#  326

諸戸詩乃ピアノ・リサイタル
2011年3月1日(火) @東京・浜離宮朝日ホール
Reported by 伏谷佳代 (Kayo Fushiya) Photos by 林喜代種 (Kiyotane Hayashi)

《プログラム》
モーツァルト:ソナタ第12番ヘ長調K332
シューベルト:ピアノソナタ第13番イ長調D.664
<休憩>
シューベルト:4つの即興曲D.899
リスト:『巡礼の年』第3年 S.163より
    第2曲「エステ荘の糸杉に寄せて〜哀歌」
    第4曲「エステ荘の噴水」
*アンコール
シューベルト:楽興の時 第6番D.780

2003年よりウィーンに居を定める諸戸詩乃は弱冠18歳、この日が日本での正式なリサイタル・デビューとなる。名古屋に生まれ4歳よりピアノを始め、10歳でウィーンに渡ってからは名教師エリザベート・ドヴォラック=ヴァイスハールに師事。15歳のとき史上最年少でウィーン国立音楽大学へ飛び級入学。ピアノ教育界の世界的権威であるハンス・ライグラフや、ヤン・イラチェック・フォン・アルニンにも薫陶を受けている。ウィーンではウィーン芸術週間に招聘されるなど、順調に音楽活動を続けているという。日本においては2007年に堤俊作指揮・ロイヤルチェンバーオーケストラと共演したほか、2009年にはカメラータ・トウキョゥからデビュー・アルバムをリリース、2011年2月にもシューベルトの新譜を出したばかりである。

清廉で、泉のように湧き出る音楽性。特筆すべきは音色の美しさである。太くクリアな芯を持ち、その周囲は甘やかな丸みで包まれている。純度の高いクリスタルのような響きを放つ一方で、鋭角的になりすぎない優美さをも併せ持つ。打鍵はいかにもウィーン流らしく、かっちりと深く降ろされる。プログラム全体を通して驚くほど精確だが、それが機械的には決して響かない。空気のように周囲に漂う掴みどころのない情緒、それが音楽の本質であるならば、見事に本質そのままのピアニストであるといえるだろう。その音楽は外界との間にへだたりを全く感じさせない。あまりにも自然に風土や情景、作曲家が生きていた時代背景がゆらりと現前する。極めて高い集中力によって到達しうる珠玉の世界ではあるのだが、水のように絶えず流れている澱(よど)みのなさで聴き手を包む。

冒頭に奏されたモーツァルトのソナタ。単音の珠がころころと転がるさまが印象的な作品だが、諸戸が持つ音楽性と音色の美質を堪能するにはうってつけの選曲。単音がとりわけ美しいピアニストであるだけに、シンプルな旋律のラインが伴奏部のあわいを縫って立ち現れるとき、ぱっと灯がともされるような華やかな衝撃をもたらす。叙情的でなめらかな伴奏部にハイライトの効いた単音が織り込まれるさまは、モーツァルト特有の安定感に不足すると捉えられかねない反面、儚さや移ろいといった成熟した側面をも照らしだす。同時にその凹凸感は、作曲された当時の未完の楽器状態への想像力も掻き立てる。たとえば一音一音をフォルテでくっきりと際立たせるようなマルカート的な打鍵は、ピアノのハンマー部分を意識させる。靄(もや)のなかから立ち現れ、綿菓子のように空気に溶けてゆくような、入(い)りと抜けの良いピアノ。音色の色彩は極めて豊富なだけに、奏者の成熟とともにさらなる陰翳が加味される時が待たれる。

呼吸することがそのまま音楽であるかのような諸戸のピアニズムとシューベルトは好相性のようである。ロマン派の作曲家であるがゆえ、一層制約から自由に、のびやかになっていると見受けられた。ベーゼンドルファーの鳴りも曲を追うごとに良くなっていく。通常、ロマン派の表現というと激情をそのままぶつけるアプローチが多いなか、諸戸の演奏はそういった急激なエネルギーのほとばしりとは趣を異にする。パッセージが低音部から高音部へ移行するときの自然に気分が高揚する部分でも、ことさらにクレッシェンドされることはない。むしろパッセージの基点となる音を中心として大きく孤を描くような、息の長いフレージング。基点がしっかりと鳴らされ、そこから響きは同心円状に広がってゆく。テクニック的にも無駄のない脱力がなされているようだ。そうした呼吸や身体コンディションと順応しきったナチュラルさは、ともすれば聴き手が期待する盛り上がりからすり抜けてしまい、少々肩すかしを食ったような気分になる人はいるかもしれない(とくに即興曲D90-2など)。しかし、シューベルトの醍醐味でもある、求心的に音楽が攻めてくるのではなく、気が付いたら周囲に音楽が満ち溢れていた、という「やわらかな音の共生」の世界は見事に具現していたといえるだろう。

同様に、日本人が期待してしまうリスト像と一線を画した演奏であったのが、ラストに奏された『巡礼の年』である。リストの作品のなかでもコンセプチュアルで思索的な側面が高いこの作品は、風景に着想を得て作曲されただけに印象派の先駆けともいえる絵画性に満ちる。晩年に近い時期の作品ということもあり、リストの演奏に付きものの「華麗なる技巧による突き抜けたクールさ」を要求するには、少々例外的な曲ともいえる。奏者の個性に拠るところが大きいが、リスト特有のテクニック的なヴィルチュオズィティは、「鳴らし洩れ」が全くない誠実な打鍵により実現される。いかなる微細な音であれ、小筆で極細のラインを引くように入念なニュアンスが施される。複数の要素の混濁から、クラリティを増して太い一本の柱が打ち立てられてゆくかのような音色の掘り下げ方に、うなる場面も多々あった。音で風景を描く行為とは、視覚的な輪郭を超えた深みから発するイメージの喚起力を、いかにダイレクトに持ちうるかである。そういった意味で、2曲目に奏した「エステ荘の噴水」は、諸戸の天性ともいえる透明な音色と、絶えず流動する叙情性豊かなピアニズムとが溶け合い、きらきらと噴出する水粒の輝きへと思いを至らせた。そこでは、さまざまな光彩が内部で屈折する、クリスタルのような透かし見感も健在であった。温かみと透徹が同居する。「リストらしいか」否かの先入観は抜きにして、リストが描こうとした「水というものの永続性」にじっと耳を澄ます。

アンコールは、2月末に他界した恩師のハンス・ライグラフへ捧げられた「楽興の時」。この曲が持つ、じりじりと骨身を削られるような焦燥感と諦念までを、あまりにも若い諸戸詩乃に期待するのは酷というものだろうが、静謐のなかにも個性的な和声をうまく響かせていたように思う。とくにフォルテになるときに、響きにより一層の立体性が欲しいような気もするが、これは歳月が解決するだろう。久々にじっくりとした研鑽型の、ピュアな個性を見た思い。今後の活躍が楽しみである(*文中敬称略)。





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