Vol.34 | 5月の出来事に思うtext by Masahiko YUH

 5月は色んなことがあった月だった。

 まず、5月の声を聴いたその日に、新宿の「ピットイン」で驚くべき才能に出会った。1日に蓋を開けた「山下洋輔〜ゴールデン・ウィーク・Three Days 」。その初日に山下洋輔の紹介で登場した札幌の女子高校生、寺久保エレナの、新緑の谷間を流れくだる清流を彷彿させる奔放にして淀みないアルト・サックス演奏に触れて、新世紀に入るや新旧交代が顕著になりはじめたジャズ界の新しい流れが本格化したとの感を深くした。

 ちなみに、彼女は来たる9月5日、<東京ジャズ祭 2010>のステージに立つ。大きなスポットライトを浴びることになるだろう。ただし、この逸材が使い捨てられるようなことはあって欲しくない。本人の自覚もさることながら、関係者の温かい配慮を得て力強く育っていくように望みたい。

 新緑爽やかな季節にふさわしいフレッシュな演奏を聴いてまもない15日、ジャズ界に激震が走った。90歳を超えてなお第一線で溌剌とプレイしていたハンク・ジョーンズが入院先のホスピスで永眠したとの訃報が舞い込んだのだ。ホスピスで療養していた事実を知らなかった私にはまさに寝耳に水の驚きだった。多くのジャズ・ファンにとってもそうだったろう。

 ホスピスとは、治療の望みがなくなり、死を待つしかなくなった患者が最後に身を託す安息所(ターミナルケアをする施設)を指す。実をいえば、プロデューサーの伊藤八十八氏から頼まれていたグレイト・ジャズ・トリオ(GJT)の新作のライナーノーツの原稿を書き上げ、急ぎ発送した翌々日のことだった。折り返し届いた伊藤氏のメールには、ハンクが入院先だったマンハッタンのメモリアル病院から14日、ブルックリンのホスピスに移った知らせを聞いた瞬間、不吉な予感が脳裏を走ったとあった。愛すべきピアニストの最期は悲しいことに彼が恐れた通りになってしまった。ライナーノーツの冒頭を私は次のように書いた。「このCDが店頭に並ぶころハンク・ジョーンズは92歳の誕生日を迎えているだろう」と。90を超えてなお若いミュージシャンも舌を巻く元気な演奏活動を展開していたハンク・ジョーンズへの最大級の賛辞と祝福をこめたオープニングのつもりだった。この新作CDは2月に来演した折り、ブルーノート東京での演奏終了後の2月24日に吹き込まれたもので、現在絶好調のトランペット奏者ロイ・ハーグローヴが2曲に参加した注目作だ。ロイはGJTの後を受けてブルーノートへ出演した。いわばステージで引き継ぎの挨拶を交わし合ったハンクの誘いにロイが応じたことで実現した”思いがけない”1作で、打診したGJTを率いるハンクにとっても新しい1ページとなるはずの新作だった。それが、あっけなく彼のラスト・レコーディングになってしまおうとは。本来なら、この1作は追悼盤となる作品であることから、ノーツは書き直さなければならない。だが私には、とてもそんな気分になれなかった。土壇場で意を決したすえ、伊藤氏の了解を得て、新たに書いた追悼文を追加してもらうことにした。

 振り返れば、彼が2008年の東京ジャズ祭に出演する少し前、単独にインタヴューしたことが私にとってはハンクと言葉を交わした最後となった。それは手術直後のことで、さすがにやつれてはいたが、ハンク自身は病後の健康を心配する声を笑い飛ばすなど、時おりジョークを交えながら答える発言は意気軒昂だった。

 ハンク、サド、エルヴィンの3兄弟は、パーシー、ジミー、アルバートのヒース・ブラザーズと並ぶ誰知らぬものないジャズ・ブラザーズ。1968年7月にサド・ジョーンズがメル・ルイスと組んだオーケストラで突如来日したのは、エルヴィン夫人のケイ子さんがこのオケの素晴らしさを日本のファンにもっと知ってほしいとの一念からで、プロのプロモーターが介在しない招聘のため集客に関係者が苦労したといういわくつきの来演だった。そのため全盛期のサド・メル楽団をそれにふさわしいコンサート・ホールで聴けなかったのは残念だったが、陽気に振る舞って笑みを絶やさないサドの人間味には強く惹きつけられた。どんな場合でも人に不快の念を与えないこの穏やかな人間味はハンクにもエルヴィンにも共通していて、彼らと話しているとどんなにかたくなな心も打ち解けるのに時間はかからないだろうと思わずにはいられなかった。3人の中で一番社交的だったのはサドで、それがバンドの指揮ぶりやステージでのトークに好ましい形で発揮された。独断を許してもらうなら、コンサートのMCといえばデューク・エリントンとこのサド・ジョーンズが双璧。指揮ぶりでも両者の右に出る者はいない。サドの指揮ぶりは、まさに彼の一挙手一投足がスウィングしていて、ただ眺めているだけでも心浮きうきさせられたものだった。一方、ハンク・ジョーンズはサドのように聴衆を掌に乗せてユーモラスに振る舞うエンタテイナーではないが、会えば決まってにこやかに軽口を叩き、軽いジョークを発しては座を和やかにする紳士だった。それ以上に、彼がニューヨークへ上京した44年は、かのビリー・ホリデイが有名な「ラヴァー・マン」のセッションを試みた年であり、チャーリー・パーカーの全盛期でもある。終戦直前の44年といえば、レスター・ヤングなどは彼にとっては拷問のような軍隊生活送っていたころでもあったこと等々を考えれば、ハンクはスウィング末期からバップを経て現代にいたるジャズの歴史をつぶさに眺め、体験してきた今日では得難い例外的な演奏家だったのだ。2003年7月にベニー・カーターが亡くなったときも同じような喪失感を味わったものだが、ジャズ界はまたも巨星を失った。先に触れた最後のレコーディングはさる2月末に東京で行われたものだが、直前のブルーノート・セッションといい、その時点では91歳という年齢を感じさせない元気なプレイを披露したハンクの死は、ジャズの歴史がまたひとつ消え去ったとの感を深くする。2月に会ったときは100歳を超えてもピアノを演奏しているだろうと思ったくらいに元気だったのに。ちなみに、カーターが他界したとき、彼は95歳だった。

