#  308

コンスタンチン・リフシッツ ピアノリサイタル
2010年12月24日(金) @東京文化会館小ホール
reported by 伏谷佳代 (Kayo Fushiya) photo by 林 喜代種 (Kiyotane Hayashi)

≪プログラム≫
前奏曲とフーガ 変ホ長調BWV552「聖アンのフーガ」
ゴルトベルク変奏曲BWV988

現在ロンドンを拠点とするコンスタンチン・リフシッツ(Konstantin Lifschitz)は、1976年ウクライナのハリコフ生まれ。5歳でグネーシン特別音楽学校に入学、13歳にしてモスクワ音楽院でリサイタルを行い、このときのライヴ音源が1995年ドイツ・エコー・クラシック最優秀新人賞を受賞。1994年には同音楽学校の卒業演奏にバッハの『ゴルトベルク変奏曲』を選曲、その録音がアメリカでグラミー賞にノミネートされたことで一躍注目されるに至った。たった17歳の青年ピアニストが卒業演奏に選ぶ曲ではない。すでに第一線で活躍するピアニストですら録音するのを躊躇せずにはおれない破格の大曲なのだ。そう、初来日も1991年に果たしているし、クレーメルやマイスキー、ロストロポーヴィチらビックネームと次々に共演してその実力を見せつけてきたにも関わらず、リフシッツにはいつも背後に『ゴルトベルク変奏曲』の影が纏(まつ)わりついていると言ってよい。この曲でデビューしてしまった者の宿命。同じく『ゴルトベルク〜』でデビューし、その執念ともいえる再録に晩年を賭したグレン・グールドの金字塔。グールドの演奏との比較、それを乗り越えられるか、という厳しい評価軸に絶えずさらされる過酷な運命を背負ってしまったのだ。もはやライフワークとして、ピアニスト人生の節目ごとにそれを提示し続けることを聴衆に期待されているようなものだろう。果たして現在35歳のリフシッツ、18歳のデビュー時のような瑞々しく素直な抒情性の発露は鳴りを潜め、さらに一歩進んでこの大曲作曲当時の時代性をも黙々と「現在の楽器」で再現しようとする理知的なアプローチが随所で見て取れた。好ましいのは、現時点での自らの解釈を虚飾なくストレートに投影しようとする誠実な姿であり、それが作品への最大のリスペクトとして映り得ているということである。

大曲へ至る序章として奏されたのは『前奏曲とフーガ』BWV552。バッハの同名作品のうち最後の一曲であり、バッハ独特の高度に練られた対位法技法が宗教的ともいえる崇高な曲想として結実している作品である。リフシッツの演奏は自己の解釈云々よりも、作品自体の屋台骨を大胆に浮き彫りにするというもの。音の意味づけは、楽器自体の自律性に任せるといったところか。「前奏曲」は豪胆な強弱づけと、太く明朗に謳い上げる姿がせせこましくなく気持ちが良い。サスティンとダンパーのペダルの使い分けもかなり明確になされ、そのあからさまな度合が逆に楽器構造そのものへと聴衆の意識を向かわせる。もとはオルガンの為に書かれた曲であることを無意識裡に浮かび上がらせるのだ。打鍵もかなり腕全体をたわませる、通常とは異なるもので、やはり彼の意識は単なる「88鍵上」を超えたところに置かれていることが窺える。一(ひと)押しによる音以上の複合要素によって初めて語りうる見事な作曲構造。曲が楽器のキャパシティを超えている(或いは、不一致がある)場合にこそ試される奏者の創意/ナラティヴ力。続く「フーガ」では対照的に、単音のはじきだす素朴な美しさでスタート。打鍵されてから一瞬遅れて立ち昇る密やかなニュアンスのざわめき。一音が含み持つ潜在力を様々な角度から照らし出す卓越した能力は、リフシッツの美質の筆頭に挙げられよう。ここでは楽曲の主に三層に折り重なった構造を、調性自身に付随する音色と「リフシッツ独自の音色」とを絶妙に共生・交錯させることにより鮮やかに描き切っていた。

さて、『ゴルトベルク変奏曲』である。原題は『Aria mit verschiedenen Veraenderungen』(アリアと多種多様な変奏)であり、当時不眠症に悩まされていたカイザーリンク伯爵の眠れぬ夜への慰めとして作曲されたものだというが、このような果てることのない不朽の論理性を30変奏以上も展開された夜には一睡もできぬことは疑いない。「アリア」といえども、中途半端に眠らせるより心地よく覚醒させるのを意図していたのだろう。さておき、その長大さから生演奏では演出に難儀する。グールドのような「録音派」とは訳が違うのだ。大抵15変奏ごとに前半/後半に分けて奏されることが多いが、リフシッツは休憩を入れずに一気に弾き上げた。その代わりといっては何だが、各変奏の間の間合いでは、必要ならば次へ至る集中力を高められるまで心ゆくまで休止する。昨今よく見られるような「曲間までが構造の一部」的な美学偏重のアプローチではなく、その都度体当たりの真摯さが潔い。小賢しく全体のパースペクティヴを取ろうとするのではなく、瞬間ごとに自己の集中力を最大限に行使することが結果として自然で大きなまとまりを生んでいる。先の『前奏曲とフーガ』で見せたリフシッツの美質、打鍵の妙が生む音色のニュアンスの豊富さがここでもあますところなく展開された。鍵が押されてから音となるまでの、ごく一瞬に生じる黙祷にも似た崇高さ。それが風のように揺らぐ香気。他の追随を許さぬ点だろう。対照的に、時に鳴らし過ぎとも思えるほどの堅固なハンマー音、極端な右手と左手の強弱対比、一連の左手パッセージを意図的に(?)不透明に処理したり等、作曲当時の「二段式鍵盤」を視野に入れての男性的で大胆なアプローチも新鮮だった。ただ、音の弱/強と柔/硬のバランスにおいて、これほどの大曲になると細部まで御しきることは不可能で、ときに混沌とした印象を残してしまった点は否めまい。

曲との終わりなき戦い。食うか食われるかではなく、曲の偉大さに埋没しつつも、そこにいかんとも消し難いインパクトで奏者の姿が浮かび上がって来るときはいつか。奏者自らの納得度と聴衆の感銘度との近似値。リフシッツはグールドの偉業を塗り替える可能性を十二分に有しているといえるだろう(*文中敬称略)。





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