# 082
Chico Hamilton| |チコ・ハミルトン
ドラムス/バンドリーダー/コンポーザー
Location: The Hampton Inn - Camden Yards, Baltimore MD USA
Date: May 15th 2010
Interviewed by Nobu Stowe
Photos by Riecco
チコ・ハミルトン(1921年9月21日、ロス・アンジェルス生まれ)は、ライブレポート(www.jazztokyo.com/live_report/report264.html)に記したように、自身のグループ“Euphoria”を率い、バルチモアの“An die Musik”で公演を行った。マネジャーのジェフリー・キャディック氏の協力を得て、コンサート当日の昼時、滞在するホテルでインタビューを実現できた。
♪ 16歳の時にトラでエリントン楽団でドラムを叩いた
Nobu Stowe (NS):ジャズやドラムに興味を持ったきっかけは?
Chico Hamilton (CH):11歳の時に(1932年)デューク・エリントンのオーケストラが、ロサンジェルスに公演に来た。両親に連れられて観に行ったのさ。当時バンドのドラマーだった、ソニー・グリアーの演奏に、勿論、彼のドラムセットに深い感銘を受けたよ。輝かしい城が聳え立っている様に見えたんだ。触発されて、ジャズ・ドラムを始めた。
16歳になった時(1937年)エリントン楽団が、ロスにまた公演に来た。現地に来てから、ソニーが、病気になったので、代役を務めることになった。私は、すでに当時ロスで、ちょっとは鳴らしたドラマーだったんだ。憧れのデュークと共演できて、ジャズで生きて行く決心がさらに固まったよ。
デュークの後、(カウント)ベイシー・オーケストラや、スリム&スラム、Tボーン・ウォーカー他と共演したよ。
昔のような“ビッグ・バンド”は、もう存在しない。これは、大変残念なことだよ。ビッグ・バンドで他のミュージシャンと巡演しながら得られる経験は、ジャズの本質を学ぶ上で、とくに若いミュージシャンにとって、大変有意義だったからさ。現在でも“ビッグ・バンド”は、音楽院等に存在しているが、それはかつてのように、巡演生活を共にする“共同体”では、ない。ジャズは“生きる”ことによって、その真価を学ぶことができるんだ。
♪ レナ・ホーンのバンドには8年いた
NS:最近、歌手のレナ・ホーンが亡くなりました。彼女の思い出は?
CH:彼女のグループに加わったのは、1940年代末のことだ。ある日のこと、当時レナのマネージャーだった、ルーサー・ヘンダーソンにオーディションに誘われた。レナが、私を「自分のバンドのドラマーに考えている」との話だった。本当のことを話すと“レナ・ホーン”なんて、聞いたことのない歌手だった。
オーディション会場には、他のメンバー達も集まっていて“リハーサル”をするように指示された。演奏を開始したが、レナらしい人は、いない。唯一、入ってきた人は、画家みたいな格好をした白人男性だった。リハーサルが終わり、家に帰ったが、オーディションに合格したか、否か、分からずじまいだった
2‐3日程して、ルーサーから電話があった。レナのギグに出てくれとのことだった。会場について初めてレナに会った。そこで、オーディション会場に現れた画家のような男が、レナの旦那のレニー・ヘイトンと知った。レナのグループには、その後、8年間在籍した。
在籍中にビリー・ストレイホーンp/compや(後にオリジナル=ジェリー・マリガン4に参加する)ボブ・ウィントックbや(後にオリジナル=チコ・ハミルトン5に参加する)フレッド・カッツcelloに知り合う機会を得たよ。
レナとレニーには、沢山のことを教わったよ。作曲の手ほどき、ショー・ビジネスの世界の世渡り術、チェス、ロブスターの食べ方、コニャックの飲み方まで。ブラッシュの使い方もレナやその他の歌手の伴奏を手がけるうちに、自然とマスターすることができた。(注1)
注1:チコは、レナ・ホーンの他、ビリー・ホリデイやトニー・ベネット等の歌手と共演歴がある。
NS:最近でも、レナと親交があったのですか?
