紅白歌合戦で『トイレの神様』を初めて聞き、不覚にも泣いてしまった。トイレがこんなにきれいな国は世界中ほかにない。フランスなどは汚いだけでなく、そもそもトイレを探すのが一苦労で、駅にもデパートにも公園にもトイレはないものと覚悟しなければならない。歩道に設置されたユニット・トイレも半分は故障中だ。便所掃除といういやな仕事を心を磨く修行にまで高めたのは禅宗の功績だろう。トイレ掃除のボランティアをやっている人の話を聞いたことがある。メンバーには社長さんもいて、早朝新宿などの公衆便所をぴかぴかにする。掃除した後のさわやかさが忘れられず、町から町へとトイレを求めて外国にまで活動を広げることになるそうだ。『トイレの神様』の植村花菜は、トイレをピカピカにしたらべっぴんさんになれるとおばあちゃんが教えてくれたと歌うが、「べっぴんさん」という『死語』には、美人になりたい露骨な欲望ではなく、心の美しい人に自分を磨く願いが籠められているような気がする。
 28歳の花菜は物心ついてから一度も好景気を経験していない。8歳のころバブルが崩壊し、彼女が18歳のとき登場した小泉首相は弱肉強食、勝ち組・負け組仕分けのネオリベラル経済を取り入れ、日本から優しさを奪った。「どうしてだろう 人は人を傷付け 大切なものをなくしてく」。そんな社会しか知らないのだ。なぜか人間を幸福にしてくれない都会生活を送った花菜は、おばあちゃんが死んだとき、本当に確かな幸せはおばあちゃんとした「五目並べ」と、一緒に食べた「鴨南蛮」だったと悟る。大晦日の風呂の中で初めてこの個所を聞いたとき、ぼくは彼女たちにおわびしたい気がした。「日本を精神的荒野にしてしまったのは私たちの責任です」。罪責感と喪失感。壮大な夢と観念的理想が大好きだったぼくら全共闘世代はどこか大きな間違いを犯していたに違いない。『トイレの神様』を聞き終えて最初に連想したのがフォーレの『夢のあと』だったのは、苦い喪失感のせいだろう。
 しかし、この歌を聞いたおじさん連がノスタルジーないし喪失感から涙腺が緩むのに対し、花菜にはそんな女々しいセンチメンタリズムはない。ポリティカリ・コレクトな女性像に爆弾を投げつける過激派だ。歌の最後の「気立ての良いお嫁さんになるのが 夢だった私は

 

 きょうもせっせとトイレを ピーカピカにする」を聞いたとたん、友人のフェミニスト達が怒る顔が目に浮かんだが、「20秒でチャンネルを他に切り替えた」とか「本当にいやらしい」とか「あんなものに人気が出る風土は困ったものです」とか僕の想像を上回る呪いの声が聞こえて来た。これが着物姿の演歌歌手だったらフェミニストの怒りはなかったに違いない。ところが花菜もおばあちゃんも男性依存型とは正反対の翔んでる女性のようであり、『トイレの神様』の軽快なリズムと簡素なメロディーには古い日本を思わせる湿った陰りが全くない。つまり古風な女性が古風な夢を歌った曲ではなく、知的ひねりのきいた毒のあるメッセージなのである。
 おそらくフェミニズムの人間像のなかにネオリベラルと共通する弱肉強食の能力主義、勝ち組・負け組の仕分けの思想が流れ込んでいるのを、若者は敏感に感じ取ったのだろう。たとえば上野千鶴子は、終身雇用を廃止し、「50代の男性が中途採用で30代の上司の部下になることも受け入れなければならないし、無能な人は、すぐにクビを切られる」制度に変えないと、「このままでは日本は滅びる」と主張している(『就活朝日』2010年12月28日)。女性の幸せを追求するはずの運動が強者の論理に荷担するところまで堕落したことに対し、花菜は「気立ての良いお嫁さん」とまたも『死語』をよみがえらせて抵抗したのである。
 政治や経済の大状況があやしくなると、日常の具体性に生きる女性が輝いてくるのだろう。鴨南蛮とトイレ掃除に人生哲学を発見しその哲学を歌って人を感動させることが出来るのは女性だ。そういえばリュックを背負い、女一人で2年間かけて世界47カ国を旅した記録『インパラの朝』で開高健賞をとった中村安希も揺るぎのない確かさを感じさせる若者だった。思想とか国家とか宗教とか大げさな世界は敬遠し、食べたり買い物したり日常のふれあいの世界に徹しきった、具体性から生まれる確信である。彼女は30歳。20年の不景気はしたたかな日本人を育てつつあるのかも知れない。

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松浦茂長(まつうら しげなが):1945年、京都府生まれ。東大文学部卒。パリ・ソルボンヌ大留学。フジテレビで主に海外ニュースを担当。英BBC海外放送出向、モスクワ特派員、パリ支局長など15年間ヨーロッパで生活し、定年後半年はパリで暮らす。

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FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


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