チャック・ヘディックス『bird: The Life and Music of Chalie Parker 』『Kansas City Jazz : from Ragtime to Bepop- A History』著者
私のカンザス・シティ滞在にはいくつかのハイライトがある。その一つにUMKC (University of Missouri-Kansas City )、ニコルス・ライブラリー、マー・サウンド・アーカイブスのディレクター、チャック・ヘディックス氏(以下へディックス)を訪れる事がある。毎回、アーカイブスにあるカンザス・シティ・ジャズにまつわる多くの資料を見せてくれ、“カンザス・シティ・アドベンチャー”と称し、カンザス・シティ・ジャズゆかりの様々な所に連れて行ってくれる。
このコラムでは2007年にバードの生まれた所や家などを車で1日回った事を紹介した。
ヘディックスがチャーリー・パーカーの伝記『bird : The Life and Music of Charlie Parker』を執筆し終わる頃には、このアドベンチャーやリサーチは私達の間で、“オーニソロジー Ornithologhy:鳥類学”と呼ぶ様になって来た。“最新のオーニソロジーに於ける発見”とか“違う角度からのオーニソロジー”等と、大真面目でチャーリー・パーカー関連の情報交換を続けている。私は特にチャーリー・パーカー・フリークでも研究者でもないが、このやり取りはチャーリー・パーカーの事だけではなく、そのバックグラウンドにあるアメリカ文化を知る事が出来、とても楽しい。
今回のコラムでは、今春、発見されたチャーリー・パーカー(以下バード)の18才の時の写真にまつわる場所を始め、何度かの修繕を重ねて奇麗になったバードが住んでいた家、バードが7才から通っていた小学校のペン・スクールなどを当時の写真と共に紹介する。
このコラムに使用した白黒の建物の写真は、1940年4月にカンザス・シティが住民の税金徴収の評価をする際の調査『Tax Assessment Photographs Project』の一環として撮り、記録、保存されているものである。これはカンザス・シティにおいて1940年に1度だけ行われ、以後このような記録はない。当時、街中のあらゆる建物が写真を撮られ、その数は4万件以上に及ぶ。写真の中では人がそれぞれの建物のナンバーを持って立っており、当時の様子を窺い知る事ができる。ヘディックスはバード一家の住民台帳から彼らが住んでいた住所を割り出し、様々な情報と照らし合わせ、カンザス・シティ・パブリック・ライブラリーの膨大なアーカイブの中から、これらの写真を探し当てている。 これらの写真は未だ公にはなっていない。今回、ヘディックスの助力によって、カンザス・シティ・ライブラリーより使用許可を得てこの場に掲載となったが、ここに至るまでヘディックスと彼のスタッフの気の遠くなる様なリサーチがあった事を付け加えておきたい。
♪カンガルー・ジェリー・ジョイント(the Kangaroo Jelly Joint)
今年の2月初め、ヘディックスからこんなメールが届いた。「スペシャル・コレクション(UMKC LaBudde Special Collections )のスタッフが、カンザス・シティ大学の1939年の年鑑をパラパラめくってたら、とんでもない写真を見つけたんだよ!もうビックリ仰天さ!なんと、バードが、ジェイ・マクシャン・バンドと一緒に地元の酒場で演ってる写真なんだよ。おそらく1938年。ってことはバードは18才。ドラマーはジェシー・プライスでバスター・スミス(b)とボブ・メイバーン(ts)もいるんだよ。今までのバードの写真とはちょっと違うポートレイトだと思う。バードは白人の学生達の前で演奏してたんだ。きっとガンガン吹き捲くってたと思うよ!カンザス・シティってところはなんて進歩的で差別に寛大な街だったんだろう!
