MONTHRY EDITORIAL02

Vol.32 | 音楽的時間の解体と喪失text by Mariko OKAYAMA


photo by 林 喜代種
イーゴ・ポゴレリッチ@サントリーホール、シャルル・デュトワ指揮 フィラデルフィア管との共演、2010年4月28日

歌わない、流れない、喜びがない。
前半のショパン2曲とリスト1曲で、すでに2時間近くが過ぎた。音と音の間が極端に長く、ワンフレーズをルーペで覗き込むように弾くから、通常の2倍かかっているのだ。
旋律は分断され、ひたすら響きの来し方行く末に耳と心を凝らし、バラバラにされた孤独な音たちがその指先からぽとり、ぽとりと落ちてゆく。と思えば、竜巻のごとき滑走と轟音。

 

譜面台のスコアを見ながら、彼はたった「今」の「今」を探り出す。既視も既聴も振り捨てて、ぎりぎりの今を読む。スコアは彼にとって、「最初」の譜読みのために必須なセッティングなのだろう。
解体と再構築の同時進行の内に現れるショパンもリストも、削がれ、剥がされ、異様な強調と減衰に、骨だけで立っている。
それが、彼の言う「構造」なのだろうか。


80年ショパン国際コンクールでの落選に、審査員だったアルゲリッチが「だって、彼は天才よ!」と怒って席を立った伝説のピアニスト、ユーゴ出身のイーヴォ・ポゴレリッチ。
初来日は81年で、私はその演奏を「音楽の詩神と魔神を同居させているピアニスト」で「自身の中に住まう神々に未だ翻弄されて」いるものの「手綱を締める技量が加われば並外れたピアニストとなろう。」と評した。詩人ランボオにピアノを弾かせたら、こんなふうだろう、とも。(「音楽旬報」No.986)
ただ、彼の背後に、76年から師事し、80年には妻に迎えたA・ケゼラーゼの姿が大きく映っていたから、この若者が本当には何者であるか、については留保の気持ちが続いた。96年、彼女の死ののち、彼は神経を病み、ステージから去る。復活は2007年のことだ。
ほとんど気配だけのピアニシモ。天地に挑みかかるような激越なフォルティシモ。
ダイナミック・レンジの両極端を行き来するのは今も変わらない。思わせぶりなたっぷりした「間」は、いよいよ延び、一音一音に飽くことなき永遠が延々と宿るようだ。
かと思うと、猛然とダッシュ、駆け上り駆け下り、まき散らされる音の後塵・粉塵を聴き手は呆然と拝すばかり。
ギリシャからはじまる西欧哲学は「驚き」からはじまったが、哲学は本来「悲哀」から生まれる、と西田幾多郎が言ったそうだ。彼がそのように彼我を解釈、位置づけた理由は理解できるが、私は洋の東西に関わりなく、哲学も宗教も芸術も、その根源は「悲哀」だと思っている。
人間が避けられない悲哀とは、死だ。喪失の極み、と言っていい。
ポゴレリッチの極端にデフォルメされた音楽的時間は、喪失というものの本質を開陳する。
つまり、スコアを見ながら、彼は「今」という「時」の絶えざる喪失と生成の一瞬の尖端だけに立ち、日常的な時の流れや持続というものへの懐疑と否定を、どこまでも完遂するのだ。それは、ついに訪れる終焉とか、こらえきれず突進する激走といった形をとる。
たとえばショパンの『夜想曲Op.62-2』の最後のかすかな1音を、どれほど彼は、聴衆は待ったか。待たねばならなかったか。いつ、それが鳴らされるのか、いつ、それが来るのか。

 

終焉とは、すべて、そのようなもので、そこに喜びを見出すのは難しい。
必死に付いてゆこうとする聴衆は前のめりに、イライラした聴衆はそっくりかえり、ホールは緊張と倦怠の二層をまぜこぜに、息を詰め、あるいはあくびをかみ殺す。
50歳を前に、彼は教育にも目覚め、若手相手のマスタークラスや自身の名を冠した音楽祭などで若手に演奏機会を与えてきた。
きわめて特異なこのピアニストは、何を彼らに手渡したいのか。
「スコアは自分で読みなさい。」だろうか? 「スコアはどのようにも読みうる。」だろうか?
「自分のストーリーがちゃんと語れるような技術を習得するには・・・。」だろうか?
ともあれ。
みんなのようには歌わない。みんなのようには流れない。それは、それでよかろう。
でも、喜びがないのは、どうだろう?
喜びには、いろいろある。光や祈りも、喜びだ。哀しみだって、喜びだ。
そういう感情の領域がほとんど見えない、固く閉ざされた感じがあるのは、なぜだろう?
それは例えばP・ゼルキンの修行僧のような禁欲とも、V・アファナシェフの完全にあちら世界に行ってしまったどっぷり自己陶酔とも違う。
彼の音楽はそのように、予見できない終焉と、終焉を迎えた事象(事柄、あるいは他者。人の死が、必ず他者であって自分ではないのは、M・デュシャンが「死ぬのはいつも他人」と言った通り)によって味わわされる喪失感とだけで成り立っている。
だが、その喪失の裏に、悲哀が読み取れないのはなぜだろう?
彼が知らねばならなかった喪失は、悲哀すらも奪ったのだろうか。もっと言うなら、終焉とは、本来、安寧へと溶け入る最後の道であろうに。
解体された音のスクラップ、あるいはスケルトン(骸骨)が広げる風景は、荒涼としている。
それが21世紀の真の姿 −−−− ポゴレリッチに、世界はそう見えているのだろうか。


休憩後、演奏者の意向により、冒頭にブラームス『間奏曲Op.118-2』が加わった。
アナウンスに拍手が湧いたが、シベリウス、ラヴェルで終演したのはほぼ1時間半のち。疲労困憊の聴衆は、アンコールを求める気力も失せていたようだ。
ポゴッリッチとは何者か。
彼こそが、もっとも現代的なピアニストと言えるかも知れない。
いや、音楽が喪失(死)と生成(誕生)の連なりであるなら、すなわち、音楽が古来、儀礼と祝祭の双生児であるなら、彼はもっとも熾烈なその殉教者であろう。

 

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル
2010年5月5日@サントリーホール
曲目:ショパン「夜想曲変ホ長調Op.62-2」「ピアノ・ソナタ第3番ロ短調Op.58」
   リスト「メフィスト・ワルツ第1番」
   ブラームス「間奏曲Op.118-2」
   シベリウス「悲しきワルツ」
   ラヴェル「夜のガスパール」


丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

WEB shoppingJT jungle tomato

FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


Copyright (C) 2004-2015 JAZZTOKYO.
ALL RIGHTS RESERVED.