて新たな実を結ぶ日を願う。
彼女は咋夏、『音楽の贈りもの』というCDブック(春秋社)を出した。彼女の演奏は上記の特質のゆえ生に限ると私は思うが、その輪郭はかなりこのCDブックで掴めるのではないか。

 

とりわけ、冒頭のモーツァルトは05年草津でのライブ録音で、特異な響きと語りの片鱗が聴ける。続くシューベルトは09年遠山邸におけるベヒシュタインでの最新録音で、ときおりゾクッとする深さがある。ショパンも4曲入っているが、私は79年の第1集からの2曲を好む。ドビュッシー6曲は06年の録音。
ブックレットにはさまざまなエピソードが収められており、突出した環境と人生とが語られ、音とともに、彼女の全体像が浮かんでくる仕掛けだ。
ヒンクとのモーツァルト『ヴァイオリン・ソナタ』連続ツィクルス@王子ホールが昨年2回、今年2回の予定。虜になるか断固否定になるか、自分の音楽観を確かめるよい機会となろう。


丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

JAZZ TOKYO
WEB shoppingJT jungle tomato

FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


Copyright (C) 2004-2015 JAZZTOKYO.
ALL RIGHTS RESERVED.