#  332

Kammerkonzert 2011〜ギドン・クレーメル・トリオ
2011年4月17日 @サントリーホール
Reported by 悠 雅彦 Photos by 林 喜代種

ギドン・クレーメル:violin
ギードゥレ・ディルバナウスカイテ:cello
ヴァレリー・アファナシェフ:piano

“苦難は高い精神性と内なる強さで克服できる”(クレーメル)

 重々しい沈黙がよどんだかのような空間に一条の光が差し込んだ。あたかも左上方から光が差し込むフェルメールの幾つかの絵画が瞬間的に脳裏に浮かぶ。それが瞬間的に、下手からステージに登場してきたギドン・クレーメルの姿と瞼の中でひとつに重なった。真っ白な長袖シャツに黒いヴェストという出で立ちの彼が、シュニトケの「ショスタコーヴィチ追悼の前奏曲」を弾きはじめたときだ。
 東日本大震災から1ヶ月余のこの夜。サントリー・ホールの館内は、氷が張った夜明けの湖面を思わせる張りつめた静寂に包まれているかのようで、雰囲気が重い。この1ヶ月、予定されていた海外演奏家や演奏団体のキャンセルが相次ぎ、その公演は軒並みといっていいくらい中止または延期に追い込まれた。おまけに、日ごろ文化活動の大切さを理解し、その一翼を力強く担ってきたと多くの人が認め、信頼してきた音楽関係者(団体)が、なぜか一斉に活動を自制した結果、国内の有力演奏家やオーケストラの定期的演奏会までが宙に消えてしまった。音楽界がこんなに萎縮してしまったら、被災者を勇気づけることはおろか、ましてやたとえほんのわずかでも音楽で彼らの冷えた心を温めることなどできるわけがない。東京の音楽界がこんなにおろおろと立ちすくんでしまったら、被災地の人々に元気を届けられないではないかと思った人が少なくないはずだ。
 そんなさ中にクレーメルはやってきた。彼が眩しく見えた。
 ピアニストは当初、クレーメルが最近結成したというトリオの、カティア・プニアティシヴィリと告知されていた。昨年8月に録音されたチャイコフスキーのピアノ三重奏曲で注目が集まるはずだったトリオのこのピアニストが、招聘側の変更プログラムによれば「東日本大震災の影響により変更」とあった。替わって帯同したのが奇才ヴァレリー・アファナシェフ。もしかすると、かつて戦慄的な経験を味わった私を含めてこの変更を歓迎する向きがあったかもしれない。彼がクレーメルと連れ立って来日したのは83年というから、もう28年も前。私が衝撃を体験をしたのは忘れもしない数年後の<東京の夏>音楽祭のことだった。そのアファナシェフが今回の災害に寄せた一編の詩がプログラムに掲載されている。

太平洋から500mほどの小さな丘
生き残った者は
死者を捜してさまよう
死者は日本の歴史
富士、北斎

老人は語った、そこらじゅう探したが
見つからなかったよ

死者はあまな(ね)く存在し
だれもが死者である
光源氏、バッハ、シェイクスピア
 (尾内達也 訳)