この写真を見つけた時、僕がどんな気持だったか想像できるだろ?!本当にゾクゾクしっぱなしだったんだよ!この写真は未だ公には全く知られてないと思うよ。」と。
バードが10代でカンザス・シティにおいてプロとして活動をしている姿はほとんど残っていない。この発見は大変貴重なもので、“オーニソロジー”の今年一番の話題となった。写真は、この夏のチャーリー・パーカー・セレブレーション直前に、地元ジャズ誌『Jam』にヘディックスの記事と共に公開された。
写真はカンザス・シティ大学(University of Kansas City)の1939年のカンガルー年鑑の123ページに掲載されたものである。カンザス・シティ大学は1933年開校。1963年にミズーリ大学、カンザス・シティ校(University of Missouri - Kansas City )となった。カンガルーは大学のマスコットである。
写真の冒頭に以下の様にキャプションが添えられている。
「この秋にキャンパス近くにオープンした『カンガルー・ジェリー・ジョイント』( the Kangaroo Jelly Joint)でのいくつかの写真がある。ほぼ毎週木曜日の午後、定期的に開かれるジャム・セッションには、カンザス・シティ大学とサウス・ウエスト・ハイスクールから学生達が集まって来る。ジルバのエレメンツを含んだ激しいダンスで、ジェシー・プライスと人気のバンドによって、雷の様なリズムが繰り広げられる。金管楽器の爆発的な音量に壁は揺れ、ドラムのしびれるようなリズムに学生達はタイルの床の上で踊り、ソーダ・ファウンテンにノンシャランと寄りかかる。男子学生クラブ、女子学生クラブの学生達の雰囲気は徒党を組んだ様に冷ややかで、集団に帰属しない人達にとっては極めて冷ややかだ。)
『カンガルー・ジェリー・ジョイント』はカンザス・シティ大学の卒業生がオープンさせた店で、学生達がダンスをするために集まる酒場の様な場所だった。朝8時から夜中の12時まで、学生達はそこでモルツビール、ウィスキーやソーダやシェイクなどをサーブされる。食べ物に至っては、中身がパンの間からはみ出そうな位に分厚いサンドイッチや、器から流れ出てくるようなチリなど、見た目にも面白いものがあった様だ。店にはジュークボックスがあり、流行っている曲を流し、学生達が音楽を知る場だった。
当時、こういった場所が学生達の社交の場としてポピュラーで、男女の出会いの場でもあった。 (『jelly』というのはセックスの比喩であり古いスラングである。現在ではほとんど使われていない。)
学生達はジェイ・マクシャン・バンドのメンバーや 『狂気のドラマー』として有名だったジェシー・プライスといったミュージシャン達を雇ってもいた。バードはこんなミュージシャン達と一緒にジェリー・ジョイントで演奏し、木曜のジャム・セッッションに加わっていたのだ。バード、18才の時である。
ヘディックス著 『Bird: The Life and ~』によると、1938年のバードは大きな出来事が幾つかあった。1月には最初の妻レベッカとの間に、最初の男の子レオンが誕生する。バードは家族のサポートを得ながら、この年の春に出来たばかりのバスター・スミス・バンドに入り、ルシール・パラダイスといったような当時人気のナイトスポットで演奏していた。バスター・スミスはバードにバンド・リーダーを託してバンドを去りニューヨークへ行くが、バードはバンドをまとめる事ができず、バンドは解散となる。その年の秋にバードはジェイ・マクシャン・バンドに加入する。(ジェイ・マクシャンは1936年にカンザス・シティに初めて来た)11月、バードはジェイ・マクシャン・バンドを辞め、ハーラン・レナードのバンドに移る。 当時のバードはカンザス・シティでは既に大変な人気者だった様だ。
その後、バードはハーラン・レナード・バンドをクビになり、1940年にカンザス・シティを離れてシカゴへ、そしてバードが『音楽の父』と慕うバスター・スミスのいるニューヨークへ行く。
ヘディックスはJam誌の記事の最後にこう記している。
「チャーリーはジャズの革命児でありビパップの創始者の1人として国際的に名を残していった。彼はカンザス・シティから離れてからも、度々カンザス・シティの母親に会いに、また、ジェリー・ジョイントの南の79丁目& ワーナルにある『トゥーティーズ・メイフェア(Tootie’s Mayfair)』という店で演奏をしに戻って来ていた。チャーリーは、トゥーティーズへ行く途中、51丁目通りの細長いジェリー・ジョイントの店の横をドライブしながら、そこでのチャーリーの非日常...気違い染みたカンザス・シティ大学の生徒達の前でジャムっていた事を思い出していた事を疑う余地はない。」
現在、『カンガルー・ジェリー・ジョイント』という店はないが、当時の細長い建物は51丁目通り、東300番地(300E, 51th Street)、カンザス・シティ に現存している。カントリー・クラブ・プラザやUMKCに近く、見晴らしが良くとてもオープンな場所にある。
75年以上も前の学生達の社交場としての文化も、現在では全く形が変わっている。私がこの時代のアメリカの学生達の社交文化について、「民主党のボス、ペンダーガストが失脚したのが1939年。1938年と言うと、アメリカはおそらく世界恐慌からの回復期の入り口、日本は戦争の機運が高まっていた頃。双方の国のバックグラウンドからしても日本とアメリカの文化の違いは簡単には理解しがたい。」とチャックに言った所、彼は「当然だと思う、今の若い世代のアメリカの人達だってきっと、あなたと同じ様に全く理解できないだろう。」という答が返って来た。
