200号記念特集
「音楽との出会い」

私の音楽のバックグラウンド
オスカー・デリック・ブラウン

私の生誕の地、米国南部のある田舎での思い出である。
私は、トッコア・フォールという名の美しい滝で知られたジョージア州の小さな町で生まれた。そこはチェロキーの居住地で、お察しの通り、私はいわゆるチェロキー・インディアンである。
どういうわけか私の記憶が遡れる幼少時代、すでに頭の中では音楽が鳴っているのである。
私がピアノに向い練習を始めたのは3歳であった。
弾き始めの頃、影響を受けたのはラヴェル、ラフマニノフそしてストラヴィンスキー。長じて、アメリカの作曲家アーロン・コープランド。
ジャズの影響は思いがけず、ブラジルの作曲家アントニオ・カルロス・ジョビン。ジョビンの音楽はことあるごとにいまだに耳に甦る。影響を受けた音楽家は有名、無名他にもたくさんいるが、真っ先に浮かぶのはジョビンである。
コードのヴォイシング、リズム、時にはコードをアルペジオで弾いたときに影響を感じることがある。その源泉は、ギタリストのロニー・ドレイトンであったり、ホレス・シルヴァーであったり、ハービー・ハンコック、マッコイ・タイナーである。エルヴィン・ジョーンズのシンコペイションやポリリズムからはスペースとタイムについての独特の理解を得た。現在制作中の『House behind a Fall』を聴いていただければ私のいわんとすることを分かっていただけると思う。とくにグルーヴとカラリングについて。

オスカー・デリック・ブラウン Oscar Deric Brown
1953年、ジョージア州トッコア・フォールズ生まれ。ピアニスト、キーボーディスト、コンポーザー、プロデューサー。1962年LAとNYを往来しながら現在はNYに居住。サンタナ(1976~77)、ユッスー・ンドゥール(1990)などとのツアー、中川勝彦の『Human Rhythm』(1989)、『レインボウ・ロータス』(1995)などのアルバム制作、ヴィム・ヴェンダースの『Till the End of the World』 他3作の音楽制作など多彩な活動を展開。
https://www.facebook.com/oscarderic.brown?fref=ts

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ジャズとの絶えざる出会い
周昭平

今日、ハンガリーのピアニスト、ラズロ・ガードニーの『The Legend of Tsumi』(Antilles, 1988)の中古LPを購入した。デイヴ・ホランド(b)とビル・モーゼス(ds)とのトリオ盤である。熱い夏の日の夜遅く、B面1曲目の<Meeting You There>を聴きながら、音楽、とくにジャズとの出会いに思いを巡らした。それは、ある瞬間や特定のアルバムではなく、ジャズそのものとの出会いであったことに気が付いた。偉大な演奏者のアルバムを聴くということは、そのアルバムを聴く多くの愛好者とその音楽を共有していることになる。演奏者に限らず、そのアルバム制作に係わった写真家、デザイナーらとも。ジャズを取り巻く純なる魂は世界を駆け巡っているのである。
たとえば、デイヴィッド・マレイの『Conceptual Saxophone』。1978年2月7日、パリでの独演。この日は僕の4歳の誕生日でもあるのだ。<Felling Stupid>、しかし、<The Parade Never Stops>。マレイのブロウイングは果てしなく続く。僕にとっての宝物。
たとえば、本田竹彦が煙草をくゆらすカバーの『アイ・ラヴ・ユー』。杉浦康平の禅風味とも言えるデザインの『本田竹彦ミーツ・リズム・セクション』。音楽の素晴らしさは言うまでもないが、それと同時に音楽の雰囲気を完全に再現したアルバム・デザイン。僕は盤面を返すたびにジャケットをためつすがめつ、時には指でなぞることもあるほど。
ところで、僕はアルバム『After 75 Years』の制作に参加したことがある。このアルバムは、1930年代に愛唱された中国の歌のコレクションで、録音は、台湾の歌手メイシー・チェン、演奏は日米のミュージシャンを中心にNYで行われた。僕もNYに出掛け、録音スタジオでの演奏など現地の制作状況を身をもって体験、同時にジャズの本場の自由な雰囲気の匂いを嗅ぎ取った。僕が書いたストーリーは、メイシーの祖父にまつわる物語で、彼は1925年に台湾から日本にわたったサックス奏者。そして孫が歌ったアルバムが2010年にリリースされた。
ジャズは、そこでもここでもあそこでも、君と、彼と、僕と、つまり場所や相手を問わない果てしない出会いなのである。アルバム『The Legend of Tsumi』で批評家のビル・ミルコウスキーは書いている;「このアルバムには数々のマジックの瞬間がある。3人のミュージシャンが一体となって演奏する瞬間、それぞれが自身の楽器を超えて交感する瞬間、そして音楽自らが生命力を帯びる瞬間」。ああ、また彼らの演奏を聴きたくなった。ご一緒にどうですか?

周昭平 Chao-Ping Chou
1974年、台湾基隆市生まれ。音楽ジャーナリスト。高雄市在住。国立NCKUで中国文学を学んだ後、NSYSUでMBA取得。角頭音樂社を経て現在は新聞へのジャズに関するレポートを寄稿の他、ライナーノーツなど文筆活動に従事。台湾で初のヨーロッパ・ジャズに関する共著『樂士浮生記』を刊行。制作に参加した歌手Macy Chenのアルバム『After 75 Years』が、第12回 Independent Music Award で「ベスト・アルバム・デザイン」賞を受賞。
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音楽との出会い
ジェフ・コスグローヴ

僕の音楽好きは生来のものだ。両親が出掛ける時だってラジオさえ鳴っていれば、むずかることなくひとりでおとなしく寝ていられた。音楽の何かが僕のどこかといつも共振していたのだと思う。今までたくさんのライヴ演奏を聴き、自らもミュージシャンとして活躍し、何年にもわたって数限りないレコードに耳を傾けてきたが、僕のすべてを変えてしまった音楽との出会いがふたつだけあった。
ひとつ目はB.B.キングの生演奏との出会い。ワシントンDC近くの野外コンサート。会場に一歩足を踏み入れた時から自分が何か特別なものに捕われている気がしていた。その夜はB.B.キング一色。素晴らしかったのは彼のギターだけではない。バンドのすべて、なにもかもだ。彼の音楽から伝わる正直さ、力強さ。彼が愛器ルシールを通して歌う音楽の純粋さ。この夜のB.B.の演奏ほど、ミュージシャンと聴衆の一体感、バンドが発する一音たりとも聞き逃すまいとする集中力を要求した例はなかった。
もうひとつの経験は、ジョン・コルトレーンの<マイ・フェイヴァリット・シングス>を初めて聴いたとき。グループ全体の緊密性は驚くべきものだったが、なかでも僕を捉えたのはマッコイ・タイナーのピアノとエルヴィン・ジョーンズのドラムスだった。エルヴィンのドラミングを聴いたのは初めてだったが、その時以来エルヴィンが僕のアイドルであり続けている。この演奏でのマッコイのソロは僕の変わらぬお気に入りである。
上記のふたつの体験が僕の音楽観を変えた。サウンドそれ自体、音楽との係わり方、一体感。僕が音楽に求め続けていたものを共有できた瞬間だった。

ジェフ・コスグローヴ Jeff Cosgrove
ワシントンDC生まれ。生業を続けながらドラマーの道を歩んでいる。2010年、敬愛するドラマー、ポール・モチアンの楽曲をカルテットで演奏したアルバム『Motian Sickness~The Music of Paul Motian~For the Love of Sarah』を自費出版。今年、NYダウンタウンシーンのキー・パーソン、マシュー・シップ(p)、ウィリアム・パーカー(p)とのトリオで2作目のアルバム『オルタネイト・カレント』を制作。
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音楽との出会い
藤井郷子

最初に聞いた音楽は、もちろん記憶には残っていない頃のものだと思う。物心ついた頃は、両親が聞く音楽とテレビやラジオから流れてくる音楽があった。母がイタリア歌曲やオペラ等、やたらにドラマチックな音楽が好きだった。おとなしく、幼稚園にもなじめずやめてしまい、家にばかり居た「引きこもり幼児」だった私は、家で母とそんな音楽ばかり聞いていた。いまだに心をわしづかみにされるような、ドラマチックな音楽には、理性を超えたところで、心惹かれる。クラシックピアノを習い始めてからも、バッハやモーツァルトよりも、ドラマチックなベートーベンや心の琴線をかき乱されるようなショパンやリストが好きだった。ティーンエイジャーの頃は、まわりの友人達とポップスやロックにもはまったが、魅力的なメロディー、心にせまるハーモニーの進行、ワクワクさせるビートの音楽は文句なしに夢中になった。でも、どれも、この音楽のここが好きと言えるような種類の嗜好だ。

そんな聞き方ではない音楽の出会いが、高校時代にあった。その頃は、尊敬するクラシックピアノの師匠、宅孝二先生の影響でジャズを聞き始めていたが、アドリブになると追いきれないメロディー、忙しないビート、不協和音程を山ほど含んだハーモニーを、どうしても好きになれずにいた。それでもマジメにFMでジャズを聞いていた私は、ジョン・コルトレーンの『至上の愛』と衝撃的な出会いをした。その頃はFMラジオでそんなのもかかる時代だ。メロディーもハーモニーも認識できずに追われるようなビートは決して心地よいものでもない。何をやってるのかさっぱりわからないのに、なぜかすごい。何がいいのか説明のつかないものに心を動かされるという衝撃。それ以降、私の音楽の聞き方が180度変わったと言っても大げさではない。音楽には、鳴っている音の後ろに大きなエネルギーがある。それはちょうど、静かに見える湖面の下には、目に見えない深さがあり多くの生物がいるのと同じようだ。それまで、私はその目に見えない部分を全く感じずに鳴っている音を聞いていた気がした。音楽には様々な聞き方がある。知っているメロディーを聞きたい、そしてそれが甘い思い出を呼び起こす、という聞き方ももちろんあるし、今まで聞いた事もないようなものを聞きたい、思い出ではなく新たな刺激にワクワクさせられるという聞き方もある。私は音楽家なので、いちいち思い出には浸らない、後者の聞き方をする。そして、コルトレーンの『至上の愛』をはじめて聞いた時のように、なんだか判らない何かに心を動かされるのを何よりも楽しみにしている。

そして、もうひとつの出会い。実は私は私の作る音楽との出会いがうれしくて仕方がない。それは、自分の知らない自分と出会い、ますます自分自身になっていくような、自己啓発でもある。

晩年、耳が聞こえなくなった祖母が「耳が聞こえなくなってから、今まで聞いた事もないような美しい音楽が耳の中で聞こえる」と話してくれた。どんな音楽なのか問うても、音楽家でもないし鼻歌も歌わなかった祖母は説明できなかった。それがどんな音楽だったのか、皆目わからない。でも、その祖母の言葉は「今まで聞いた事もないような美しい音楽」を作りたい、出会いたいという思いで私の中に残った。まだまだ途上だけれど、それが、次なる衝撃的な出会いになればと夢見る。

藤井郷子 Satoko Fujii
1958年東京生まれ。バークリー音大を卒業後、一時帰国、ニューイングランド音楽院に入学、ジャズの他に現代音楽、民族音楽等を学ぶ。卒業後、NYを経て帰国、現在は東京とベルリンを拠点にパートナーの田村夏樹(tp)と共に日米欧を舞台にグローバルな活動を展開。ソロからオーケストラまですでに60作近いリーダー作を制作、師であるポール・ブレイの教え「コンスタントに録音」を頑に守っている。
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音楽との出会い
藤原 聡