CH:90年代位まで、たびたび彼女と共演する機会があったし、結構親しくしていた。だが、最近、音信が途絶えていた。ここ10年程の間、何回か彼女に電話した。何時もメッセージを残したんだが、レナは、一度も電話してきてくれなかった。だから、自分も電話しなくなった。
♪ マリガン・バンドのハミングの主は私だ
NS:オリジナル=ジェリー・マリガン4加入(1952年)の経緯は?(注2)
注2:チコは、1952−53年にかけ、この画期的なピアノレス・コンボで、歴史的な名演奏〈フラネシ〉、〈バーニーズ・チューン〉、〈落ち葉の子守唄〉他を録音。“ウェスト・コースト・ジャズ”の代名詞的なレーベル=Pacific Jazz よりリリースされた。
CH:ジェリーbsが、ロスにやって来た頃、主に、チャーリー・バーネットsax楽団でドラムを叩いていた。ジェリーは、よくクラブに顔を出しに来ていた。引越しして来たばかりで、仕事が無く、お金も無い様子だった。だから、飲み物とか、おごってやった。そうして、彼と仲が良くなったんだ。ジェリーは、本当に困窮していたから、よく自分の家に連れてきて、料理を食べさせたよ。
ジェリーが「チェット・ベイカーという、なかなか良いトランペッターがいるから一緒にバンドを組まないか?」と誘ってきた。「もちろん!」と答えたよ。私の提案で、ベースをボブ・ウィットロックに任せることにした。リハーサル場が必要だったが、ジェリーにはそんな余裕がなかったから、自宅のリビングを提供したよ。(注3)
余り知られていないが、オリジナル=ジェリー・マリガン4のレコーディングで、ハミングしているのは、この私さ。ジェリーとかチェットの仕業と一般には思われているけどね。(注4)
注3:チコとジェリー・マリガンの最初の録音は、Pacific Jazz レコードのオーナー=リチャード・ボック監修で、1952年6月10日に行われたレッド・ミッチェルを含むトリオでの演奏。マリガンは、約1ヶ月後の7月9日にチェット・ベイカーと初録音をしている。これは、チコ抜きで、ジミー・ロールズとジョー・モンドラゴンが加わったクァルテット。最初の“オリジナル=ジェリー・マリガン4”(マリガン/チェット/ボブ・ウィットロック/チコ)としての録音は、1952年8月16日に行われたセッション。〈バーニーズ・チューン〉、〈落ち葉の子守唄〉と〈アター・カオスNo.1〉を録音。〈バーニーズ・チューン〉と〈落ち葉の子守唄〉は、最初のシングルとして、1952年秋、Pacific Jazzより発売。30秒弱の〈アター・カオスNo.1〉は、即興演奏か?その後、同メンバーで、9月2日にサンフランシスコのクラブ “ブラックホーク”で〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉他をライブ録音、10月15−16日に〈フラネシ〉他6曲をロスでスタジオ録音。ベースが、カーソン・スミスに代わり、1953年1月初旬に2回(スタジオと本拠地だったロスのクラブ“ザ・ヘイグ”でのライブ)録音している。しかし、2週間程後の、1月25日に録音されたセッションでは、ラリー・バンカーがチコに代わり、ドラムを担当している。因みに、“オリジナル・クァルテット”での、マリガンとチェットの最終録音は、1953年5月20日に、“ザ・ヘイグ”で録音されたセッション。ジャズ史上に残る、この名コンボの活動期間が、1年未満という事実に驚かされる。
注4:手持ちの音源を確認してみたが、チコの“ハミング”は確認できなかった。
NS:オリジナル=チコ・ハミルトン5結成(1955年)の経緯は?
