Vol.7 | アルバート・マンゲルスドルフ、最後のベルリンジャズ祭 2004
Albert Mangelsdorff @JazzFest Berlin 2004
Photo:(c)横井一江 Kazue YOKOI

 ドイツのジャズ・シーンで、まず浮かぶ都市名はベルリンだろう。他にケルン、ハンブルグ、ミュンヘンなどの名前も挙がる。だが、ヨーロッパでも有数のハブ空港があるグローバル都市にもかかわらず、なぜかフランクフルトの名前はなかなか出てこない。
しかし、フランクフルトがドイツのジャズ界で重要な都市だった時期もあった。サム・ウッディングのチョコレート・キディーズがベルリンで大成功を収めた数年後の1928年にフランクフルトのホーホ音楽学院にジャズ科が開設されている。バークリー音楽院の前身、シリンジャー音楽院が設立されたのはその17年後の1945年。音楽教育の場では本家アメリカに先んじて世界で初めてジャズ科が出来たのはフランクフルトだったのだ。当時の学長はベルンハルト・ゼクレス、彼の作曲の生徒にはパウル・ヒンデミットなどがおり、テオドール・アドルノもプライベート・レッスンを受けていたという人物だ。アドルノはジャズについて批判的であっただけにこれはとても皮肉な史実である。ジャズ科の責任者は、ブダペストでコダーイ・ゾルダーンに学んだハンガリー人の作曲家シェイベル・マーチャーシュだったというのが興味深い。もっとも、ジャズ科は5年ぐらいしか存続しなかった。ナチスが政権をとった1933年にジャズ科は廃止されたのである。そして、第二次世界大戦が終わり、まずジャズが息を吹き返したのもフランクフルト。1953年にはドイツで最初のジャズ祭が開催されている。
そんな50年代のフランクフルトでその才覚を現してきたのがトロンボーン奏者のアルバート・マンゲルスドルフである。ドイツ人で世界的な評価を得た最初のミュージシャンであり、まさにドイツを代表するジャズ・ミュージシャンだった。マンゲルスドルフの音楽家としての生涯を辿ると、ドイツ・ジャズ史の流れ、その音楽スタイルの変遷だけではなく、ジャズ周辺の状況、ジャズに対する文化政策などが様々な角度から浮かび上がってくる。まさにドイツにおけるジャズを象徴的に表している存在だと私は思う。1994年には彼の名前を冠した賞が創られ、ドイツ・ジャズ界に功績のあった音楽家に贈られている。その第一回の受賞者はアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ、そしてペーター・コヴァルト、E.R.ペトロフスキー、ハインツ・ザウアー、ギュンター・ハンペルなどに授与されている。
マンゲルスドルフのジャズとの出会いは、ナチス時代に遡る。兄エミール・マンゲルスドルフの影響でジャズに開眼し、戦後ギター奏者としてプロ入り。程なくしてトロンボーンに楽器を変え、50年代にはドイツでのモダンジャズの先駆けとなるハンス・コラーのバンドなどに参加、その後自己のグループを結成した。インターナショナル・ユース・バンドで1958年にニューポート・ジャズ祭に出演したことが契機となり、コピーではない独創性を追求しはじめ、60年代にはトロンボーンの革新者としてアメリカでも評価されるようになる。そして、60年代後半のバーデン・バーデン・フリー・ジャズ・ミーティングへの参加、70年代のペーター・ブロッツマン・トリオとの共演やグローブ・ユニティ・オーケストラに参加という具合にフリーとも関わっていく。これらの記述は、マンゲルスドルフの紹介文では決まって書かれていること、いわばクリシェであるが、これだけでもドイツのジャズ史と彼の音楽活動がシンクロしていることが少しはわかるだろう。そしてまた、後進の指導にもあたり、1976年からはホーホ音楽院で教鞭もとっていたのである。それだけではなく、ヨアヒム・べーレント、ジョルジュ・グルンツの後を受け、1995年から2000年までベルリン・ジャズ祭の音楽監督を務めていた。

私がマンゲルスドルフを観たのは亡くなる前年、2004年のベルリン・ジャズ祭だった。評論家ヨアヒム・べーレントを音楽監督に「カラヤンのサーカス小屋」というニックネームもあるベルリン交響楽団の根拠地ベルリン・フィルハーモニーで、第一回のベルリン・ジャズ祭が開催されたのは1966年。E-Musik(真面目な音楽=芸術音楽)とU-Musik(娯楽音楽)という峻別がある国だけに、これは活気的なことだったと想像する。1994年からは会場が変わったが、40年周年記念のこの年の初日だけはフィルハーモニーでコンサートが行われた。マンゲルスドルフはおそらく唯一の第一回ベルリン・ジャズ祭出演者だったと思う。第一回のプログラムには、コールマン・ホーキンス、ジョージ・ラッセル、マイルス・ディヴィス、ローランド・カーク、デイヴ・ブルーベックなどアメリカのビッグ・ネームの名前が連なっている。それだけではなく、「ジャズ・イン・ヨーロッパ」と題して、ヨーロッパ各国のミュージシャンが出演する日を設け、その矜持を見せようとしていたのだ。そのひとつ、マックス・グレガー・オーケストラにフィーチュアされる形でマンゲルスドルフは出演していたのである。

 