 語るほどのものでもないのですが、と前置き。
確か母親が購入してきたドーナツ盤(懐かしい!)により、小学生だった頃に寺尾聰の「ルビーの指輪」、シャネルズ(後のラッツ&スター)の「ランナウェイ」「街角トワイライト」などを熱心に聴いていた記憶がある。まあマセガキだった訳です。親は特段それらのアーティストが好きだったとは思えぬが、当時は「ザ・ベストテン」がある種の国民的歌謡番組で、寺尾聰の曲などはこの番組で確か○週連続第1位! みたいなことで話題になっていたからつられて何となく買ってみた、位の話だろう。だが確か小学校6年生の時に決定的な出来事が起こる。「音楽鑑賞教室」という奴である。オケが都響だったことはなぜか覚えているが、学校行事としてクラシックのコンサートを聴きに行くなどというものが当時はあり(今はさすがにないだろう)、ここで聴かされた「ウィリアム・テル」序曲やら―当時「オレたちひょうきん族」というお笑い番組があり、これのテーマ曲が「ウィリアム・テル」序曲の「スイス軍の行進」だったので鳴り始めた途端に小学生どもは大爆笑である―「運命」の第1楽章に何か心を動かされるものがあったのだ。その直後、初めて自分の意思で母親に頼んで買ってもらった音楽ソフトが、カラヤン&ベルリン・フィルの「運命」(1962年盤)と恐らくまだ新譜に近いものだったであろうイ・ムジチの「四季」(カルミレッリの1982年盤)のカセットテープである。ここにおいて、与えられた音楽を受身で聴くのではなく、主体的な意志でもって音楽を選び取ったのだった。これを聴いて、さらにクラシックへの興味はイモヅル式に広がって行き、そうか「運命」の他にも「英雄」というのが有名なのか、でベートーヴェンのニックネーム付きの曲が名曲らしいのでならば「皇帝」「田園」も聴いてみよう、カラヤンはチャイコフスキーが得意とのこと、ではことさら愛しているという「悲愴」という曲を聴いてみよう、とレパートリーはどんどん拡大して行く。小6の10月には、親に連れられてなんとカラヤン&ベルリン・フィルの来日公演まで聴いてしまった(但し演奏内容は当然覚えていない。格好良かったカラヤンが足を引きずっていたのに意外の感を受けた)。さらに、中学1年の時にアマオケの都民交響楽団の招待券で東京文化会館で初めてマーラーの「巨人」を聴き、それまで聴いてきたベートーヴェンやモーツァルトとはあまりに異質なために全く理解不能でパニックに陥ったものの、その「分らなさ」が妙に引っかかっていてそれを突き止めようとショルティ&シカゴ響の同曲録音をあまり日が経たぬうちに購入した記憶は鮮明に残っている。中学生時代にはマイケル・ジャクソンにハマったり、友人の影響でいわゆる洋楽の名盤をある程度網羅的に聴いていたものの、それが自分の「本流」になることはなかった(高校時代にはジャズに開眼して、こちらもクラシックに次ぐ興味対象となったのだが、ここでは言及しない)。そして20代前半で某レコード店への勤務が始まり、クラシック音楽が半ば仕事となった次第である。それは今も続く。
 筆者は高校時代に独学でかじったピアノを日があまり経たぬうちに「向いていない、面白くない」と放棄したのだが、いわゆる「アート」に関して、自分がやることで対象を中に「取り込む」よりは、なぜか距離を置いて外側から享受する方がはるかに向いている気がする。その理由をここで分析開陳するスペースはもはやない。機会を頂ければまたの機会にでも。

藤原 聡 Satoshi Fujiwara
代官山蔦屋書店の音楽フロアにて主にクラシックCDの仕入れ、販促を担当。クラシック以外ではジャズとボサノヴァを好む。音楽以外では映画、読書、アート全般が好物。休日は可能な限りコンサート、ライヴ、映画館や美術館通いにいそしむ日々。
https://www.facebook.com/satoshi.fujiwara0124?fref=ts

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音楽との出会い
剛田 武

父が若い頃からクラシックの大ファンで、私が生まれる前(1960年頃)に、喫茶店やレストランにクラシックや映画音楽のレコードを貸し出すという、今で言えばレンタルレコードのような副業をしていた。母も結婚したばかりの頃、電車に乗って銀座のコーヒー店にレコードを届けたことがあると言う。1962年に私が生れ、すぐに函館に転勤になったので、その仕事とレコード・コレクションは友人に託してしまった。転勤がなくそのまま続けていたら、結構いい商売になったかもしれない。そんな両親だったので、幼少の頃から音楽が身近にあった。一番古い音楽に関する記憶は、夜寝るとき母が歌ってくれた子守唄。悲しいメロディーと歌詞を聴いていると涙がこぼれてしまって、母に知られないように反対側へ寝返りを打ったものだ。たぶんバレていただろうけど。他によく覚えているのは、「はげ山の一夜」「ウィリアム・テル」「ピーターと狼」などの絵本とレコードがセットになったクラシック名曲集。母にせがんで物語を読んでもらって、自分でレコードをかけるのが楽しみだった。保育園に 入った頃、オルガンを習いにヤマハ音楽教室に通った。自分で言い出したのか親が通わせたのか覚えていない。オルガンを弾くのは楽しかったが、母が厳しくて練習が嫌いだった。その頃好きだったレコードは「黒ネコのタンゴ」「ひょっこりひょうたん島」「ウルトラセブン」などだが、幼児の常でレコードにクレヨンで落書きしてしまい聴けなくなった。実は子供心に絵を描いたら聴けなくなることが分かっていたような気がする。

小学校では授業で習う唱歌やテレビの歌謡曲を口ずさみながら登校する普通の少年だった。縦笛やピアニカなど楽器演奏も好きだった。子守唄の影響か、マイナー調の曲が好きで、「小さい秋」「ドナドナ」「学生街の喫茶店」を好んで歌っていた。小学5年の時、弟がトランペットを習うと言いだしたのに対抗してフルートを習い始める。生徒が女子ばかりだったので楽典の授業はいつもサボって、フルートの個人授業だけ出ていた。映画音楽が好きになり、こづかいで西部劇のシングル盤を買うようになる。レコード店で他にもいろんな音楽があることを知り、ラジオを聴き始め、洋楽ポップスに興味を持つ。ある日レコード店で流れていたきれいなメロディーの曲が気に入って購入したのが「エクソシストのテーマ」。マイク・オールドフィールド作曲のその曲がプログレとの出会いだった。

剛田 武 Takeshi Goda
1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。レコード会社勤務。
ブログ「A Challenge To Fate」 http://blog.goo.ne.jp/googoogoo2005_01

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音楽との出会い
林 喜代種

音楽との関わりを持つようになったのは、写真で仕事をするようになってからである。
写真は報道写真を学ぶ。その学校は当時日本の写真界の第一線で活躍している人たちが講師だった。その中に是非教わりたい先生がいた。写真技術よりも写真に対する考え方を徹底して教えられた。その後ポピュラー音楽雑誌で写真を撮り始め、報道写真とはかけ離れた仕事でした。人物写真でもアプローチの仕方が全く違った。報道は事実をその場の雰囲気をそのまま写すが、照明を使ってある程度きれいに撮らねばならない。フォーク、ロックの撮影で武道館にも多く通った。そうした時、今は閑古鳥が鳴いているが、クラシック音楽も面白いよ、と言われ、媒体を探してクラシックギターを撮り始めた。ギターの神様と言われたアンドレアス・セゴビアが87歳で30数年ぶりに来日した。東京、大阪、名古屋、札幌と追っかけて撮影した。新大阪の新幹線ホームではカメラに向かって奥さまの肩を抱き頬を寄せ笑顔でポーズを取ってくれた。心に残るシーンです。ギターといえば作曲家の武満徹を思い出す。作曲をギターでも行ったことは有名です。ギタリストの公演や録音の現場でよく撮らせてもらった。またベルギーのリエージュのギター・フェスティヴァルでは新作のギター協奏曲が初演された。約一週間の滞在中同じホテルで朝夕食などご一緒させて頂き、いろいろなお話を伺った。映画音楽など興味深く聞きました。また写真についても詳しく、アメリカの写真家アンセル・アダムスの話題にはびっくりした。大型カメラで写したモノクロのヨセミテの風景写真は有名ですが、実に詳しく知っていた。このときピアソラも招待されていて二人をホテル前で撮らせてもらったが、なぜか写っていなかった。これほど悔しい思いをしたこともなかった。また《今日の音楽》ミュージック・トゥデイの後半10年の記録写真を担当。多くの音楽家を写すことができた。武満徹の幅広い人脈と深い信頼を身近に見ることができた。ホロヴィッツの撮影も印象深く想い出します。二回目の来日の時、成田到着時からリハーサル、本番、インタビューまで密着した。ホロヴィッツは舌平目が大好物。雑誌で、食事風景の写真が欲しいとの注文。レコード会社の知人に話したら社長主催の食事会があるので撮れるかもとの返事。着なれないスーツ姿で到着を待つ。部屋を見回したワンダ夫人が13席のテーブルを見て、もう1席増やせと言っている。知人が僕に座るようにと。写真が撮れないと心配したが頃合いを見て合図をくれた。料理人の二人が木の取っ手の付いたタタミ一畳ほどの金網の上に舌平目を並べて運んできた。その中から選べという訳だ。その時のホロヴィッツの子供のような笑顔は忘れられない。第1回PMFのバーンスタイン、チェコ・フィルの「わが祖国」を指揮したクーベリック、夏の2週間の草津アカデミーなど、これまで写真を通して様々な人と音楽に出会えた。

林 喜代種 Kiyotane Hayashi
東京都日野市在住。80年代初めより現在までクラシック音楽を撮影。一時フォーク・ロック・ジャズ・ 民族音楽も。いま、落語・文楽に興味。(社)日本写真家協会会員。

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音楽との出会い
本郷 泉

まず何よりも初めに、JazzTokyo発刊200号、本当におめでとうございます。ひとえに編集者、執筆者の皆様の測りがたい音楽への情熱ゆえの今号を覚え、深く頭が下がります。大小の問題に直面することも少なくないと想像しますが、願わくば300号、400号と末永く紙面を重ねてゆくものでありますように。

さて、JTに寄稿される一流執筆陣の麗筆には足もとにも及ばないのは百も承知で、またこの記念の号に相応しいかどうか全く自信はないけれど、音楽にまつわるごく個人的な小話をひとつ。

少し昔のことにさかのぼる。東北地方の、ある小さな田舎町の中学校を卒業したわたしは、ちまたの喧騒から遮断され、クラシック音楽以外聴くことも演奏することも禁止、という少々風変わりな規則のある(この規則は現在は廃止されているそうだ)、山の中の小さな全寮制の高校に進学した。在学当時から、この規則の是非の議論はあったものの、私自身はクラシック音楽が特別好きだったわけではないにしろ、特に不満もなく、むしろ10代だったわたしの若い感性を少なからず刺激し、その後の音楽的嗜好の醸成につながる何かしらの恩恵を、この時期の音楽環境から受けたと思っている。

