サントリー芸術財団が主宰する恒例の<サマー・フェスティヴァル 2010>が、8月23日から30日にかけてホーム・グラウンドのサントリー・ホール(大、小)で開催された。現代音楽に関心のおありの方なら周知のように、「Music Today 21」を謳ったこの祭典は、現代の注目すべき作曲家の作品を取りあげる『音楽の現在』、国際作曲委嘱シリーズを担う『テーマ作曲家』、及び『芥川作曲賞』から成っている。『音楽の現在』で演奏されたのは、ジャン=リュック・エルヴェ(フランス)、クリストフ・ベルトラン(フランス)、ジョナサン・コール(イギリス)、ジョルジュ・アベルギス(ギリシャ)、マルトン・イレーシュ(ハンガリー)による室内楽作品。および、イェルク・ヴィトマン(ドイツ)、ブリス・ポゼ(フランス)、マルティン・スモルカ(チェコ)、エンノ・ポッペ(ドイツ)らの管弦楽作品。
一方、今年のテーマ作曲家は今年71歳になるイギリスのジョナサン・ハーヴェイで、「スリンガラ・シャコンヌ」「隠された声」、「シェーナ」、エレクトロニクスをリアルタイムで導入した「弦楽四重奏曲第4番」による室内楽(26日、小ホール/板倉康明指揮の東京シンフォニエッタ、クヮトロ・ピアチェーリ)も、彼が激賛するエクトル・パラ(スペイン)の「カルスト=クロマU」などを間にはさんだ「ボディ・マンダラ」や、委嘱作品「80プレス・フォー・トウキョウ」というオーケストラ作品も、精神性によって立つリアリティを繊細かつダイナミックに表現するハーヴェイならではの息の通った書法を通して、人間的な優しい眼差しが強く感じられたのが特に印象的だった。中でも沼尻竜典指揮の東京フィルハーモニー交響楽団によって初演された「80ブレス〜〜」は、80人の演奏者の呼吸がさまざまな形で音を発しながら繋がりあい、あるいは感化しあいながらスピリチュアルな波長を生みつつ、高まっていく音のドラマを現出させていて感銘をおぼえた。
ところで、このフェスティヴァル期間中に一つの問題が起こった。このイベントを論評すること以上に大きな問題といっていいかもしれない。それは間違いなく、ある事件がこのフェスティヴァルに投じた一つの波紋といってよいが、音楽家と音楽家が生み出した作品との関係をあらためて考えさせる良い機会ともなった。
私がこの事件を知ったのは、8月21日付けの朝日新聞の夕刊に載った小さな記事を通してである。原文のまま引用すれば、「国立(くにたち)音楽大准教授で現代作曲家の夏田昌和容疑者(42)が覚せい剤取締法違反(所持)容疑で警視庁池袋署に現行犯逮捕されたことがわかった」とあり、「約3年前から自宅で使用していた。やめようと思っていたが、やめられなかった」という本人の供述で締めくくられていた。
昨今、俳優、ポップス界のミュージシャン、シンガーら芸能界における薬物汚染が、新聞をはじめとするジャーナリズムを賑わさない日はないといっていいくらい社会問題化している。深刻なのは薬物汚染の急速な広がりで、近年は主婦や一般の若者にまでこうした麻薬使用が蔓延している事態をもはや対岸の火事と考えるわけにはいかない。ただし今回、ここで問題にするのは薬物問題そのものではなく、夏田昌和が麻薬所持容疑で逮捕された事件の生んだ波紋の方である。
夏田昌和は現代音楽分野の作曲家として、権代敦彦や伊佐治直らとともに顕著な活躍を繰り広げているばかりでなく、作品の受賞や入選も数多く斯界の大きな期待を集めている人。彼はパリ国立高等音楽院を首席で卒業した人だが、秀才にありがちな理論に先走った伶俐一辺倒の音楽とは一線を画すヒューマンな皮膚感覚をきらめかせたり、ウィットに富む音の交歓や協和的なソノリティーをもサウンドから噴出させたり、といったある種の親しみやすさに私も惹き付けられるところがあって注目していた。その夏田が芥川作曲賞創設20周年に当たる今年の同賞選考委員の1人に有能な若手を代表する形で選ばれ、記念のガラ・コンサート<管弦楽>では2004年の委嘱作品「オーケストラのための・重力波・」が、<室内楽>では「ヴァイオリン・ソロのための・先史時代の歌1・ 」が再演されることになった。初演を聴き損なった手前、何はおいてもこの再演は聴き逃せないと思ったのは決して嘘ではない。実は、スティーヴ・ライヒの優れた理解者として彼の作品(題名は失念した)の指揮をしたコンサート(トリフォニー小ホール)や、今年の1月に行われた日本音楽集団の定期公演(津田ホール)で初演された委嘱作品「啓蟄の音〜二十絃箏ソロと四面の箏のための〜」(二十絃箏:吉村七重)から受けた強い印象から、個人的な興味から言ってもこのガラ・コンサートへの期待はすこぶる大きかったのだ。
ところが、当日(8月27日)、期待した夏田昌和作品はついにというべきか、案の定というべきかプログラムから削られ、演奏されなかった。釈然としない思いを抱いたのは私1人だけではなかったに違いない。ちなみに当夜は、三輪真弘、山本裕之、江村哲二らサントリー芸術財団が過去に委嘱した作品が演奏された(秋山和慶と東京交響楽団)のだが、夏田の作品が消えた分だけコンサートは予定より早く終わった。早い話が、夏田の作品を聴きに行って、それを聴けずに会場を後にする何ともいえぬ虚しさと、一方で財団が一方的に夏田作品の排除を決定したことへのやるせなさ、苛立たしさ。
作品とは、この場合に限定していえば、作曲家の芸術的創造行為の結果として生み出されたものだ。そこでは作曲家は親であり、作品はその親が生んだ子供といってよい。芸術においては、親から生み出された子供(作品)は、いったん世に出てしまえば一個の自立した存在であって、今回の事件のように作曲家である親の不祥事によって子供である作品が責任をとらされる類のことは本来ならあるべきことではない。27日のコンサートに戻っていえば、夏田の作品は演奏されてしかるべきだった。