♪バードの家:3527・ワイアンドット・アヴェニュー(3527Wyandotte Avenue)
バードは1920年、カンザス州、カンザス・シティ生れ。7才の時に、家族と共にミズーリ州カンザス・シティに移り住む。
3527 ワイアンドット という場所にある2階建てのアパートの2階が、最初住んだ所だ。この辺りはダウンタウンから少し南に位置するウエストポート地区の住宅地で、バードが越して来た当時はミドルクラスの白人居住区だった。カンザス・シティのほぼ中心に位置し、白人、黒人、ミックスと言った3つの人種が共存し、比較的人種偏見の少ない所だった。バードはここで、白人と黒人のコミュニティーを上手く行き来しながら、白人と上手くつき合って行く術を身につけて行く。
バードはこのアパートに母親アディと父親チャールス・シニアと一緒に1927年から1930年まで住んでいた。
アパート自体は1909年に建てられたが、 内装も外装も奇麗に修繕、手入れされ、現在『3527YardBird Suites』として残っている。パーカー一家は2階の向かって右に住んでいた。煉瓦作り、2階のバルコニー、玄関前ポーチに白い手すりや柱など、 バードが住んでいた当時とほぼ同じ形で現存する。周辺には緑豊かで、静かな住宅が建ち並ぶ。
アパートは、2005年に1930年の国勢調査の記録がオープンになった時にへディックスとテディ・ディブル氏、イギリスのバード研究者のリュウ・ウォーカー氏が発見した。ディブル氏は映像関係のプロデュサーでありながら熱心なバード研究者でもある。
♪バードの家: 34丁目通り、西109番地(109W, 34th Street )
バードが 1930年から32年まで、10才から12才まで住んでいたアパート。
パーカー一家は向かって左側に住んでいた。
3297 ワイアンドット のアパートと同じエリアだが、2ブロック程北にある。3297 ワイアンドット のアパートと同様に、2005年にへディックスとディブル氏、ウォーカー氏が発見した。発見当時、ここは空き家同然だったようだ。私は2007年に初めて連れて行ってもらった。その時は住民はいたが、家の外装はまだ荒れていた。今年訪れた時は、ファサードはきれいに修繕されてペンキも塗り替えられていた。家の廻りには植物が生い茂り、8年前の2007年に家の前に植えられていた木も5〜6倍の高さに成長していた。建てられてから発見されるまで、その間何度も修繕されていた様だ。
♪バードのお父さん、チャールス・シニアが働いていたビル:36丁目通り &ワイアンドット通り( W36th ST & Wyandotte 200W ST)
カンザス・シティの市民台帳の記録から、バードのお父さんが1929〜30年頃にこのビルで管理人として働いていた事が確認されている。
この辺りは『オールド・ハイド・パーク・ウエスト・歴史的地区(Old Hyde Park West Historic District)』で、歴史的な建物が並ぶ地区に認定されている。先に述べたバードが住んでいた家2軒のすぐそばで、同じ地区に入る。
![]() |
![]() |
ヒストリック地区の表示:Wyandotte 200 W ST & w 36th Street この辺りは『 オールド・ハイド・パーク・ウエスト・歴史的地区 (Old Hyde Park West Historic District)』 |
バードのお父さんが管理人として働いていたビル Wyandotte & 36th Street |
♪ペン・スクール (Penn School)
ペン・スクールは、バードが1927年にミズーリ州カンザス・シティに移って来た時、最初に通っていた小学校で、1932年まで通っていた。
この学校はミシシッピー川の西に於いて初めて設立されたアフリカン・アメリカンの子供達のための小学校だ。1986年に資産家の妻だったサム・エリス女史によって創立されたが1955年に閉鎖された。校舎は1969年に火事によって焼失した。
ヘディックス著『Bird: The Life and ~』によると、
「チャーリーはアールデコ・スタイルのアップタウン劇場、ドラッグストア、八百屋、ホテル、アパート等を通り過ぎ、ブロードウェイ通りを歩いて学校まで通っていた。
アーサー・サウンダースは、学校の最初の日にチャーリーに会った。彼らは友達になった。サウンダースはチャーリーの事を『楽しく知的でペン・スクールでは人気のあるナイスガイだった。私は画家になりたかった。彼は音楽家を目指していた。』サウンダースはチャーリーが5年生の頃、アルトサックスを吹くのをはっきりと想い出している。『丁度その地域で、ペン・スクールに音楽プログラムを導入していた頃である。』と言っている。」とある。
ペン・スクールはバードが住んでいたウエストポート地区の南の方、4237ペンシルヴェニア通り(4237 Pennsylvania Avenue) ブロードウェイ通りの42丁目から43丁目の間に位置していた。バードは自宅のあるブロードウェイ通りの36丁目から43丁目の学校まで、約1.5km程の道のりを歩いて通っていた。
学校が建っていた小高い丘は、現在も芝に覆われ、木立がある。授業の休み時間や放課後、バードはこの辺りを転げ回って同級生達と遊んでいたのだろう。