高校も大学も卒業し、最初の就職を経て、東京のA社に勤めることになった。入社からしばらくして、自ら願い出て、配属先の部署を異動させてもらった。異動先のオフィスは、いつか上から崩れてくるのではないかと思われるほどのレコードやCDや原盤テープや映像テープや本や書類や、その隙間にもろもろの録音、再生機器が置いてあるような、わくわくする空間だった。小さなオフィスだったが、そこにはすべてのジャンルの音楽があった。クラシック音楽三昧だった3年間のあと、バブル時代を象徴するディスコ音楽と、友人たちに影響を受け愛聴した欧州のロックしか知らなかったわたしには、そのオフィスは未知の新しい宝の山だった。そこでつつかれた新しい分野の音楽への関心はどこまでも広がり、貪欲に求め、結果、世界が一気に広がっていった。ネットがまだそれほど普及していなかった時代、音楽、特に非西欧圏の未知なる音楽を求めることに、20代だったわたしが持てるエネルギーの多く、五感と体力のある限りを費やしたように思う。実務の面では、厳しい上司のもと、多くを覚える機会をいただいた。厳しい上司だったが(ミスへの叱責の代わりに1週間近く口をきいてもらえないこともあった)、その裏に仕事への深い愛を感じた。言葉よりも背中で仕事を見せてくれ、アーティストへはもちろん、いかなる立場の相手にも礼節を失わない、師と呼ぶにふさわしい人だった。会社として利益を得ることよりも、むしろハートのこもった仕事のメソッドを学んだ。覚えの悪い、使えない部下だったかもしれないが、私自身には幸せな日々だった。わたしの我儘でA社を退職したが、我儘を黙って受け止めてくれたのも師だった。A社を起点に、公私関わらず、今に至る音楽繋がりの良き友を得た。今、妙齢のわたしは、往時の貪欲さは随分失ったものの、相変わらず音楽、主に非西欧圏の音楽を自ら欲するがまま聴き悦に入っている。A社と師に心から感謝している。

本郷 泉 Izumi Hongo
青森県弘前市出身。明治学院大学文学部英文科卒。音楽制作会社在籍中に非西欧音楽に興味を持ち、パリ、アフリカ諸国を遊学。帰国後、外資系の会社を経て、現在、駐日マリ共和国大使館勤務。
https://www.facebook.com/izumi.hongo/abou

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音楽との出会い
本宿宏明

実は音楽との出会いと綴るようなことが残念ながらない。音楽教師兼伴奏ピアニストの母と、モーツァルト/ベートーベン・フリークの父と、スポ根ピアノ教師である祖母のいる家庭に生まれ、3歳の時から無理矢理ピアノをやらされていた。父親の友人で、音楽家でもないのに口だけは達者な得体の知れないおじさんが、わたしの絶対音感が消える時期の記録をとっていたのを思い出す。なんでも人間は皆、絶対音感を持って生まれるそうで、環境によってそれを維持する者、反対にすぐに失う者など個人差が激しい、などとのたまっていた。小学校6年生頃に「あ、この子の絶対音感が消え始めたぞ」っと言われた事を覚えている。

体罰用の物差しを持つ祖母に睨まれながら耐えたピアノの練習から逃れるために偶然目にしたフルートを始めたのであるから、フルートが好きで始めたわけでもなんでもない。男の子がフルートなどいじめの対象にすらなった。だから、中学からベースギターを始め、ウエストロード・ブルースバンドに憧れてバンドを作り、高校を卒業する頃までには憂歌団に憧れてギターを始めていた。ベースにしては音数が多いとの苦情があったからだ。

ベースやギターに浮気をしながらもフルートをやめなかったのが自分でも不思議である。結局、大学はフルートで入学。ただ単に他の方法で受験するメドがなかっただけである。

人生が180°ひっくり返ったのは、大学卒業後アメリカに来てジャズに出会った事だ。中学の時、友人の兄に聴かされたチャーリー・パーカーのビ・バップは、当時の自分にとって騒音以外のなにものでもなかった。音の洪水の噴射。今思えば、あんなに印象に残ったのだから、すごいものだ。ジャケットまで覚えている。『Now’s The Time』だ。

わたしにとって幸運だったのは、アメリカに来て1週間目に、ルームメイトに連れて行ってもらったライブでジョージ・ガゾーンに出会ったことだ。当時まだ閉鎖されていなかった、サマビルにあるウィロー・ジャズクラブで毎週行われていたフリンジのライブだった。渡米前大学で作曲法を勉強し、ベルグなどの近代音楽を多く聴いていたので、中学の時に初めてバードを聴いた頃よりはるかに耳の許容力が大きくなっていたのだと思う。または目の前2m程の距離でガンガン吹きまくっているガゾーンに視覚で魅了されたのかも知れない。即刻自分の決意は「ガゾーンになりたい」であった。その日を境に1日10時間練習し、ガゾーンのライブについてまわり、かれのソロを採譜して、それをまた練習するという日課が出来た。翌年にはガゾーンをフロントでフィーチャーするビッグバンドまで結成してしまった。

これがわたしの音楽との出会い、っと自分では思っている。

本宿宏明 Hiroaki Honshuku
鎌倉出身。1987年バークリー音楽院、ニューイングランド音楽院(NEC)に奨学生入学、1990年両校同時卒業。NEC入学以来、ジョージ・ラッセルのアシスタント・ディレクターを務める。卒業後NEC、ロンジー、NEIAなどの大学で教鞭をとる。90年代初頭以来音楽活動にブラジル音楽を積極的に取り入れ、2012年アルバム『ハシャ・フォーラ』に結実させる。2013年同バンドを率いて来日ツアーを行う。在ボストン。
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音楽との出会い
堀内宏公

 家にあった多ジャンルのLPレコードのなかで、ベートーヴェンの交響曲だけにある特別な佇まいを感じたのは6歳か7歳の頃だったと思う。音楽は自分がそのなかに入っていくことのできる建物のように思われて、また繰り返し聴くたびに、次々と未知の扉が開いていく不思議さに夢中になった。ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の『運命』、『合唱』。その曲目解説の文中に登場する、主題、動機、展開、解決といった音楽分析の語彙は、この魔法のような音の束がある論理によって支えられていることを示していた。音楽が世界のなかで自立して存在していること、その秘密をおぼろげながら知って怖くなったこと。信ずべきものが自分自身の内部になくてもよいこと。だからベートーヴェン以外の別の音楽を聴きたいと思うこともなかった。不安定な景色のなかでも心は充ち足りていた。
 音楽を特別な興味の対象として捉え、もっと他のいろいろな音楽を聴いてみたいと思うようになったきっかけは、小学校高学年のとき、アントン・ウェーベルンの作品を偶々(たまたま)ラジオで聴いたことだった。個人の内面的情緒や観念の音への投影を超えた、あたかもそれ自体が自然の事物のように組成した音楽の実在は驚異だった。はたしてそれは、自然それ自体のなかにカミの存在を観想する神道的世界観を背景にもつ日本人の感性ゆえのことだったのかどうか。いずれにせよ、ある古典的な秩序と前衛的手法とが交差する地点に、時空を超えた精神の交感の可能性が垣間見られた。ここから、意図して不安定を求めてさまよう次の段階が始まった。
 そのような次第だったから、14歳の頃、“音そのもの”を標榜するケージの音楽と出会ったことは決定的だった。ケージは自らが影響を受けた人物や事物を手がかりに、次々と“音楽”の領域を広げていった。その営みはケージが関心をもったきのこ[菌類]を思わせ、そうした曖昧な在り方にも“音楽”の本質が潜んでいるように思われた。多義的な暗示に富み、曖昧な余白を有した音楽は、それだけで十分に魅力的であることを知った。
 同じ頃、発売間もないトリオ・レコードECM国内盤LP、スティーヴ・ライヒ『18人の音楽家のための音楽』(PAC-2055/ECM 1129)を購入したことでECMレーベルに関心を抱くようになる。最初に買った3枚は、テリエ・リピダル『シルバー・バード』(PAP-9027/ECM 1045)、バール・フィリップス『宇宙幻覚』(PAP-9136/ECM 1123)、ジョン・サーマン『イリュージョン』(PAP-9172/ECM 1148)。これがジャズとの最初の出会いだった(だがこれらの音楽を「ジャズ」と言えるのかどうか・・・)。
 ジャズは20世紀が生んだ最も自由で融通無礙な音楽様式だと思う。だから、意識を揺らす越境への誘惑はみな「ジャズ的」であるという地平に立つことでこそ、当ウェブサイト「JAZZTOKYO」が掲げる“far beyond”という標識も意味をもつように思うのである。

堀内宏公 Hiromasa Horiuchi
1965年東京生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。工作舎、BMG JAPAN、アルク出版企画、トライエム、キングレコード、(公財)日本伝統文化振興財団を経て、アーツカウンシル東京・プログラムオフィサー。翻訳『ジョン・ケージの音楽』ポール・グリフィス著(青土社)。共著『ECM catalog』(河出書房新社)。
http://homepage3.nifty.com/musicircus/

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がむしゃらに制作に立ち向かった1973年
稲岡邦弥

1973年から日本のジャズ界は来日ラッシュに沸く。レコード各社のディレクターも来日の機会を捉え、さらには海外に出掛け自らの企画で海外ミュージシャンのアルバム制作に乗り出して行く。海外の契約先から供給される原盤だけでは飽き足らず、自ら企画を立て日本の市場にダイレクトに発信し、市場を活性化する目論みもあった。
旧トリオレコードに入社し、海外渉外から制作部門に転籍まもない私にもチャンスが巡って来た。5月、「セシル・テイラー・ユニット」の初来日を知った私はプロモーターの鯉沼利成氏を通してライヴ・レコーディングの申し入れをした。初めてのレコーディングにあえてセシル・テイラーという難物を選んだ。録音を聴いてから発売の許可を出すという前提だったが、結果として2枚組のアルバムが完成した。鯉沼氏の協力で完成度の高いアートワークが実現したことも嬉しかった。続いて6月、「スタン・ゲッツ・カルテット」のリズム・セクション、リッチー・バイラーク(p)、デイヴ・ホランド(b)、ジャック・ディジョネット(ds)のトリオ・レコーディングを狙ったが各社競合となり、ホランドとジャックのデュオに落ち着いた。以来、この3者との友好関係が続き、20年後の1993年に、NYでパーソナル・レーベル Transheartへの念願のレコーディングが実現する。6月27日から2週間にわたったアートシアター新宿文化劇場におけるフリー・ジャズ大祭「インスピレーション&パワー」。広告協賛の話を持って来られたプロデューサー副島輝人氏の熱弁に奮い立ち、全14日間の完全収録を申し出た。数十年を経て哀れマスターテープのすべてはトリオ原盤の管理会社に廃棄されるという悲惨な結果に終わったが、同年リリースされた2枚組オムニバスが当時の日本のフリー・ジャズ・シーンのほぼ全貌を伝えている。8月、「CTIジャズ・オールスターズ」で来日したジャック・ディジョネットのピアノ・トリオ・アルバム。ジャックはピアニストとしてキャリアをスタートさせており、彼のピアノ・アルバムは本場米国に先駆けるものとなった。11月、ストラタ・イースト・レーベルの看板グループ「チャールス・トリヴァー・ミュージック・インク」のライヴ録音と同グループのピアニスト、スタンリー・カウエルと単身来日中のピアニスト、デイヴ・バレルのピアノ・デュオのレコーディング。その間を縫って、ニューイングランド音楽院留学に飛び立つトロンボニスト福村博の壮行コンサートもライヴ収録している。
まだディレクターとして未熟な私だったが、年間を通して一流のミュージシャンの生音とジャズにかけるスピリットに触れられたことが、その後の私のキャリアに大きく資することになった。幸い当時の成果がその後も長く聴き継がれ、海外のリスナーにも支持されている事実を知るにつけ記録として残すことの重要さを再認識している次第である。

稲岡邦弥 Kuniya Inaoka
兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。音楽プロデューサー。著書に『改訂増補版 ECMの真実』編著に『ECM catalog』(以上、河出書房新社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。本誌編集長。
https://www.facebook.com/kenny.inaoka?fref=ts