 ハンク・ジョーンズが鬼籍に入る4日前の5月11日、「ストーミー・ウェザー」や「サマータイム」などの熱唱で日本のジャズ・ヴォーカル・ファンにも人気があり、また美人シンガーで知られたリナ・ホーンも他界した。ハンクとは1歳違いの93歳だった。かくして、ジャズにとっての佳き時代、あるいは黄金期を知る歴史的ミュージシャンが1人、また1人と姿を消していく。新旧の交替が活発であれば、ひとつの文化が廃れることはない。ハンク・ジョーンズやリナ・ホーンが永眠する一方で、寺久保エレナに象徴される若き才能が羽ばたく。その限りではジャズが亡びることはないだろう。

リナ・ホーンが没した翌日(12日)、私たちの良き友人で優れたオーディオ評論を初めとする執筆活動を繰り広げていた小林洋一氏も闘病の甲斐なく亡くなった。藤井郷子オーケストラの熱心な支持者であった故人と、幾度も田村夏樹、藤井郷子夫妻のコンサートでお会いしては語り合ったものだった。身近にいた友人の冥福を祈りたい。

 ハンク・ジョーンズの訃報に衝撃を受けたちょうどその日、別の大地震の一報が舞い込んだ。わが国のみならず世界中のジャズ・ファンに63年の長きにわたって親しまれてきた月刊誌「スイング・ジャーナル(SJ)」が休刊を布告したというのだ。すでに姉妹誌の「ADLIB」が5月号で休刊することを公表した時点で、もしやとは思ったものの、日本のジャズ・ジャーナリズムを主導し、ジャズの普及と発展に尽くしてきたSJに限って撤退することはないだろうと楽観視していた。噂を追認するようにSJ社から休刊の知らせがメールで届いたのは17日のことだった。「諸般の事情で7月号を持って休刊することをお許しいただきたい」とあった。恐らくは広告の減収のためとは思いながらも、そこまで深刻な事態だったのかと改めて驚かずにはいられなかった。近年はジャーナリズムとしての使命を放棄したのではないかと思われるような後退が気になっていた矢先だった。ジャズを20世紀を代表する音楽文化として、その視点に立ちながら現代を貫くジャズ論、文化論を育む姿勢をたとえ僅かでも持ち続けてほしいとの願いは叶わなかったといえばSJシンパの反発を浴びるかもしれないが、英語版(英訳冊子)が発行されていたわけではなかったにもかかわらず世界のジャズ・ファンからも絶えず注目を集めたジャズ専門誌であったことは特筆すべき事柄で、それだけに休刊はしごく残念だ。新しい後援者を得た上で復刊する可能性は高いと聞いているので、できるだけ速やかに肩代わりする後援者を得て復刊してもらいたい。

 これは私の率直な気持だ。私たち同志がウェブ(ネット)上のジャズ誌として「JazzTokyo」を立ちあげたとき、ジャズ誌のメジャーともいうべきSJに対して叛旗を掲げたかのように中傷する向きがあったが、私たちにはそんな邪心はこれっぽっちもなかった。私たちが掲げた「Jazz and Far Beyond」のコンセプトをご覧になっても明らかなように、ジャズを中心に置きながらも(JTはジャズのフィールドで仕事をしてきた編集長や私が軸となって発足した)、あらゆるカテゴリーを等価に認識する地点に立って文化としてのより広い音楽ジャーナリズムの確立を志向した意図を出発点にしたからだ。遠大過ぎるとか何とか言われようとも志だけは大きくありたいと、私自身は当初のポリシーを曲げようなどとはつゆ考えなかっただけのことだ。むしろネット時代の到来を積極的に捉え、ウェブ上のジャズ・ジャーナリズムを模索しながらまっ先に紙媒体のジャズ雑誌と競いあえる音楽ジャーナリズムを発信していくべく出発したのである。こうした原点を忘れることなく、これからも引き続き「JazzTokyo」の発展に寄与していくことを約束する。忌憚ないご意見を聴かせていただければ嬉しい。(2010年6月11日)  

悠 雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


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