 災害のあらましを伝えた尾内氏のメールに、アファナシェフが返してきたという簡潔な詩。そこに日本を愛する奇才の沈痛な思いが浮遊する。
 第1部の最後に演奏されたブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番(ニ短調 op.108)でのクレーメルとアファナシェフの一分の隙もない音と音のぶつかり合い、それは音のキャンバスに両者のそのときの思いのいっさいのつまったソノリティ(音の波動)が結晶化していくようなスリル、とでもいうべき最良のコンビネーションを示してみせた。両者の情動が激突するさまは燃えさかる劫火を思わせるが、しかし私にはリングの中で汗と頭脳の結晶となって美化する、滅多に見られない芸術的ボクシングを心ゆくまで楽しむ気分に近かった。私の席からはちょうどクレーメルの陰になったアファナシェフの手だけが見える。特にメランコリックな幻想性が激越に熱狂化する3、4楽章での光景は、まるで森を自在に跳ね回る妖精の踊りを見ているようだった。もうこの時点では最初の重苦しい雰囲気は消え去って、いっさいの無駄も冗長さもない2人の真剣勝負にも似た密度の高い音の語らいに、大勢の聴衆を呑みこんだホール全体があたかも巨大な生命体のように弾んだエネルギーを発散するように高揚していた。
 みずからの録音テープと語り合うかのようなシュニトケ作品で、場内の異様な緊張を和らげていったクレーメルは、ヴァイオリン曲の最高峰と言っていい続くバッハの「シャコンヌ」(無伴奏パルティータ第2番ニ短調より)で、聴く者を捉えて放さない呪術的ともいえる演奏で沈鬱な空気を完全に一掃した。あたかも日記を書いているように自己と対話する前半が、中盤以降のクライマックスなどでは数人の役者が張り合う舞台を連想させる展開は、彼の今日の豊かな円熟の境地を示して余りあるほど美しくもドラマティックだ。日本のファンに寄せたメッセージの中で、彼は「バッハを聴けば、人は一人ではなく、いつも話しかけられる誰かがいます」と述べていた。
 このメッセージは彼が来日に当たって未曾有の震災に直面した日本の音楽ファンに寄せたものだ。その冒頭には「1975年以来私はその自然と文化と聴衆と永久が友人たちとに親愛の思いを寄せてきました。(中略)友情は私にとって最もかけがえのないものの一つです。もし友人が困っていれば、とにかく支えたい、手を貸そう、力になりたいと思うのです」とある。ほかの誰もが原発被害を恐れて来日を取りやめる中、むしろ彼は進んで来日したのだと思う。「音楽は測り知れないエネルギーの源」であることを、みずから示してみせたのがこの演奏会だったのだろう。
 休憩後の後半は、リトアニア生まれのチェロ奏者ディルバナウスカイテを迎えたデュエットで始まった。 曲は今年49歳というウクライナの女流作曲家ヴィクトリア・ポリェーヴァの「ガルフ・ストリーム」。バッハとグノーといえば「アヴェマリア」だが、シューベルトの同名作品の旋律が途中で雲のようにわき上がる曲自体は子守唄か、素朴な童歌のよう。バッハ、ブラームス、ショスタコーヴィチを中心に並べたプログラムの強い緊張感から聴衆をいっとき解放させようとの、クレーメルならではの気の配りだったのかもしれない。
 そして、そのショスタコーヴィチ。曲はピアノ三重奏曲第2番(ホ短調 op. 67)。アファナシェフが入ったトリオ演奏の超絶技巧を堪能しようと思えば、第2楽章の速いスケルツォ。ディルバナウスカイテを初めて目の当たりにしたが、覇気のある力強い弓使いながらこまやかな神経を常に行き届かせるユニークなチェロ奏者だった。クレーメルとアファナシェフの高度なアンサンブルにも、彼女の存在は微塵も見劣りしない。一転して第3楽章の「ラルゴ」。ショパンの”葬送風”前奏曲をに通じるエレジーでも、3者のコンビネーションはまったく揺るぎない。作曲家が第二次大戦終了間際に完成したこの作品は亡くなった親友の追悼作で、その悲しみの曲調はあたかも東日本大震災の大津波で亡くなった人々を悼むかのように迫る。クレーメルが震災の報に接した直後の選曲であるかのような錯覚さえ覚える。「ショスタコーヴィチと歩めば、苦難は高い精神性と内なる強さで克服できると分かります」というクレーメルのメッセージは、残された家族や友人、あるいは被災者を支えるために何かできることはないかと考えている私たちに向けられたものだ、と誰もが思ったのではないか。(2011年4月25日記)







WEB shoppingJT jungle tomato

FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


Copyright (C) 2004-2015 JAZZTOKYO.
ALL RIGHTS RESERVED.