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音楽との出会い
神野秀雄

福島育ち、積極的に音楽を聴き出すのは保原中学校吹奏楽部へ入部したのがきっかけ。運動は苦手、合唱部は女子だけと消去法だが、吹奏楽コンクール福島県大会を勝ち抜き東北大会に行けるくらいの恵まれた環境だった。姉2人も在籍したことがあり、仲間にも恵まれた。
アルトサックスから始めたが、2年生でバスクラリネットに指名され好きになれず、反動で自分がサックスを吹きたい理由、自分の音楽を探し始める。サックスと言えばジャズ・フュージョンに辿り着く。時は1970年代後半のエアチェック時代。ジャズ史は「相倉久人/ジャズは死んだか」で学んだ。
NHK-FMで、『キース・ジャレット/マイ・ソング』(ECM1115)がほぼ全曲かかり、録音して何度も聴く。キースのピアノ、ヤン・ガルバレクのサックス、ECMサウンドは坊主頭の中2小僧に鮮烈な印象を与え、今でも人生最高のアルバムだ。2013年、ミュンヘンECM展でマスターテープを見ることができ感激した。初ソロピアノはラジオから聴こえた『サンベアコンサート』<大阪>(ECM1100)。後に『生と死の幻想』を買う。
一方、資生堂ブラバスCMに渡辺貞夫と草刈正雄が出ていて、アルトサックスの音が眩しく、デイヴ・グルーシンのアレンジが印象的だ。そして生まれて初めて買ったレコードが『渡辺貞夫/カリフォルニアシャワー』となった。従兄が持っていた『リー・リトナー/フレンドシップ』(ダイレクトカッティング盤)でジェントルソウツへ。中3ではバリトンサックスで、自由曲はショスタコービッチ<交響曲第5番 第4楽章>だった。
県立福島高校に進学し、アルトサックスを買ってもらう。珍しく管弦学部があり逆にサックスは行き場を失うが、なんと東北の高校にジャズ研がある。「スウィングガールズ」を20年ぐらい先取り。先輩にノイズミュージック、『あまちゃん』でも活躍の大友良英さんがいる。
ギターの津田君の勧めで『渡辺香津美/To chi ka』を聴き、その延長でステップス・アヘッドのアコースティック・フォービートに強く惹かれ、マイケル・ブレッカーが大好きなサックスプレーヤーになる。初ジャズクラブ体験は高2で六本木ピットインKazumi Bandだった。ECM好きの友人にレコードをたくさん聴かせてもらう。ジャズ研ではスタンダードからチック・コリア、渡辺香津美、ステップスなどを演奏。ジャズ喫茶「パスタン」「ミンガス」に出入り。漠然とドビュッシー、ラヴェル、武満徹も聴くようになる。
大学入学前に学園祭に行ったら、ヤン・ガルバレク<ブルー・スカイ>(ECM1135)をやっていた有田さん、神子さんらのバンドがあり、そのインパクトで他大学から東京大学軽音研(現ジャズ研)に入り、翌年、人口の少ない丙午に紛れ記念受験したら東京大学に受かる。この頃ECMディヴィジョンで多田さんに会う。そして駒場での大学生活が始まった。

神野秀雄 Hideo Kanno
福島県出身。東京大学理学系研究科生物化学専攻修士課程修了。保原中学校吹奏楽部でサックスを始め、福島高校ジャズ研から東京大学ジャズ研へ。『キース・ジャレット/マイ・ソング』を中学で聴いて以来のECMファン。
https://www.facebook.com/hideo.kanno.7?fref=ts

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音楽との出会い
小橋敦子

音という糸にたぐり寄せられるようにして多くの出会いがあった
母に連れられていった初めてのピアノ教室、
聞こえてきたのはモーツアルトのキラキラ星
渋谷道玄坂、ジャズ喫茶ジニアスの入り口から響く轟音、
引き込まれた先にはコルトレーンの A Love Supreme
ニューヨーク、ふと足を止めたレストランKnickerbocker、
その夜のライブはスティーブ・キューン・トリオ
ブロードウエイDanny:s Starlight Roomのブロッサム・ディアリーのライブ、
隣のテーブルにトミー・フラナガンがいた
浅草を案内しながら聞いたのは、
すぐ横でカーリン・クログが口ずさむYou Must Belive in Spring
アムステルダムのアンティーク・ショップ、
店の奥から聞こえてくるビリー・ホリデイのDon’t Explain

音楽はいつも身近にあった
そこからいくつもの大切な出会いが生まれた
実際に会った人、レコードで聞き知った人
すでに他界した人とも・・・
バルトークは自然界の法則を音楽にあてはめたというけれど、
私は、音楽を通じて形作られたミクロ・コスモスの中で
自分の生き方を見つけた
音楽はハーモニーとムーヴメントとメロディーの融合、と言ったオーネット・コールマン
自分の言葉で語るように弾きなさい、と教えてくれたスティーブ・キューン
すべての聴衆を満足させることは不可能だが手心を加えることは禁物、
持ちうる最高のレヴェルを発揮すべき、と励ましてくれたI氏
今夜のコンサートを聞いて僕はジャズファンになった、とメールをくれた車椅子の青年
彼らの言葉が、さらに新しい出会いを繋げていった。

Music is food for the soul という言葉があるように、
音楽なしには身も心も満たされはしない。

小橋敦子 Atzko Kohashi
慶大卒。ジャズ・ピアニスト。翻訳家。エッセイスト。在アムステルダム。
http://www.atzkokohashi.com/

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音楽との出会い
小西啓一

 生まれたのは父母の故郷、兵庫県の北部、豊岡市のようだが、すぐに東京に戻り杉並の高円寺で育った、山の手お坊ちゃんである。戦後まだ間もない時代育ちだけに、高円寺の自宅周辺もスラム化した現在と違い長閑なもの。
 近くのか細い早稲田通りを越せば、未だ田畑が目立ち、牧場まであった。高円寺という街、言うなれば杉並区の下町、少年時代はそう目立った金持ちも居らず、概してみな慎ましく貧しかった。ご他聞にもれず我が家もそうだったのだが、母親が音楽教育(父親は音楽嫌悪の医師)に熱心だったせいで、2人の姉達はピアノを習い、そのおこぼれからかぼくも当時としては珍しく、ヴァイオリンを習わされた。長姉はそのままピアノで生計を立てることになり、国立音楽大学の名誉教授にまで登り詰めたが、ぼくはその足元にも及ばなかった。ただ3才の頃から当時のヴァイオリン教育のボス、鷲見三郎氏の自宅にレッスン通いをしており、ここに来る生徒達は当時の若手登竜門、毎日学生コンクールに優勝するような輩が多く、その後彼ら彼女らは日本のヴァイオリン界を牛耳ることとなる。
 それだけにぼくの音楽との出会いは、3才の頃に習い覚えた、バッハ、ヘンデルなどのバロック音楽となるわけだが、それでなくとも落ちこぼれの上に、5才の時に生死をさまよう大病を患い、ヴァイオリン修行もストップ。数年を経てから再び手にしたのだが、かつての勢いははるか彼方、ただ小学校ではヴァイオリンを弾くスター少年(短パン姿でヴァイオリン・ケースを携える嫌味な少年)として、よく学内や区内コンサートなどにも借り出されたりもしたが、私立中学受験などもありこれも小6で終了。当時はあまり惜しいとは思わなかったが、今考えれば至極もったいなかった。
 この幼少時の音楽体験、かなりぼくの音楽教養に大きな影響を残しているようで、“至高・究極の音楽を…”と問われれば、それはジャズではなくバッハの「無伴奏ヴァイオリン」あるいは「チェロ組曲」ということになる。そして多感な高校生時代にこのバッハからMJQの世界へと誘われ、ジャズの果てしなき蠱惑の泥沼へと引き込まれ、ずぶずぶと現在に至るという次第。今ではMJQなどほとんど耳にすることもないが、たまに聴くとジョン・ルイスとミルト・ジャクソンのコラボ、これがブルージーでいてエレガント、なんとも言えない心地よさ・素晴らしさなんです。

小西啓一 Keiichi Konishi
1946年 兵庫県豊岡市生まれ。早大ダンモ研鑑賞部OB。ラジオ・プロデューサーとしてラジオ短波〜ラジオNIKKEIを通じ唯一のジャズ番組「テイスト・オブ・ジャズ」を数十年間にわたり制作。「スイング・ジャーナル」「Jazz Japan」他で健筆を振るう。とくにラテン系ジャズが好物。
http://www.radionikkei.jp/music/

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音楽との出会い
望月由美

 ある暑い初夏の夜、一人の女子高生は有楽町の日比谷映画におそるおそる足を踏み入れた。重いドアを開け座席につくといきなりニューポートの海辺が目に飛び込んできた。そして竹のフレーム眼鏡のモンク、粋な姉御のアニタ、真っ赤なブレザー姿のマリガン、うわーカッコいい。そして極めつけはマヘリア・ジャクソンの<主の祈り>。もう完全にノックアウト、ジャズの世界に足を踏み入れてしまった。映画《真夏の夜のジャズ》を体験。
 もの心が着いたころから歌が好きなカナリアは小学校に入る頃には河村順子さんの小鳩会に入って、ラジオのCMソングを歌い、ラジオから流れてくる自分の歌声にすっかり歌手気分。中学に進み心を入れ直したカナリアは発声、声楽の基礎を一から習いまっとうな声楽家への道を目指していたが、とある日、ラジオから聴こえてきた声に一瞬にして魅入られる。エディット・ピアフの強い喉と、言葉を突き破って人の心を震わす歌唱に涙した。
 それから直ぐに「銀巴里」通いが始まりカナリアはシャンソンを口ずさむ。工藤勉、仲代圭吾、戸川昌子の時代。なかでもこの世のものとは思えないほどの美しい容姿で自作の反戦歌を歌う丸山明宏に熱を上げ、大晦日の夜の部、元旦の昼の部までと入り浸った。「銀巴里」のマネージャーさんから、そんなに好きならうちで歌ってみない、と誘い水。「銀巴里」の昼の部で歌い始めたカナリアは、当時「銀巴里」をオフィス替わりにしていた直木賞作家、作詞家なかにし礼さんに呼ばれ、あなた高校生でしょ、高校生でこんな処で歌っていたら垢が着いちゃうだけ、ブレルもベコーもアズナブールもみんなジャズの洗礼を受けているのよ、まずはジャズを勉強しなさい、それからでも遅くない、と諭され始めてジャズという言葉を意識したのであった。
 そうした折にカナリアの目についたのが《真夏の夜のジャズ》の看板だった。新宿のジャズ喫茶「DIG」や「木馬」に通い詰める日々が始まる。とりわけ「木馬」の壁一面のスピーカーから噴き出す爆音に身をゆだねながら居眠りをするのが好きだった。そして、決定的なのが、「新宿ピットイン」のオープンしたての1966年の冬、旧「ピットイン」入口の陽だまりで日向ぼっこをしているエルヴィンと対面した時だった。向こう見ずのカナリアは昔からの知己のような気分で言葉をかけるとエルヴィンも白い歯をみせてにっこりと微笑んでくれた。ここから「ピットイン」詣でが始まる。歌を忘れたカナリアはFM東京(現TFM)で「時にひとりで」、「マクセル・ページ・ワン」「サントリー・ミュージック・スコープ」特番など番組の選曲と構成を手掛け、スイングジャーナル誌にコラムを持つ。
 ペンよりも音をと考えたカナリアは無謀にもAACMジョセフ・ジャーマンを日本に招きCD『Poem Song』を制作する。そして渋谷毅の『エッセンシャル・エリントン』でのスイングジャーナル誌、ディスク大賞・日本ジャズ賞の受賞を機にレーベル「Yumi’s Alley 」を立ち上げ7枚の作品を制作、今尚新しい音との出会いを求めて小さな翼を羽ばたこうとしている。

望月由美 Yumi Mochizuki
FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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音楽との出会い
成田 正