CH:ジェリーのクァルテット結成と同じように、私のクインテットは、共通の目的意思を共有した5人の音楽家が「丁度良いタイミングで、同じ場所にいた」という単純な事実で、結成されたのさ。
しばらく前から、バディー・コレットreeds/flの才能をフィーチャーしたバンド結成を考えていたんだ。バディーの他に、フレンチホルン奏者を加入させる心づもりだった。でも、丁度良いフレンチホルン奏者がいなくて、個人的に尊敬していたチェロ奏者のフレッド・カッツに加入してもらうことになった。ギター奏者には、最初、ハワード・ロバーツを考えていたんだ。ハワードは、私のリーダー・デビュー作『チコ・ハミルトン・トリオ』(Pacific Jazz:1955年)で素晴らしいプレイを披露してくれていたからね。だけど、ハワードは忙しく、代わりにオハイオから出てきたばかりの若手ギタリストを紹介してくれた。それが、ジム・ホールさ。私のフェイバリット・ベース奏者で、ハワードと同じくリーダー・デビュー作で共演したジョージ・デュビビエを考えていたんだが、あいにく都合がつかなかった。それで、ジェリーのクインテットで一緒にプレイしたカーソン・スミスに入ってもらったんだ。
NS:オリジナル・クインテットは、1980年代後半に再結成し、イタリアのSoul Noteレーベルより『リユニオン』(1989年)というアルバムを発表していますね。
CH:その再結成は、(イタリアの)ヴェローナ・ジャズ・フェスティバルの要請で実現したものだ。ジム(ホール)の都合が合わなかったので、クインテットの2代目ギタリスト=ジョン・ピサノが、代役を務めた。だが『リユニオン』は、完全な失敗作さ。ノスタルジーの産物さ。30年以上前の“マジック”を取り戻すことなんて、誰にもできやしないよ。(注5)
注5:『リユニオン』は、筆者が個人的に好きなアルバム。
NS:では、オリジナル=チコ・ハミルトン5結成の意思はないということですね。
CH:そうさ。
NS:でも、かつてのメンバーと今でも交友はあるのですか?
CH:あるよ。でも、バディーは、数年前に脳卒中を患い、あまり調子が良くないんだ。残念だが、もう彼にはホーンを吹くことはできない。知っての通り、ジムはまだ元気にプレイしている。フレッドも、まだ現役のはずさ。残念なことに、カーソンは1997年に亡くなってしまった...。
NS:クインテットの歴史的デビュー作『チコ・ハミルトン・クインテット』(Pacific Jazz:1955年)には〈フリー・フォーム〉と言う即興曲が収録されています。前述の『リユニオン』にも、3曲の即興曲が収録されています。レニー・トリースターノpが、リー・コニッツasやウォーン・マーシュtsと組んで、同趣旨の演奏〈インチュイション〉と〈ディグレッション〉を1949年にすでに録音していますが、いわゆる「フリー・インプロヴィゼーション」が、盛んに演奏されるようになるのは1960年代以降です。どのような経緯で純粋な即興を演奏するようになったのですか?(注6)
注6:トリスターノ一派による録音(1949年)と、チコのクインテット録音(1955年)の間に、シェリー・マンが、ショーティー・ロジャース、ジミー・ジェフリーとのトリオで〈アブストラクトNo.1〉と言う即興演奏を、1954年に録音している。これは、マンのアルバム『The Three & The Two』(Contemporary)に収録。因みに、ジャズに於ける“楽譜に基づかない即興演奏”は、前述のトリスターノ一派による録音(1949年)が最初、というのが通説。しかし、天才ギタリスト=ジャンゴ・ラインハルトによる〈インプロヴィゼーション〉と題されたソロ演奏が、既に1930年台に、録音されている。
