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マリインスキー・オペラ2011年日本公演 『トロイアの人々』
2011年2月14日 @サントリーホール
Reported by 佐伯ふみ Photo by 林喜代種

台本・作曲:エクトル・ベルリオーズ

マリインスキー劇場管弦楽団+合唱団
指揮:ワレリー・ゲルギエフ
合唱指揮:アンドレイ・ペトレンコ

【主要キャスト】
エネ:セルゲイ・セミシュクール
カサンドル:ムラーダ・フドレイ
ディドン:エカテリーナ・セメンチュク
アンナ:ズラータ・ブリチョーワ
コレーブ:アレクセイ・マールコフ

ベルリオーズの大作オペラ『トロイアの人々』を聴いた。
演奏会形式ではあるが、日本初演という、それでなくとも貴重な上演を、ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団+合唱団という、いま望みうる最高の演奏で聴くことができたのは、大変幸せなことだった。
東京では珍しい雪の夜、22時30分という遅い終演にもかかわらず、多くの聴衆が立ち去りがたく客席に残り、スタンディング・オベーションで惜しみなく演奏者を称えていた。長く記憶に残るであろう、記念碑的な一夜だった。

『トロイアの人々』は1850年代の作品。長い上演時間や、登場人物の多さ、大規模な管弦楽と合唱という破格な構想ゆえに上演が難しく、舞台にのせることを夢見て作曲者は何度か改訂を重ねたものの、生前に全曲上演を見ることはかなわなかった。全曲通して初演されたのは、なんと作曲からほぼ100年後だったという。2003年のベルリオーズ生誕200年を機に、欧州ではリバイバルが盛んな作品だそうだ。

作品は大きく2部に分かれ、第1部(3幕4場)「トロイアの占領」では、トロイア王国の王女カッサンドラを主人公に、ギリシア軍による木馬の陥穽で滅亡したトロイアの悲劇を描く。有名な「トロイの木馬」の物語である。第2部(4幕6場)「カルタゴのトロイアの人々」はその後日談で、カルタゴ王国に漂着したトロイアの英雄エネ(アエネーアス)が、女王ディドンと相思相愛になりながらも、「イタリアへ行け」という神の声、戦死した亡霊たちの声に抗えず、カルタゴを去るまでを描く。
伝説ではこのエネがのちのローマ帝国の建国の祖となるのだから、彼はどうしてもイタリアに「行かねばならない」宿命を背負っているわけである。しかし愛するエネに去られた誇り高き女王ディドンは、宿命に殉じるというエネを理解できず、屈辱と絶望のなかで死を選ぶ。その悲劇をたっぷりと描くことで、のちにローマ帝国との数十年にわたる激烈な戦闘をへて滅亡していくカルタゴと、ローマとの因縁の対決はここに発端がある、と伝えているのだ。
西洋人の精神の故郷とも言えるホメロスの『オデュッセイア』、そしてウェルギリウスの『アエネーアス』を下敷きにしてベルリオーズ自身が台本を書きおろしたという、壮大な叙事詩。ベルリオーズの最高傑作というだけでなく、19世紀歌劇の最高峰とも評される作品だが、なるほどそうであろうと、実際の上演に接して、深く納得することができた。

核になる登場人物は、カッサンドラ(メゾ・ソプラノ)、その婚約者コレーブ(バリトン)、エネ(テノール)、ディドン(メゾ・ソプラノ)、その妹アンナ(アルト)の5人。だがほかにも、出番は少ないもののキイになる登場人物が多く、加えて大規模な管弦楽に合唱が必要となると、上演が困難であったこともうなずける。
この壮大な叙事詩を、ベルリオーズはなぜ、女性を主人公に描いたのだろう? しかも前半・後半ともにである。この2人の圧倒的な存在感の前では、英雄エネすら狂言回しに見えてくるほどだ。なぜあの時代にこの題材を選び、なぜこのような人物構成にしたのか、そのあたりをめぐるベルリオーズの思想や作劇法には非常に興味をそそられた。この上演は、ベルリオーズという作曲家の奥深さに眼を開かせてくれたという意味でも画期的と思う。

歌手陣で出色の存在感を示したのは、後半の主人公・女王ディドンを歌ったエカテリーナ・セメンチュクである。その声の質、声量、舞台上の立ち姿、ドラマの情景をまざまざと描きだしてみせる圧倒的な歌唱力。セメンチュクこそ、当夜の舞台を支配した女王であった。
建国の祝いに集まった国民を前にした堂々たる演説。夫亡きあと一人で懸命に国を率いてきた道のりを振り返る独白。「どなたかに恋をして再婚なされば」と慰める妹に対して見せる、少女のような恥じらい。エネとの甘い愛のささやき。イタリアに去ろうとするエネに対し疑心と信頼のあいだで揺れ動き、哀願までして引き留めようとする切ない恋情。ついには絶望のなかでエネを呪いつつ、ローマとカルタゴの宿命の対決を予言して死んでいく。
女王ディドンは、それらすべてをふさわしい表現で歌いわけねばならない難しい役柄だが、セメンチュクは終始一貫して女王の品格を失わず、しかも、弱さや孤独を抱えつつ真摯に生きる等身大の女性として、好感の持てるディドン像を描き出した。聴き手が彼女の心の動きに十分に納得しつつ、舞台上のドラマを共に生きられるような、卓越した人物造形力であったと思う。

もう一つ特筆すべきはやはり合唱であろう。あの爆発的な表現力、ここぞというときに見せる集中力は、いったいどこから来るのだろう? ほかでは聴けない圧倒的な迫力である。オーケストラと渾然一体、というよりも、オケと合唱が異質なパワーを保持したまま激突して、瞬間、火花が散るような、そんなクライマックスを何度も経験した。

ゲルギエフの劇的表現力は言わずもがな。目を閉じてオケの音楽だけ聴いていても、情景と心情の変化がありありと伝わってくる。いつもはオケピットの暗がりにいるゲルギエフが、歌手や合唱やオーケストラの個々のパートにどのような指示を送るのか、その指揮ぶりを逐一見ることができたのも興味深かった。
『トロイアの人々』は、上演時間が4時間半にも及ぶ大作と聞いていたが、当夜の上演は、20分の休憩を含めてもきっちり4時間。いささかマキをかけたとも言えるほど快調なアップテンポの指揮ぶりで、細部は荒いところも多々あったし、もう少し丁寧に楽譜を追ってみたらまた違う音楽が立ち現れてくるのでは、と感じるところもいろいろあった。しかし、間髪入れずの場面転換などは半ばあきれるほど鮮やか。オーケストラの面々も、よく随いてくるものである。
荒っぽさはあっても押さえるところはきっちり押さえ、決して「雑な音楽」という印象を与えない。ドラマの意味を十二分に伝え、確実にカタルシスをもたらしてくれるのが、ゲルギエフの魅力だろう。獅子奮迅の指揮ぶりを眺めつつ、その至芸を味わうのは、実に楽しかった。









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