 小学生から中学にかけての音楽環境を具体的かつ簡単に進めさせてもらうと、父親は会社のハーモニカ楽団に所属したがジャズっ気は皆無。三味線と日本舞踊に熱中する母親は言わずもがな。そこにいきなりビートルズ、ヴェンチャーズ、ローリング・ストーンズ、次にセルジオ・メンデス&ブラジル'66、日本のグループ・サウンドが降ってきた。背伸びも無理もしないで、単純にびっくりして、楽しくて仕方なくなった。というのが歩き初めになる。
 そこで、公立高校に受かったら、ステレオを買ってもらう約束を成就。大した機器ではないけれど、音楽が俄然面白くなったと同時に、ルディ・ヴァン・ゲルダーやロイ・デュナンなど、レコーディング・エンジニアがいるのを知ると、聴き方が変わった。が、それで録音の道に進んだものの、音質のことばかりとやかく言うのが多くて、それもちょっと違うだろうと。いわば、丸腰で音楽と正対するのがいい。こう気づいたのは、大学に入ってすぐの頃だったと思う。
 ところが、それでは仕事にならないことを、音楽雑誌の『Jazz Life』に入ってすぐに知る。3度目の異なる出会いに付いてきたのは、アルバムやコンサートを聴いて、それがどうだか人に伝えることで、PCもワープロもまだない頃、あれは相当効き目のあるトレーニングになった。すると、ウォークマンやCDが出て来た。こっちは音楽産業に特大の効き目だった。フュージョンが大流行したのでロック・ポップ系も聴き始めると、これまた大いに勉強になった。
 フリーのジャーナリスト気取りを始めたのは1984年。そこで分かったのは、何もかも自己責任でやらないことには、示しが付かないこと。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンが学生時代と違う存在に見えてきたのは、年のせいばかりではないと思った。何度目かの出会いの環境や時間に応じて、自由な聴き方を弾ませて構わないのでなかろうかと。いや、普通はそうなるはずだ。ウチではオーディオをほんのちょっと良くしただけで、別世界が出てくるタイトルがいくつもあって、これには昔のステレオが蘇ってきて嬉しくなった。ハイレゾやSACDなど高音質を謳うディスクにも、気をつけておいて損はない。

成田 正 Tadashi Narita
1952年、埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。地元の小学校を卒業後、文京区の区立中学、都立高校を経て日大芸術学部映画学科へ。録音を専攻した。と同時にジャズ研でギターを弾いた。そのおかげもあって、1978年、創刊間もない『Jazz Life』編集部に入部。5年半ほど世話になり、次に真っ当な書籍出版社に3年半ほど腰掛けた後フリーに。目下、毎日新聞、Jazz Life、CDジャーナル、Stereoのほか、アルバム解説などあれこれ執筆中。

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音楽との出会い
及川公生

音楽との出会い。
人生そのものを変えてしまったクセナキスとの出会い。
70’EXPO 大阪万博 鉄鋼館、最大のイベントは、《ヒビキ・ハナ・マ》のテープ再生での音場再現の仕事。
24チャンネルのテープに収められた音源は、秒単位で鳴るスピーカーが指定されて、音像移動を感じさせる。
音源は、オーケストラ、単楽器、ノイズ、等々。シンセサイザーやコンピューターが無い時代に、アナログでこれを実現させた。クセナキスの指示に従いテープエフェクト。4倍速で逆走行。単発の音を何回も積み重ねる。楽器の最も汚い音を録る。これが一番難儀だった・・・。行程から先の読めない音楽が仕上がる。それぞれの単ピースの音源が集まった段階で、タイムテーブルが手渡された。トラック毎に、素材の音源を多重録音。音像移動の図面も指示に従ってフィルム撮影。 このフィルムに撮影された碁盤を思わせる画像パターンが音像移動を表す。
ふいと、作業中にシュトック・ハウゼンが見学に。彼は、ドイツ館の演出主宰。
FM東海の番組に「現代音楽」があった。私が技術担当。
武満徹を身近に感じ、秋山邦晴、武田明倫、他と懇意に。
音楽に、こんな世界が有るんだと、退職を決意。陰に、若林駿介の誘いが。いまだに退職が良かったかは答えが出ないが、 ジャズ録音生活は、このチャンスがなかったら実現しなかった事は事実。

及川公生 Kimio Oikawa
1936年、福岡県生まれ。FM東海(現・FM東京)を経てフリーの録音エンジニアに。ジャスをクラシックのDirect-to-2track録音を中心に、キース・ジャレットや菊地雅章、富樫雅彦、日野皓正、山下和仁などを手がける。2003年度日本音響家協会賞を受賞。現在、音響芸術専門学校講師。著書にCD-ROMブック「及川公生のサウンド・レシピ」(ユニコム)。

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音楽との出会い
丘山万里子

 音楽との出会いは、3歳頃からはじめたピアノだが、自分で望んだ記憶はない。当時はそれが流行であり、その先端たる教育ママであった母は他にもいろいろお稽古ごとを強要し、黒いアップライトの置かれたピアノの部屋はバレエの練習用に床が木で張られていた。教則本以外のものを遊び弾きすると、いたずら弾きはやめなさい!と怒られた。小学校高学年になって、発表会でお姉様たちが弾くショパンやシューベルトに心をひかれ、自分もいつかこれを、と思うようになったが、それで懸命にさらう、ということはなかった。むしろ本の世界に耽溺し、詩人や作家を夢見た。才能の欠如にはほどなく気付いたけれども、言葉への執着は消えなかった。音大の音楽学に進んだのも、なんとなく続けていた音楽(高校では合唱部だった)と言葉との接点を見出せそうだったからで、言葉が私のなかの唯一の実体だった。
 音楽との自覚的な出会いは、したがって遅い。二十歳の頃、生きているのが辛くなった。未来に何も描けず、今が苦痛だった。秋、思い詰めて家出し、新潟からふらふらと佐渡へ渡り、風吹きすさぶデッキから鈍色の日本海の面を覗いたが、結局、戻った。そうして、波多野精一の『時と永遠』、土田貞夫『演奏の論理』を読み、ああ、「音」と「生きること」は一緒だな。とにかく「今」を燃焼すること。その持続が「生」を創り出すんだ。と腑に落ちた。「今のこの時」だけを考えて、生きてみよう、そう思った。何を聴いて、とか、誰かの演奏に接して、とか、そういう具体的な音楽経験からではなく、抽象的な言葉の世界が入り口で、そこから「音のありよう」に耳が拓かれていった。図書館の書庫整理アルバイトの傍ら、レコードをかたっぱしから聴いたが、いつでも、音の背後に「今を生きる人間という存在」を感触したい、という欲求からで、それが音楽経験の有益な蓄積となったとは言いがたい。音に対してはそのつど、そのつど、初めまして、の気分で、演奏の比較分析といった聴取からは遠かった。
 ハイデッガーの『存在と時間』を下敷きとした卒論<演奏論-その存在論的考察->の序に、こう書いている。<音楽とは、人間の存在の、時間とのかかわり合いの命がけの行為から生まれるものであると思う。音楽は、その時、その時にもっとも存在していることの証しである。なぜなら、音が生起し、消滅してゆくその推移の、はりつめた緊張の頂点に、音楽は成立するがゆえに、存在の本質を示すからである。それゆえ音楽を、現実の世界へ音としてもちきたらす演奏家は、存在の使者である。絶えざる生起と消滅に迫られつつ、その時を生き抜く極限の一瞬に演奏は成立する。> それは私の実感で、この感覚は今も変わらない。

丘山万里子 Mariko Okayama
東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。2010年まで日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」「からたちの道 山田耕筰論」(深夜叢書)「失楽園の音色」(二玄社)、「吉田秀和 音追い人」(アルヒーフ)、「波のあわいに」(三善晃+丘山万里子/春秋社)他。

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音楽との出会い
佐伯ふみ

 子供の頃の、音楽にまつわる思い出…… 真っ先に思い浮かぶのが、ギーゼキングのLPである。美しい紫のジャケット。シューベルトだった。よく聴いた。母が好きで買ったものだ。
 我が家は父も母も教員で、二人とも学ぶことに貪欲だった。「家は借りて住め、本は買って読め」。今や死語のこんな言葉を、二人とも、ごくあたりまえのように呟いていたのだからすごい。母は戦後間もなく音大でピアノを学んだ音楽の教員。父は数学だったが絵を描きたくて描きたくて、50過ぎにリタイア、画家となった。父のアトリエの片隅が私の遊び場で、100号の大きなキャンバスと取っ組み合う(まさにそんな感じ)父が無言で、何度もなんども、キャンバスに筆を走らせては数メートル後ろに下がって筆致を確かめ、またキャンバスに戻って、大きな音を立てて絵の具を削り…… 時には夜を徹して響くその物音が、私にとっては胸が締めつけられるほど懐かしく、心地よい音楽だった。(隣にあるピアノ室は、練習のための「監禁部屋」のようなもので、できれば行きたくなかった。)
 優雅に見えるが、決して裕福ではなく、とにかく両親とも忙しくて、LPにしろラジオにしろ、音楽をゆったり聴いている姿など記憶にない。子供たちも、おおむね、ほっぽらかしで育った。音楽の教育番組を見る習慣もなかったし、コンサートなんて、とてもとても。唯一、記憶に残っているのは、母がリヒテルの演奏会に連れていってくれたこと。たぶん、1979年の来日で、演目はシューベルトだったかもしれない。緊張感ただよう会場の雰囲気は覚えているが、演奏はまったく記憶になく(だめだなぁ…)、それよりも、子供心に「お母さん、よほど行きたいんだな」と驚いたことのほうが、記憶に鮮やかである。
 NHKの《みんなのうた》が好きで、毎月、楽譜を買ってもらって一人で弾き歌い。英語教室のラボ・パーティで、英語の音楽劇をするのが楽しみ。子供時代の音楽体験といえば、こんなものである。まことに凡庸。たとえば、ラジオで聴いた巨匠のチケットを徹夜で並んで手に入れて……なんていうエピソードは皆無である。そんな人間が今も音楽の仕事を続けていて、コンサートのレビューなど書いているとは申し訳ないような次第である。
 けれど、両親のあの情熱、芸術・芸術家への憧れと尊敬、あの高みを仰ぎ見ながら自分も生涯学びつづけるのだ、という姿勢。それを無意識のうちに心に刻みこまれたことは、まことに幸福なことだったとしみじみ思う。たぶん私も、死ぬまで音楽を聴き、下手なピアノを弾き続けるだろう。果てしなく遠い憧憬を胸に抱きながら……。

佐伯ふみ Fumi Saeki
1965年(昭和40年)生まれ。大学では音楽学を専攻、18〜19世紀のドイツの音楽ジャーナリズム、音楽出版、コンサート活動の諸相に興味をもつ。出版社勤務。筆名「佐伯ふみ」で、2010年5月より、コンサート、オペラのライヴ・レポートを執筆している。