CH:大それた意味は、何もないよ。私のグループではこの手の実験を良くしていたんだ。5人のミュージシャンが事前の取り決め無しで、お互いの出す音を良く聞き入り、対応しながら演奏する。ただ、それだけのことさ。
NS:同じく『チコ・ハミルトン・クィンテット』収録のバディー・コレット作〈ブルーサンズ〉は、日本で人気ジャズ・ラジオ番組のテーマ曲として使われていたこともあり、大変人気のある曲です。(注7)僕にとっては、エリック・ドルフィー参加の、1958年=ニューポート・ジャズ祭での演奏が印象に残っています。(注8)。しかし、今までの、お話を伺うと、もうこの曲を演奏する機会はないようですね...。
注7:〈ブルーサンズ〉は、ラジオ関東(現ラジオ日本)の深夜番組「ミッド・ナイト・ジャズ」長年のテーマ曲。
注8:ドキュメンタリー映画『真夏の夜のジャズ』(1960年:バート・スターン監督作品)に収録。
CH:ないだろうね。だが“マレット”でドラムを、今でも、時々叩いているよ。
♪ ドルフィーは弟の友達だった
NS:エリック・ドルフィーreeds/flとの出会いは?(注9)
注9:ドルフィー参加の、チコの作品は、前述のドキュメンタリー映画『真夏の夜のジャズ』の他『ゴングズ・イースト!』(Discovery:1959年)、『ウィズ・ストリングス・アタッチト』(1959年)の他、1958年に録音されたが、2000年に発掘リリースされた『ザ・オリジナル・エリントン組曲』(Blue Note)等がある。
CH:クインテットの2代目ホーン奏者=ポール・ホーンがグループを抜けることになって、新たなマルチ・リード奏者を探す必要があった。エリックは私の弟=バーニーの友達で、弟から彼のプレイは無論、人柄についても沢山良いことを聞かされていた。だから、エリックにグループ加入を要請するのは、自然の成り行きだったのさ。
NS:室内楽的なジャズを志向したチェロ奏者入りのクインテット解散の後、チコさんのグループの音楽性は、ハードなスイング感を前面に出しながら、演奏の自由度を重視したスタイルに変わりました。その理由は?
CH:ロック音楽の台頭が、理由の一つさ。商業的理由というより、もっとエネルギッシュなリズムを音楽に取り入れたかったのさ。敢えて言わせてもらえば、マイルス(デイヴィス)は私に影響を受け、ロックやファンクのリズムを自分の音楽に反映しだしたのさ。これは、本当の話さ。マイルスとは、1950年代以来の良い友達だった。マイルスは、私のグループのギグに良く顔を出していたからね。
STAXレーベルから発表した『ザ・マスター』(1973年)というアルバムを知っているかい?強烈にファンキーなやつさ。個人的にもっとも気に入っている作品の一つだよ。
NS:知っていますが、まだ音を聞いたことはありません。チェックしてみます。質問に戻りますが、グループの音楽的変遷は、チャールス・ロイドts、ガボール・サボg、ラリー・コリエルgといった“サイド・マン”の個性を「反映した部分も多いのでは?」と思っていますが...?
CH:勿論そうさ。基本的な音楽性は私の意向だが、チャールスやガボールの存在なくして、成し遂げられなかったことさ。(注10)
注10:ロイド/サボ在籍時のアルバムは『マン・フローム・ザ・トゥー・ワールズ』(Impulse!:1962年)や『パッシング・スルー』(Impulse!:1963年)他の作品がある。コリエルは『ザ・ディーラー』(Impulse!:1966年)に参加。
NS:ガボールに出会った経緯は?
CH:ニューポート・ジャズ・フェスティバルでのことさ。私が“発見”したんじゃない。ガボールが私にアプローチしてきたんだ。彼は、素晴らしい個性の持ち主だった。ソロも良いが、特に彼のリズム感は最高だった。
♪ 「ユーフォリア」は20年以上続いているバンドだ
NS:現在まで続いているグループ“Euphoria”結成の経緯は?