学校があった場所には、石灰岩の地層が露出した場所に『Penn School Historic Site』という1933年の卒業生達5人によって1991年に寄贈されたプレートがあり、その歴史を示す表示があった。寄贈したのはバードの同級生達で、その中にはヘディックスのバードの伝記に登場したアーサー・サウンダースの名前もある。サウンダースは未だ健在と聞いている。バードと同じ年で今年95才になる。
私がここを訪れた時、このプレートがなくなっていた。私と一緒にいたヘディックスは「とんでもない事だ!きっと誰かが盗んで行ったんだろう!」と憤慨していた。Jam編集長コピトニック氏は、「以前、この近所に住んでいたが、この辺りは子供が多く遊び回っている場所で、きっと悪質ないたずらだと思う。」と言っていた。その後このプレートは未だ元に戻っていない。
♪バードの家: 1516、 オリーブ・ストリート(1516, Olive Street )
バードは1932年から、カンザス・シティを離れる1940年まで 1516、 オリーブ・ストリートのこのアパートの1階に住んでいた。
1933年の秋、バードはこの家からリンカーン・ハイスクールに通い始める。18th & Vine地区までは500m強の距離で、バードはナイトクラブ等を出入りし、覗いていた様だ。
バードのお母さんのアディは、お父さんのチャーリー・パーカー・シニアの元を離れ、ユニオン・ステーションの用務員として働き始める。この頃の様子は、ロバート・アルトマン監督の映画『Kansas City』に描かれている。
1934年の春、このアパートの2階に、後にバードの最初の妻となるレベッカと彼女の家族が越して来る。
残念ながら、バードの家があった場所には現在何もない。
![]() |
![]() |
バードの住んでいた家、1940年 1516 Olive Street |
バードの住んでいた家があった所、2015年 家があった所にある木が、1940年の写真にある木と同じかどうかは不明 |
カンザス・シティ・ジャズとバードの足跡をたどるツアーは、昨夏から『チャーリー・パーカー・バースデー・セレブレーション』のイベントの一環で、チャック・ヘディックス氏のホストにより『カンザス・シティ・ジャズ・ヒストリカル・ツアー(A Kansas City Jazz Historical Tour)』として催されている。
参加者約40人、バスを一代チャーターし、1人$15で約2時間のツアーである。
今年は8月22日に開催された。(11月15日記)
*関連リンク
http://www.jazztokyo.com/column/takemura/part037.html
http://www.jazztokyo.com/guest/kcj/v06/v06.html
https://www.youtube.com/watch?v=66rtqQ2Q-Wk (『Kansas City』映画予告編)
*参考文献
『bird : The Life and Music of Charlie Parker』
『Kansas City Jazz : from Ragtime to Bepop- A History』
『Jam: August/September 2015』
* 写真の無断転載厳禁
竹村 洋子 Yoko Takemura
美術学校卒業後、マーケティングの仕事に携わる。1996年より、NY、シカゴ、デトロイト、カンザス・シティを中心にアメリカのローカル・ジャズミュージシャン達と交流を深め、現在に至る。主として ミュージシャン間のコーディネーション、プロモーションを行う。Kansas City Jazz Ambassador 会員。KAWADE夢ムック『チャーリー・パーカー〜モダン・ジャズの創造主』(2014)に寄稿。
追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley
:
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣
:
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi
#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報
シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻
音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美
カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子
及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)
オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美
ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)
:
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義
:
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄
Copyright (C) 2004-2015 JAZZTOKYO.
ALL RIGHTS RESERVED.