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音楽との出会い
佐伯麻由

幼いときに習い事として始めたピアノがきっかけで、その後の私の人生は音楽一色となりました。中学校のバンドで始めたフルートで音大に進学。大学院を修了してから今日までずっと音楽の仕事を続ける事になりました。音大時代、当時パリから日本を訪れていた現代音楽フルート奏者ピエール・イブ・アルトー氏のレッスンを受けた事が、私の音楽への考え方を大きく変えました。彼の音楽表現はジャンルを超えた素晴らしいもので、その頃から私の音楽ジャンルの垣根がどんどん消えていきました。そして、子供の頃からクラシック音楽一色だった私を決定的にジャズの世界に導いたのはチェット・ベイカーの『マイ・ファニー・バレンタイン』。彼の歌声とスイングした美しいトランペットとフリューゲルホルンの音色に心を奪われた瞬間を今でも覚えています。そして、そのアルバムでドラムを叩いているチコ・ハミルトンと後にニューヨークで共演する事になろうとは当時は夢にも思いませんでした。2009年に東京からニューヨークに移ってすぐにチコのバンドに加入してからの4年間は、私の音楽人生だけでなく人生観までを大きく変えるものとなりました。(以前に追悼文にも書かせていただきましたが)チコが<真夏の夜のジャズ>でのエリック・ドルフィーとのステージについて「あの瞬間、生まれて初めて自分がドラムになったのを感じた」と話してくれました。音楽がただの音楽ではなく、演奏する人と演奏を聴く人と音楽自体が融合する世界。チコとステージにたった4年間、音楽だけではなく人生観もが変わったように思います。音楽をしていなかったら出会わなかった人たち、経験しなかった事、思いや気持ち。貴重な出会いと体験を噛み締めながらニューヨークで音楽と向き合っています。

佐伯麻由 Mayu Saeki
エリザベト音楽大学大学院修士課程を修了後、広島と東京での演奏活動を経て2009年3月に渡米。2009年12月よりチコ・ハミルトンのジャズオーケストラ「ユーフォリア」のメンバーとしてアメリカ各地のコンサートやジャズフェスティバルに出演。2011年のアルバム『Revelation』『Euphoric』、2013年制作の『Inquiring Mind』にも参加。現在はニューヨークを中心にアメリカ各地でフルート奏者として演奏活動中。自身のグループではニューヨークを中心に、ワシントンDCやボルティモアでのショーも定期的に行い、アーロン・ゴー ルドバーグをピアノに迎えた自身のジャズトリオでは市内の老舗ジャズクラブにも出演。フルート、ピアノ講師として後進の指導にも力を注いでいる。

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音楽との出会い
須藤伸義

このエッセイの趣旨を『最初に、音楽を「音楽」として意識した時』と判断して、思いつくまま、書いて見ようと思う。

それは、自宅にあったレコードからだったと思う。父所有のコレクションには、クラッシック音楽を中心に、欧米の映画音楽、世界各地の民族音楽(シャンソン、カンツォーネ、インド音楽、南米フォルクローレ、中国、彼が数年単身赴任していた台湾で流行っていた軽音楽や高砂族の伝統音楽)から、環境的な電子音楽(喜多郎の作品が中心)他、色々なタイプの音楽が混ざっていた。

特に印象に残っているのは、バッハの構築性、ショパンのロマンティシズム、ニーノ・ロータの紡ぐ情感溢れるメロディー、ジュリエット・グレコやイヴ・モンタンの巴里の香り、シタールの瞑想的響き、ケーナやチャランゴで奏でられた素朴で愛着沸く旋律...。

当時“ジャズ”などは認識できていなかったが、ルイ・マル監督のデビュー作『死刑台のエレベーター』(1958年:ジャンヌ・モロー主演)は、多分、僕が最初に聴いた“ジャズ”作品。サントラを担当したマイルス・デイビスのブルーなペットは無論の事、当時全盛を誇った仏ジャズ界を代表するバルネ・ウィランsaxやピエール・ミシェロbたちによる 冷たい雨の降る晩秋の夜の並木道を思わせる演奏に、子供ながら<エスプリ>を感じた事を思い出す。

この流れで、ロジェ・バディム監督作品で、Jazz Messengersがサントラを担当した(作曲はデューク・ジョーダン)『危険な関係』(1959年作:ジェラール・フィリップ/ジャンヌ・モロー出演)、同じくバディム監督作品でMJQが音楽を担当した『大運河』(1957年)、アントニオ=カルロス・ジョビン/ルイス・ボンファが担当したマルセル・カミュ監督作『黒いオルフェ』(1959年)、ガトー・バルビエリ担当のベルナルド・ベルトルッチ監督作『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(1972年:マーロン・ブロンド主演)、クリストフ・コメダ担当のロマン・ポランスキー監督作『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)等が、僕の“ジャズ”(ボサノバを含む)の原体験だったと言える。“ジャズ”っぽく、ミシェル・ルグランが音楽を担当したジャック・デゥミ監督作品でカトリーヌ・ドヌーブが主演を務めた『シェルブールの雨傘』(1964年作品)や『ロシュフォールの恋人達』(1967年作)も大変印象に残っている。

ルグランといえば、彼にNYのバードランドでインタビューしたおり、同伴していた人物が『男と女』(1966年)で有名なクロード・ルルーシュ監督だったと会見終了後に気づき「サインを頼んでおけば!」と、残念に思った記憶がある。その『男と女』の音楽は、フランシス・レイ/バーデン・パウエルが担当。バーデンのCDを集めだしてから、その事に気づき、子供の頃を懐かしく思い出した。

嫌々ながら練習させられたピアノの事や、小学校高学年〜中学にかけてのめり込んだビートルズ、高校〜大学へと熱心だったプログレッシブ・ロック(特にイタリア物)、キース・ジャレットの『マイ・ソング』等も書くべきなのだが、字数も尽きたし、この辺でタイプする手を止めようと思う。

須藤伸義 Nobu Stowe
群馬県前橋市出身。カリフォル ニア州立大学ハークレー校にて心理学と音楽(作曲法)を同時専攻し、卒業後シカゴ大学大学院 心理学科(生物学的心理学専攻)に進学。博士号(心理学博士)取得後NIH(アメリカ国立衛生研究所)のポスドクとして、薬物依存症とドーハミンの関係を研究する傍ら、ピアニストとしてTRIO RICOCHETなどを通じ、キース・ジャレットの即興方法“トータル・インプロヴィゼーション”と“フリー・インプロヴィゼーション”の融合をテーマに活動を展開。現在スクリプス研究所(サンディエゴ)研究員。

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音楽との出会い
杉田誠一

 ぼくは、1945年生まれ。60歳のとき、何かやり残したことはないかと、つらつら考え、横浜は白楽に「Bitches Brew for hipsters only」を開店。店名の由来は、1969年、ニューポートでマイルス・デイビスの<ビッチェズ・ブリュー>初演と出会ったことによる。リロイ・ジョーンズがいうところの「変わっていく同じもの」とのアクチュアルな出会いの場を創出したのである。
 それまで、ジョン・コルトレーンやオーネット・コールマンの生と出会ってはいたものの、アメリカでシャワーのように浴びたジャズとロック(レッド・ツェッペリン、フランク・ザッパ他)は、眠れるぼくのブルース〜ジャズ・インパルスにめらめらと火を付けた。
 ほとんど情報が入手できなかったシカゴ・シーン=情況は、とりわけ鮮烈ではある。音楽の強力な磁場は、黒人ゲットー、サウス・サイドに存在。まず、AACMは崩壊しつつあったのは驚きである。AACMの創設者のひとりフィリップ・コーランが、アート・アンサンブル・オブ・シカゴに代表される外へ向かってのベクトルを批判。内なるベクトルを提唱し、アフロ・アーツ・シアターを設立。ファラオズを旋回基軸として活動を展開。そのプロデューサー、ベニーとぼくは「ブラザー」と呼び合う仲となる。ファラオズは、後のアース・ウィンド・アンド・ファイヤーである。
 一方、ニューヨークでは、ロフト・ムーブメントが深く静かに進行しつつあった。その情報発信基地が「スタジオ We」。サニー・マレイ、デイブ・バレル、アラン・シルバらが中心。シルバは、70年にはサン・ラのアーケストラに参加。後に、梅津和時asは「生活向上委員会」を「We」で録音する。
 その後も、ニューオーリンズ、モンタレー、モントゥルー(スイス)等で、とても書き切れないほど多くのミュージシャンと出会ってきたけれども、 1974年のメルスはとくに記しておきたい。山下洋輔トリオ(坂田明as、森山威男ds)がものの見事にヨーロッパを席巻してしまったのである。めくるめくアレキサンダー・フォン・シュリッペンバッハp、ハン・ベニンクds、ペーター・ブロッツマンasといった面々を向こうに回してである。
 さて、Bitches Brewのライブは、藤井郷子&田村夏樹のデュオにより本格的に始まった。アップライトながら、ピアノは藤井自身が選んだ。ここで出会ったミュージシャンは、沖至、坂田明、梅津和時、竹内直、纐纈雅代、大由鬼山、浦邊雅祥、高樹レイ、蜂谷真紀、新井陽子、鈴木勲、マルコス・フェルナンデス、サトウアキラ、ヒロシ・ハセガワ、庄田次郎、M☆A☆S☆H、城田有子、林栄一、加藤崇之、本田珠也、金剛督、中牟礼貞則、不和大輔、伽藍、橋本孝夫、金子雄生等々、枚挙に暇なしである。
 音楽にとって、出会いとは何か?音楽にとって、表現の場とはなにか?
Bitches Brew for hipsters onlyは、「変わっていくおなじもの」と出会い続ける。

杉田誠一 Seiichi Sugita
1945年新潟県新発田市生まれ。獨協大卒。1969年5月、月刊『ジャズ』誌創刊、76年6月まで編集長を務める。1999年11月、月刊『out there』誌を創刊するも創刊号のみで編集長を辞任。2006年12月、ジャズ・バー「Bitches Brew」開店、現在に至る。写真集『ジャズ幻視行』(アン・エンタープライズ)『ジャズ&ジャズ』(講談社)『ぼくのジャズ感情旅行』(荒地出版)他。

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はじめての音楽
多田雅範

幼稚園の頃に、昭和41年かと思う。北海道放送HBCに勤めていた伯父が、コンサートホールを見下ろす録音室に入れてくれたのを鮮明に憶えている。客は居なかったから、あれはリハーサルだったのだろう。音合わせの響きや、繰り返される断片。見下ろして、呆然としていた。

30代の予備校事務員だった頃に、翻訳か何かだったのだ「空から管弦楽が降ってくる」というテキストが、ビルのベランダで喫煙しながら見上げている6月の青空に妙にマッチしていることと、幼少期に見下ろしたコンサートホールの記憶とが到来してきた。

オーケストラを聴きにでかけると、オープニングの音合わせの時に、満たされた気持ちになる。

伯父の音楽の趣味は知らない。伯父はその数年後、退職して離婚して放浪を繰り返して最期は北海道の山に入り、川の中で発見された。

予備校を辞めて、タワーレコードで退職金の大半をCDに取り替えたり、離婚してしまったり、行き場が無くなって苫小牧フェリーに乗って北海道へとんずらしたりしていたら、父親から「マサノリ、しっかりしろ、おまえを見ているとアニキを見ているみたいだ」と言われた。

昨年父親が亡くなって、墓誌の建て替えなどをしていたら、伯父の一人息子が北海道で教師をしているらしい、ネットに情報があった、と、いとこから知らされた。47年ぶりの再会をしてみようかなあ。

「はじめての音楽」としてHBCホールの記憶を置いたらこんな作文になってしまった。

小学生時代の、ドレミを知らずにハモニカを吹いていたことや、音楽クラブのことは、「おやじカンタービレ Vol.2」(http://homepage3.nifty.com/musicircus/rova_n/rova_r12.htm)に書いたとおりに、わたしにとって音楽を聴くこととは恋愛ごとと等値なところがあるもので、金銭とかビジネスとつながる枠組みは苦手だ。演奏家としての教育も受けていないし、ジャーナリストでも批評家でもない。気に入った音楽をBGMにして、ここJazzTokyoで書いているのは楽しい。友だちが、家族が、親戚が読んでくれているのが楽しい。

中学3年の夏休みに「幸せのアンサー」という曲をステレオでかけて、うでから背中にかけてゾワゾワっと鳥肌が立ったのを思い出した。改めて聴いてみると、これがジャズ的なものとの出会いだったのかな。

Paul McCartney - You Gave Me The Answer
https://www.youtube.com/watch?v=wyo_xGyVJuA