CH:80年代より、私のマネージャーを務めてくれているジェフリー(キャディック)の提案によるものさ。1988年に、最初のアルバム『ユーホリア』(Swallow Records)を発表したよ。(注11)
注11:キャディック氏は、チコの85歳誕生日を祝うために、Joyous Shoutレコードを設立。2006年に『Believe』、『Heritage』、『Juniflip』と『6th Avenue Romp』と4作品を一挙にリリース。その後も『It's About Time!』、新作の『Twelve Tones of Love』の他、未発録音であった、アンドリュー・ヒルとのデュオ『Dreams Come True』や『Trio! Live@Artpark』等を精力的に発表してきている。詳しくは:www.joyousshout.com
NS:現在のグループに比べ、オリジナル・メンバーのエリック・パーソンasやカリー・デ・ニグリスg在籍時の“Euphoria”は、前衛/フリー・ジャズまで視野に入れた音楽性を持っていました。その理由は?(注12)
注12:パーソン/デ・ニグリス在籍時のアルバムには『Arroyo』(Soul Note:1990年)、『Trio!』(Soul Note:1992年)、エリック・ドルフィーに捧げた『My Panamanian Friend』(Soul Note:1992年)他の作品がある。
CH:エリックの個性を反映したことが大きいと思う。エリックは、ともかく“ブロー”するのが好きなんだ。1曲が45分にも及ぶ演奏を良くライブでしたよ。無論、私自身が、自由度の高い音楽を志向した結果でもあるけどね。
NS:去年(2008年)発表の、新作のタイトルは『Twelve Tones of Love』(Joyous Shout)です。『12音の愛』の意味は?
CH:1つの音階にある音の数は?
NS:12です。そういうことですか?
CH:そうさ。
NS:最初タイトルを見た時、ショーンベルグの12音階法を想起し、前衛的な音楽を想像しましたが、アルバムの音(メーンストリーム系)を聞いた今、納得出来る答えです
♪ ポランスキー監督との「奇妙な話」
チコさんは、映画音楽も手がけてこられていますが、そのキッカケは?
CH:頼まれたからさ。
NS:ロマン・ポランスキー監督の『反撥』(Repulsion:1964年度作品、カトリーヌ・ドヌーブ主演)の音楽を担当していますね。その経緯は?
CH:ロンドンに長期公演に行った折り紹介されたんだ。ロマンは、現地で、ちょうど『反撥』の撮影を行っていた。彼は、ジャズに強い興味があり、音楽担当の依頼を受けた。
ロマンは、音楽家にとって「最高の映画監督」さ。大抵の監督は、自分が“作曲家”になりたがるものだ。色々な注文を出すのが、常さ。だが、ロマンは最大限の自由を、作曲家である私に与えてくれた。信頼してくれたんだ。だから、創造力を多いに発揮することができたよ。
NS:それ以降、ポランスキー監督とは?
CH:その質問については「奇妙な話」をしよう。『反撥』の撮影から1年程して、ロマンから「今、ロスで映画の撮影をしているから、合流できないか?」と連絡が入った。生憎、ニューヨークで長期公演中だったので「少し待ってくれ」と返事せざるえなかった。その間に、あの忌まわしい事件が起こってしまったんだ。“マンソン・ファミリー”(チャールズ・マンソン率いるカルト集団の俗称)に、彼の妻=シャロン・テートが、妊娠していたロマンの子と共に惨殺されてしまった。その後の進展は、皆が良く知っている話さ。
NS:常に、ピアニストではなく、ギター奏者をグループに起用していますね。その理由は?
CH:ギターは、音をサステイン(伸ばす)事ができる。ピアノは、できない。それが理由さ。ピアノは音楽を“ロック”(固定)してしまう傾向がある。無論、ピアニストによるが、大抵のピアニストは音楽を“分断”してしまう。
NS: “チコ”は、スペイン語で“若者”の意味ですが、どうしてそれがニックネームに?
CH:私の母親がメキシコ系なのさ。それに、私のファーストネーム“Foreststorn”を発音できるかい?
NS:ちょっと無理です。
CH:そうだろう。それも、理由さ。
NS:若さの秘訣は?
CH:音楽と、ジェフリーのような「素晴らしい友達」を持つことさ。
追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley
:
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣
:
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi
#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報
シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻
音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美
カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子
及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)
オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美
ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)
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#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義
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#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
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