それから40年後の2004年は、NDR(北ドイツ放送)ビッグバンドとの共演でマンゲルスドルフ作品<ミュージック・フォー・ジャズ・オーケストラ>の演奏。ドイツの放送局にはジャズ・バンドがあり、いずれも精鋭部隊で演奏も精緻、グルーヴ感も申し分なく、ソロをとらせても各々一級品。ただ真面目さゆえにジャズ特有のレイジーさがもたらす心地よさがないのが欠点といえば欠点であり、ドイツ人らしいといえばそうなのである。NDRビッグバンドもこのような放送局のバンドで、演奏のクォリティは非常に高い。このプログラムで制作されたCD『ミュージック・フォー・ジャズ・オーケストラ』は2003年第四四半期の批評家賞を受賞しているように評価も高く、その再演でマンゲルヅドルフを聴くことが出来たのは幸運だったと今にして思う。

そのコンサートの翌朝、昨日のジャズ祭はどうだったのかと聞いてきたアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハとのなにげない会話のなかの一言が記憶に残っている。
「マンゲルスドルフはその世代のミュージシャンでフリーに理解を示した例外的な人物だったんだよ」。
1929年生まれのマンゲルスドルフと1938年生まれのシュリッペンバッハでは世代的には断絶があるのだ。ジャズにおいてバップとフリーとはモダンジャズという概念では繋がっており、決して断絶はしていないのだが、ドイツの演奏家においては明らかに世代の断絶があった。つまり、ハードバップを演奏しているベテラン・ミュージシャンがフリーに興味を示すことは希だったのである。世代の断絶はドイツの知識人や文学や映画の世界でもみられる。同時代の空気を吸っている表現者だから当然といえば当然なのだが、それはなぜなのだろう。第二次世界大戦の記憶である。マンゲルスドルフの世代は大戦中に何が起こったが少なくとも知っている世代だが、大戦中からその直後に生まれた世代には何がいったい起こっていたのかについての認識を欠いていた。それは、ファシズムから大量消費国家への転換を果たそうとした戦略のなかで、戦争の責任はナチズムにあるように教えられていたものの実際のところ何が起きたのかは知らされていなかったということ。これは日本の戦後教育とは大きく異なっている。ドイツの過去に向きあうのではなく、消費経済と反共プロパガンダの中にそれを押し込めたボン共和国の欠陥を若い世代、つまり戦中・戦後に生まれた世代は糾弾しようとしたのだった。それがジャズではフリージャズの暴力性となって表れたともいえる。ヨーロッパ・フリーでもドイツでフリー・ミュージックを演奏していた者たち、ペーター・ブロッツマンに代表されるようなミュージシャン達は、アメリカ黒人のブラック・パワーに準えればホワイト・パワーという言葉が当てはまるのである。
それを考えるとマンゲルスドルフはいかに特異な存在であったかもわかる。だが、彼はフリーへ単純に傾倒するのではなく、70年代のジャコ・パストリアスとの共演といい、幅広い共演・活動歴の中で自己の革新性、自身のスタイルを探究していった人といったほうがよいのだろう。それはまたフリー以降の世代にとってはひとつの指標となる生き方でもある。自らのヴォイスを持つこと、それが何よりも音楽家として大切であることをその演奏を通して伝えているのだ。

話が逸れてしまったので、再び2004年のベルリン・ジャズ祭に話を戻そう。マンゲルスドルフがステージに登場するとひときわ大きな拍手で迎えられた。だが、体調はやはり思わしくなかったに違いない。ソロをとっている時以外はステージに用意された椅子に腰掛け、バンドの演奏を見守っているだけだった。しかし、そのソロは。やはり名手である。マルチフォニックスをはじめとするそのヴォイスに往年の輝きを界間見せていた。会場は心地よい雰囲気に充たされていく。ベルリン子はクリティカルである。その反応が不思議なくらいストレートに伝わってくる。気に入らなければ平気で席を立つが、気に入れば万雷の拍手で讃える。しかし、マンゲルスドルフに対しては、そのいずれとも違った。終演後、深々と90度のおじぎをするドイツのジャズ界最大の功労者にして、ベルリン・ジャズ祭第三代音楽監督を務めた彼を包み込んだのは、とてもとても暖かな拍手だった。聴衆はこれがマンゲルスドルフにとっての最後のベルリン・ジャズ祭になるであろうことを無意識のうちに感じていたのかもしれない。だが、その拍手は老境の音楽家に対する優しさや昔の名前に出会ったという懐かしさといった情緒的なだけのものではなく、その存在に対する深いリスペクト、長年の功績を讃えるものだったといっていいだろう。おそらくその時フィルハーモニーに居た聴衆のほぼ全てがマンゲルスドルフという音楽家の存在の大きさを改めて感じとっていたのである。

それから約8ヶ月余り経った2005年7月25日にマンゲルスドルフはフランクフルトで亡くなった。彼にとってのホームは最後までフランクフルトだったのである。

横井一江:北海道帯広市生まれ。The Jazz Journalist Association会員。音楽専門誌等に執筆、 写真を提供。海外レポート、ヨーロッパの重鎮達の多くをはじめ、若手までインタビューを数多く手がける。 フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年〜2004年)。趣味は料理。

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#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
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#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
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第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


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#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

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