多田雅範 Masanori Tada
1961年、北海道の炭鉱の町に生まれる。東京学芸大学数学科卒。元ECMファンクラブ会長。音楽誌『Out There』の編集に携わる。音楽サイトmusicircusを堀内宏公と主宰。音楽日記Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review。
https://www.facebook.com/masanori.tada.9?fref=ts

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音楽との出会い
竹村洋子

 私の音楽との始まりは、 ディズニー映画とアメリカのミュージカル映画だと思う。 母が私に音楽の楽しさを教えてくれた。母は1926年(大正15年)に満州の奉天で生まれた。少女時代は戦前の満州で、内地とは比べ物にならない程豊かな生活をし、終戦後22才の時、すべてを失った状態で引き揚げて来た。娘盛りにあまり良い経験をしなかったせいか、満州での事をあまり語らない。母が満州でディズニー映画を見ていたかどうかもさだかでないが、 戦前の満州には、アメリカ文化が溢れていた様子を、同じ頃に満州、大連で育ったジャズ・ドラマーのジョージ・川口氏の回顧録で読んだ事がある。
 音楽がとても好きだった母は「自分が少女時代にやりたくても満足に出来なかった事を、娘にさせたい。」と言った事がある。幼稚園児だった私にオルガンを習わせ、小学生になるとピアノに切り替わった。母は私に教則本、『メトードローズ』を選び、それは友達が使う『バイエル』と比べると、自由な曲がずっと多く楽しかった。
 家にはテレビがなかったが、代わりに母は私を映画館に連れて行ってくれた。『白雪姫』『ピノキオ』『バンビ』『ダンボ』『ファンタジア』『眠れる森の美女』『わんわん物語』『不思議の国のアリス』『101匹わんちゃん大行進』等、初期のディズニー映画はほとんど映画館で観た。ディズニーの映画の素晴らしさは、物語やアニメーション表現だけではない。アニメーションに音楽が命を吹き込んでいる。特に幼い私を印象づけたのは、白雪姫が7人の小人の前で唄う『いつか王子様が』。その小人達の『ハイ・ホー』、『ピノキオ』の中でコオロギのジミー・クリケットが唄う『星に願いを』。『ファンタジア』の中のカバのダンスは一番のお気に入りで、大人になってから音楽がサン・サーンスの『動物の謝肉祭』と知った。
 ミュージカルは『マイ・フェア・レディ』『メリー・ポピンズ』『サウンド・オブ・ミュージック』等を小学生の頃、横浜の白楽にあった『白鳥座』で観た。『グレン・ミラー物語』も母と一緒に観た。耳で覚えた『茶色の小瓶(Little Brown Jug)』をピアノでエンドレスに弾き、母を喜ばせたのを覚えている。
 ジャズを聴き始めた頃、「何故ジャズ・ミュージシャンは、ディズニーやミュージカルの曲をよく演奏するんだろう」と不思議だったが、私の幼少期に聴いた数々の名曲が、私をすんなりジャズに入り込ませたのかもしれない。 ビル・エバンスやキース・ジャレットが演奏する『星に願いを』や『アリス・イン・ワンダーランド』を聴くと、あの頃の母は、絶対自分が観たかったから私を映画に連れて行った、と昔を思い出す。

竹村 洋子 Yoko Takemura
美術学校卒業後、マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、 カンザスシティ中心にアメリカのローカルジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。
https://www.facebook.com/yoko.takemura?fref=ts

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音楽との出会い
田村夏樹

生まれ育った家には、いつも何かしら音楽があったと思う。親父は趣味でバイオリンを弾いたり、三味線をいじったりしていた。家族が揃うと皆いろんな歌(琵琶湖周航の歌など)を大声で唄っていた。だから音楽は僕にとって極く自然な感じで存在していた。
中学でブラスバンド部に入ったのが運のつき。以来、高校で2年間離れたのを除き、50年間トランペットとつきあって来た。まあ中学のブラスバンドでは一年生でサックス、二年生でトロンボーンをやり、3年生になってようやくトランペットに移ったが。
そのブラバンの先輩が京都でプロとして活動していたので、夜な夜な吹かせてもらいに行った。音大に行こうかと思ってレッスンを受けていたが、どうもこちらの方が面白そうだ。結局、音大進学はさっさと止めて、京都のネグリジェサロンでプロとして吹き始めた。そこでジャズのスタンダードからラテン、歌謡曲まで毎晩いろんな曲をやったが、ジャズは何が面白いのかさっぱり解らなかった。僕にはラテンのメロディーが一番しっくり来て好きだった。その頃とにかくトランペットのレコードを買おうと思って京都で初めて買ったレコードが何とクリフォード・ブラウンのウィズ・ストリングスだった。クリフォード・ブラウンがどういう人かも知らなかったが、こんなに何度も何度も聴いたレコードはその後も無かったと思う。とにかくブラウンのアタックの美しさに魅せられていた。
高校を卒業した頃、トランペットがもっとうまくなりたいという欲求が強くなり、東京へ出て行く事にした。いろんな音楽に接したが、マイルス・デイビスを聴いて初めてジャズっていいなと思った。いろんなバンドを経て、ニューハード・オーケストラに在籍していた頃、渋谷のNHKで仕事があった。休憩時間たまたまNHKホールを覗いてみたら、全国民謡大会みたいな番組を収録していた。時間があったのでしばらく見学していた。いずれも我こそはと大舞台で声を張り上げ、目一杯の演技を繰り広げていたが、沖縄か奄美か忘れたが一人のお婆さんが三線を持ってトコトコと舞台の中央へ出て来てペタっと座り、何気なく、それこそ何気なく三線を奏で、しわがれた小さな声で訥々と唄い始めた。ハンマーで頭をおもいっきり殴られたような衝撃を受けた。他の人達の我こそはというのと何たる違い。しかもあの大きなNHKホールにピーンと緊張感を持った独特の空間が生まれている。物理的にはとても小さい。でもとてつもなく大きい。「何だこれは?」「何だこの空間は?」
それ以降、あのお婆さんの姿がずっと心に焼き付いている。いつか自分もあんな凄い空間を、何気なく、さりげなく作り出せる音楽家になれたらいいなと思い続けているが、邪心煩悩が邪魔してくれて、なかなかに難しい。

田村夏樹 Natsuki Tamura
1951年、滋賀県大津市生まれ。トランペッター/コンポーザー/バンドリーダー。高校卒業後上京。スマイリー小原とスカイライナーズ、宮間利之とニューハード・オーケストラ等で演奏。その後フリーのミュージシャンとしてアイドル歌手のツアーバンド、テレビ、スタジオ等で活動。1986年渡米し、バークリー音学院に入学。1987年帰国、自己のバンドで活動するも、1993年再び渡米、ニューイングランド音学院に入学。卒業後、NYに移り活動後1997年帰国。日欧米を中心に活動。CDリリースも多数。
http://www.natsukitamura.com/jbio.html

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いつかきっと心から感動できる音楽に出会えるよ
田中鮎美

子供の頃にエレクトーンを教えてくださった先生が、いつか話してくれた。素晴らしい音楽に出会えたとき、この言葉を思い出す。

私が今、音楽と共にいられるのはこの先生の影響がとても大きい。先生は音楽の素敵さを教えてくれた。いつも、演奏する私の隣で一緒になって歌ってくれた。先生がそうしてくれていると、音に命が宿っていくのをわくわくしながら感じていたのを今でも覚えている。

これまで音楽を表現する側として、聴く側として、その両方で音楽と共にしてきた。音楽は時々、私を知らないところに連れて行ってくれる。言葉ではうまく表せないけれど色々なことがうまく折り合って、奇跡みたいな瞬間に自分の身が置かれていることがある。心や身体の芯が動かされる。そんなときは、私はここにいられることを感謝する。心から音楽に感謝する。そして、先生の言葉を思い出す。

表現者として音楽と向き合い共に生きることは時に耐え難いこともあるけれど、そんな瞬間との出会いを求めて、またそれを誰かと共有するため、私はこれからも音楽と共に歩んでいきたい。そして、今はなかなか会うことのできない先生にいつか届けられたらと思う。

田中鮎美 Ayumi Tanaka
3歳から高校卒業までエレクトーンを学ぶ。エレクトーン・コンクール優勝、海外でのコンサートなどに出演し世界各国の人々と音楽を通じて交流できる喜びを体感する。その後、ピアノに転向。ジャズや即興音楽を学ぶうちに北欧の音楽に強く興味を持つようになり、2011年8月よりノルウェーのオスロにあるノルウェー国立音楽大学(Norwegian Academy of Music)のjazz improvisation科にて学ぶ。Misha Alperinに師事し、彼の深い音楽性に大きな影響を受ける。

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音楽との出会い
藤堂 清

あれはクリスマスのお祝いだったのだろうか?
母に連れられて妹のピアノの先生のお宅にお邪魔した。私もまだ小学校の低学年だったろう。そのころ妹がどんな曲を練習していたかまったく覚えていないのだが、ピアノの音を聞いて音名を答えるという時間があった。自分が聞かれているわけでもないのに、妹より先に、「ソ」と言ってしまった。すると先生はやさしい声で、「そう、<ソ>であっているのだけれど、<ゲー>と答えてほしかったの」と言われた。妹がなかなか答えられなかったのは、そういった頭の中での変換が必要だったからなのかと子供ながら納得した。
何人かの生徒さんのレッスンも終わり、演奏を聴きながらのお茶となった。演奏しているのは先生のお嬢さんと息子さんだと母が教えてくれた。ピアノを弾く女性はもう大人のようだったが、チェロの男性はまだ子供っぽくみえた。先生もニコニコしながら聴いていらした。普段、家で妹が同じところで引掛り、何度も繰り返すのとは違うものということはすぐ分かった。こんなに弾けたら気持ちいいだろうなと感じながら聴いていた。その後、お嬢さんの名前はピアニストとして聞くようになったし、息子さんの名前もオペラの演出で目にするようになった。生徒たちからみれば「模範演奏」だったのだろう。
なんとか両親を説得し近所の先生にピアノを教えてもらうことになった。しかし、あの日聴いた音楽に近づくはおろか、妹の域にも遠くおよばないまま、2〜3年で投げ出してしまった。演奏するむずかしさ、厳しさ、そしてなにより継続していくことの困難さ。
中学に入るころにLPレコードが普及し始め、我が家にも家庭用ステレオがやってきた。バックハウスの弾くベートーヴェンのソナタ、一つ一つの音の美しさ、スピード感、どれをとっても身近で聴けるものとは大きな差があることは分かった。当時の私にとっては高値だったレコードを何枚も買うことはできず、限られた音楽を繰り返し聴いていた。FMラジオの実験放送がそれ以外の音楽を聴く機会を与えてくれるようになってきていた時期でもある。そういった状況の中、音楽を消費することに浸りきってしまった。
コンサートに行くようになったのは、招待券が当たったことがきっかけであった。イングリット・ヘブラーのモーツァルトの『ピアノ協奏曲』、江藤俊哉の三善晃の『ヴァイオリン協奏曲』といった曲目。体全体が響きに包まれる快感、演奏者とオーケストラのやりとりの面白さ。演奏する側も一回限りだろうが、聴く側にも集中がいる。レコードを聴くのとはまったく違う世界があることを教えられた。
最初に聴いたサロンで感じた演奏へのあこがれ。残念ながら私自身は聴衆という立場を超えることはできないが、演奏者に対する敬意と感謝は忘れずにいたいと思う。

藤堂 清 Kiyoshi Tohdoh
東京都出身。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。ソフトウェア技術者として活動。オペラ・歌曲を中心に聴いてきている。ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウのファン。ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの《若き恋人たちへのエレジー》がオペラ初体験であった。