この事件の影響は、翌々日(29日)の本選会でも顕著だった。主催者側が今年の芥川賞選考委員の1人に抜擢した夏田昌和を急きょ罷免したことには責められる筋合いはない。いかに才能があっても、麻薬所持容疑で逮捕された人間を頭抜けた才能ゆえに大目に見るようなことがもしあったら、芥川賞に傷がつくのみならず、財団や関係者が世間から大きな批判を浴びることは必定だっただろう。もしかすると、容疑を認めた夏田自身の方から辞退を申し入れたのかもしれないが。夏田に替わって選考委員となったのは、第3回芥川賞(1993年)に輝いた猿谷紀郎で、湯浅譲二、三枝成彰とともに審査と選考に当たった。候補作として最終選考に残った平川加恵、山根明季子、酒井健治の作品が渡邊一正指揮の新日本フィルハーモニー交響楽団によって演奏され、公開審査の結果、山根明季子の作品が選ばれたが、第一次選考には夏田も名を列ねていたことで、それが影響したのかもしれないと思いたくなるほど陰鬱な雰囲気が漂う中での今年の芥川賞選考演奏会だった。最後に感想を求められた湯浅譲二は言った。ガラ・コンサートでは問題を起こした作曲家の作品がプログラムから外されたが、演奏されるべきだった。なぜなら、作曲家と作品は親子の間柄だが、作品はすでに親のもとから独立したものであるからだ、と。私の思いと同じで、意を強くした。作品が親を選んで生まれてくるわけにはいかない。にもかかわらず責任だけを子供に負わす、そうした形の今回の措置については、話題のハーバード大学マイケル・サンデル教授流にいえば「正義はどちらにあるのか」と議論を戦わせるぐらいの丁々発止があっても面白いのではないだろうか。
重ねて断っておくが、サントリー芸術財団を非難する目的で、この問題を俎上にのせたわけではない。不祥事を起こした音楽家が責められるのは致し方ないが、その作品までが巻き添えを食うのは筋が違うと言いたいのだ。作品は親を選んで生まれてくることはできない。夏田昌和の作品も夏田を選んで誕生したわけではない。
ジャズの歴史的に有名な例を引いてみる。デューク・エリントンは56年に『ヒストリカリー・スピーキング』(ベツレヘム)という1作を吹き込んだ。この中に「コ・コ」がある。「コ・コ」はエリントン楽団絶頂期の1940年春に吹き込まれた名演のひとつ。1958年、フランスの批評家アンドレ・オデールは、再演された「コ・コ」を、<ジャズ・オーケストラのために、本当の意味で“作曲された”史上最初の音楽の、そのすべての美点が失われた極悪なカリカチュア>だとして、あえて愚挙を犯したエリントンに批判の矛先を向け、切々といさめ、忠告した。これに対してエリントンが反論したことはいうまでもない(油井正一著「ジャズの歴史物語」参照)。
「コ・コ」はむろんエリントンの子供だ。だが、公になった以上「コ・コ」はエリントンの元を離れ、ある種の人格を持つ公的作品としての存在になったことになる。オデールがオリジナル演奏を髪ひとすじの狂いもないテンポでオーケストラに全能力を発揮させた大傑作と称えたのに対し、再演版を取り返しのつかぬ失敗作とこき下ろしたのも、ひとえに「コ・コ」という作品が親のもとを離れ、親とは別種の人格を持つ存在(子供)となったからに他ならない。いったん公表された作品は社会的には親から離れた存在となって、それゆえ自由な意見をたたかわせ、批判することも許されるのだ。
そういえば、今月の初めに、「塀の仲の懲りない面々」で一躍作家へと転身した安部譲二が半生を振り返った記者とのやりとりの中で、こんなエピソードを披露していた。師匠格の山本夏彦に従ってある文壇バーへ行ったとき、「山本夏彦ともあろう人があんなゴロツキを弟子にして」という文壇内部のうるさい声に参っていたとき、師匠がね、「私は安部譲二の文章を見て、前科は見ない」、と。そりゃあ、やっぱり感激するよ(9月2日付け朝日新聞夕刊より抜粋)。安倍さんとは一面識しかないが、きっと私の肩をもってくれるだろう。(2010年9月16日)
悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。
追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley
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#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣
:
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi
#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報
シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻
音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美
カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子
及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)
オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美
ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)
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#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義
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#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄
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