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音楽との出会い
常盤武彦

 あれは確か中学三年の頃、父が突然 、オーディオ・システムをそろえると言い出した。音楽趣味のある父ではなかったが、クライアントのオーディオ・マニアに刺激を受けたらしい。私がオーディオ誌をチェックして、システムではなく単品のコンポを組んでみた。それまでの私は、気に入った映画のサントラ盤を聴くぐらいで、音楽と真剣に対峙していなかったのだが、これを機会に聴いてみようと思った。当時は、まだJ-Popなどという言葉はなく、歌謡曲かニュー・ミュージック。ちょっと尖った友人は、デヴィッド・ボウイやT-REX などグラム・ロックを聴き、ブルース・スプリングスティーンや、ビリー・ジョエル、イーグルスらが流行っていた。LPレコードを貸し借りしてカセット・テープにダビングしたり、FM放送を録音するエア・チェックなどという言葉があった頃だ。そんな中で、周りでほとんど誰も聴いていたいなかった Jazzを聴き始めたのは、山下洋輔さん(p)のエッセイ『ピアニストを笑え』を読んだことがきっかけだと思う。こんな面白いエッセイを書く人の音楽は、どんな感じなのかと興味を持った。当時CBSコロムビアから、マイルス・デイヴィス(tp)の名盤が1,800円で再発されていた。横浜の関内にあったヤマギワ電気の会員券があり、LP が一割引で購入できたので、昼食のパン代を節約して毎週一枚の LPを購入して『Kind of Blue』などを聴いてみたけど、よく分からない。そんな頃に、NHK FM の「セッション‘81」だったと思うが、山下洋輔さんが寿限無のセッション・バンドで出演し、それを聴いて初めて人間の感情の流れとサウンドがシンクロする、インプロヴィゼーションの面白さに気がついた。改めて『Kind of Blue』を聴いて圧倒され、私の長い道のりが始まった。まずは、関内のエアジンに月一回出演する、山下洋輔トリオ+1に通う。ジャズ喫茶でタバコを吹かしながら、スイング・ジャーナル、ジャズ・ライフを読んで、レコードを聴く。 FM 東京の「Live from the Bottom Line」や「渡辺貞夫 My Dear Life」 のエア・チェック、といったところだ。そしてビル・エヴァンス(p)、ジョン・コルトレーン(ts,ss)、チャーリー・パーカー(as)の音楽に出会う。ライヴでも、当時、新宿ピットインでよく演奏していた、エルヴィン・ジョーンズ(ds)に触れ、80年代でも強烈なエルヴィンが、全盛時代に渡り合ったコルトレーンの凄まじさに思いを馳せたり、大学受験も間近の頃、増上寺の地下で聴いたスティーヴ・レイシー(ss)と富樫雅彦(per)のデュオに震えたりしていた。その頃から、私の音楽巡礼は始まったのだろう。気がつけばあれから30年以上、遠くニューヨークにまで渡り、今も新たな音楽的刺激を求めて演奏の現場に立ち会っている。明日は、どんな音楽に出会えるのか、その期待が今もやむことはない。
Check out my Website : http://www.tokiwaphoto.com

常盤武彦 Takehiko Tokiwa
1965年横浜市出身。慶應義塾大学を経て、1988年渡米。ニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アート(芸術学部)フォトグラフィ専攻に留学。同校卒業後、ニューヨークを拠点に、音楽を中心とした、撮影、執筆活動を展開し、現在に至る。著書に、「ジャズでめぐるニューヨーク」(角川oneテーマ21、2006)、「ニューヨーク アウトドアコンサートの楽しみ」(産業編集センター、2010)がある。

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音楽との出会い
横井一江

1987年初めてメールス・ジャズ祭に行った時、すごく楽しかった。日本でもフリージャズのライヴには幾度となく行っていたが、どこか暗い印象があった。「音楽と対峙」しているような構えた姿勢、マジメな気質それ自体はいいのだか、私には少し息苦しく、窮屈な感じがしたのである。メールスの聴衆は、ピクニックを楽しむかのようにビールやワインを飲みながら演奏を楽しんでいた。しかし、音楽に対してはシビアだった。リラックスして聴いているが、好みでないとわかると立ち上がってどこかへ消えてしまう。拍手は温かいのだが、気に入らないとブーイングである。拍手とブーイングが同時に起こり、会場が真っ二つに分かれたこともあった。
私はふと、アポロ劇場のオーナー、ジャック・シフマンが三階席つまり天井桟敷の人々について「露骨で残酷だが、本物を見分ける鋭い嗅覚を持っている。だから本物にはちゃんと反応してみせる」(『黒人ばかりのアポロ劇場』)と書いていたことを思い出した。メールスの聴衆、とりわけ開場と同時になだれ込み、かぶりつきに座りこむ連中に共通点を感じたのである。あとで知ったのだが、メールスの聴衆は特別だったのだ。
ベルリンはベルリンで、チューリッヒはチューリッヒで、他は他で、場所によって聴衆はそれぞれだったが、自然体でライヴなりコンサートを楽しむ雰囲気が心地良く、音楽の聴き方に歴史的文化的な違いが現れているように感じた。それはともかく、やはりジャズはライヴ・ミュージックなのである。
だから、ジャズなり、即興演奏がキモとなる音楽はライヴが一番であり、音盤を聴く時もライヴを体験している場合は面白さが増す。それをメールス体験で痛感したのだ。おかげで音盤を追いかけることがバカバカしくなり、LPを100枚買うお金があったら、メールスへ出かけるほうがずっと楽しいし、濃い音楽体験を出来ると思い、気がついたらもう四半世紀以上経つ。もっとも音盤自体の存在価値はあるし、それはそれで違った楽しみがあることは確かなのだが……。
あの時、なぜメールスだったのか。実は行きたいジャズ祭は3つあった。残りの2つは、ピサで一時期開催されていたインターナショナル・ジャズ・ミーティングとスイスのヴィルサウで行われているフェスティヴァルである。まずピサはその年も開催されているかわからず、ヴィルサウはスイスのどこにあるかわからなかった。消去法でメールスとなったが、ミシュランの地図でMoersの小さな文字は見つけたもののどうやって辿りつけばいいのかよくわからない。その時、以前勤務していた会社の元上司が、副島輝人氏が毎年行っているからと紹介してくれた。7月12日に亡くなった氏との付き合いはその時に始まったのである。

横井一江 Kazue Yokoi
北海道帯広市生まれ。The Jazz Journalist Association会員。音楽専門誌等に執筆、 写真を提供。海外レポート、ヨーロッパの重鎮達の多くをはじめ、若手までインタビューを数多く手がける。 フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年〜2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)。趣味は料理。

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私とSPレコード
悠 雅彦

 私の音楽体験のすべては、家にあった数多くの78回転盤(SPレコード)から始まった。物心がついたころ、私たち一家が暮らしていた島田市(静岡県)の居間には軍歌に混じって数十枚の童謡があった。時は米軍の空襲が激しさを増し始めた昭和17、8年ごろ。夜ともなればワット数を落とした電気の傘を黒い布や風呂敷でおおい、空襲警報が鳴り響くと聴いていたレコードを止め、電気を消して息をひそめるようにしては警報が解除されるのを待ったものだった(集団的自衛権が閣議決定され、海外に派遣された自衛隊が戦闘に巻き込まれるような事態が起これば、人間を一人も殺傷しなかった日本の誇るべき戦後の歴史が過去についえる。7月1日、その閣議決定が成立し、憲法第9条が落涙する最初の日を迎えた。この一文を書いている時点で、悲しいことに日本はついに戦争をする国の仲間入りをするか否かの瀬戸際に立たされることになった。私はあの耳をつんざく警報発令のサイレン音と敵機の不気味な爆音を二度と聴きたくない)。
 それらの童謡はごく1部を除いて現在では聴く機会はないが、私は今でも間違えずに口ずさめる。たとえば、
    ♪ 良い子のお国は強くなる
    ♪ 良い子になりましょ、ぼくたちは
    ♪ 暑さ寒さに負けないで
    ♪ 強い日本をつくりましょう
 忘れたくても忘れようもない軍国時代の童謡である。
 島田小学校には1年間しかいなかった。軍人だった父親の移動に従って航空隊があった佐伯(大分県)へ移転したが、ここでも敵機来襲を知らせるサイレンはひっきりなしで、学校へ行ってもサイレンが鳴り止まぬうちに帰宅することも珍しくなく、佐伯では童謡を聴いて楽しむ機会はまったく潰えてしまった。
 終戦は山形県の谷地で迎え、昭和天皇の詔書もこの地で聴いた。といっても古びたラジオに母や祖母が耳をすりつけるようにして聴いている傍で耳をそばだてただけで、戦争が終わった事実が辛うじて分かった以外はほとんど記憶がない。だが、この地での音楽体験は後の私が進む先を決定づけたのではないかと思うくらい大きかった。それはやはりSP盤だったが、ただし童謡ではなく、たとえばレクオナ・キューバン・ボーイズの「タブー」や「アマポーラ」の名演(後に知った)、ジャズとはいえないポール・ホワイトマン楽団の「蝶々さん」や演奏者名は忘れたが「キャリオカ」など、それに「露営の歌」や「出征兵士を送る歌」などの軍歌だった。島田や佐伯では聴いたことがないこれら洋楽がなぜ谷地で聴けたのか。母がいない今では確かめようもない。小学1、2年ではまだ早いという判断だったのかもしれない。谷地へ来た当時、戦争は終わっていなかった。母はなるべく洋楽は聴かないように私を諭した。私は一計を案じ、昼間だというのに蓄音機のある部屋の雨戸を全部閉め、蓄音機ごと毛布をかぶって聴いた。音が外へ漏れないように工夫したのだ。これらの音楽は今でも1から10まで間違えずに歌える。ことに「タブー」と「アマポーラ」は終生の愛聴曲となった。
 戦後、我が家は戦地から帰還した父と、谷地から遠くない飛行場がある神町(山形県)郊外の小さな村落(向原)で新しい生活をはじめた。といっても、向原から神町の小学校まで徒歩1時間の道のりに加え、友達と遊ぶ機会が多くなり、SP盤を聴く機会が極端なくらいに減った。加えて古びたラジオを通してNHK第1放送の番組を聴くことがほかに何の娯楽もなかった当時の我が家の共通の楽しみとなり、いつしかSP盤は隅へ追いやられてしまった。「鐘の鳴る丘」や7時半からの歌謡番組はほとんど欠かさずに聴いたものだ。
 やがて小学校を卒業した私に、両親は先に東京へ行くように促した。逗子(神奈川県)には母方の祖父母の大きな屋敷があり、母が祖父母を説得し、私がきちんとした学問ができる環境においてやろうと意を尽くしたのだろう。祖父は海軍中将まで昇りつめた職業軍人で、太平洋戦争前は何度か米国へ渡航し、当地で娘たち(母や叔母)のために買い集めたSPレコードが、当時は誰にも聴かれないまま応接間に眠っていた。それはいわば私にとって音楽の宝庫みたいなもので、ほとんどがクラシックのレコードだったが、祖父が外で庭仕事をしている時間を狙っては応接間に忍び込んで聴いたことが涙が出るくらいに懐かしい。
 やがて、一家が祖父の家に厄介になる日が来た。かくして私の中学生活が始まった。この中学生活でも後の私にかけがえない音楽と接する機会を得た話もあるのだが、約束の枚数はとうに尽きたのでこの続きはまたの機会に譲ることにしよう。

悠 雅彦 Masahiko Yuh
1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、朝日新聞などに寄稿する他、ジャズ講座の講師を務める。
共著「ジャズCDの名盤」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽之友社)他。本誌主幹。

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FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


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