#  363

作曲家の個展2011「三輪眞弘」
2011年10月2日(日) @東京・サントリーホール
Reported by:伏谷佳代(Kayo Fushiya)
Photos by:林喜代種(Kiyotane Hayashi)

三輪眞弘:
『村松ギヤ・エンジンによるボレロ』(2003)
『愛の讃歌〜ガムランアンサンブルのための』(2007)
『永遠の光・・オーケストラとCDプレーヤーのための』”Lux aeterna luceat eis, Machina” for orchestra and CD player(2011;サントリー芸術財団委嘱作品*)

指揮:野平一郎
管弦楽:東京都交響楽団
ガムランアンサンブル:マルガサリ
*世界初演

3・11が芸術にも否応なく突き付けたもの-----利便さの見直し、切実さの再考。作曲家たちも自らの音楽をよりタイトに追及するようになったようだ。三輪眞弘はその「中部電力芸術宣言」(2009年8月25日最終稿;2011年3月13日公開)のなかで、芸術としての音楽は人力、つまりアコースティックに固執してきたが、それは芸術から同時代性を奪い電気文明以前に束縛してしまった、としたうえで「音楽という単語が多くの現代人にとって意味するものは『ポップス』であって『現代音楽』ではない」という現実を指摘する。電気文明は当然に我々を取り囲む生活環境とし、そのなかで新たな創造の在り方を模索しよう、というスタンスである。この日の『個展』で演奏されたのは、この宣言が公開される以前の作品も含まれているので、もちろん三輪眞弘の音楽すべてを代弁するものではないのだが。確かに、現代音楽ファンよりはポップスファンの人口のほうが多いが、それはただの数の論理の現状でもあろう。到底受け止められない3・11のような悲劇に直面したとき、平時に慣れ親しんでいた電子音ポップスなどもう聴きたくないという人も出てくるだろうし、いきなり時代遅れで「小難しい」現代音楽に開眼する人も出てこないとは言えない。危機に際しては、音楽に救済要素を求める人が増えるのは自然の摂理で、「アコースティック」や「新しさ」の定義の問題はさておいて、音楽は何かしらの自分の琴線に触れるものであればその形態は問わない、というのが人々の実感である(だから「嗜好品」に堕するのだ、と言われれば返す言葉もないが)。大衆音楽としてのポップスを目指すなら、観点はそれが「現代音楽」の小難しさ云々ではなく、まずとっつきにくい「現代思想」的な語り口を脱却しなければいけないのでは、などともおもってしまう(長大なプログラム・ノートを読んでそういう葛藤は拭いきれない)。プレトークは敢えて拝聴しなかった。


『村松ギヤ・エンジンによるボレロ』(2003)

村松ギヤとは一体何?-----というのが第一感で、それだけでこの作品は注意を惹きつけるというか、人に思考を強いる。作曲者によれば村松ギヤとは、北海道の一部に棲息していた架空の民族「ギヤック族」が春の祭典に伝承的に奏してきた曲であるという。三輪眞弘が提唱する「逆シミュレーション音楽」、つまり「村松ギヤの生成規則は架空の民族芸能としてまず『解釈』され、次に西洋楽器の枠組みで『翻訳』された」(プログラム・ノートp.3)というコンセプトに沿っている。奏法上の特色としては、弦楽パートは18音音階を使ってのグリッサンドで、予めピッチを設定せず、「前に弾いたピッチから3分の1音以内で次のピッチを決める」という指定しか行わない。そのために、音の輪郭がどんどん曖昧になってゆく意識の攪拌効果をもたらす。確かにこの雪崩のような音のクラッシュは、聴いていて圧巻である。都響の弦パートは抜きんでて音の透明度が高いことと相まって、その崇高さを保ったままの歪みの波動は尚更に「やるせなさ」に満ちてくる。蝉が一斉に泣くかのように高みへと上昇してゆくさまは、なるほど三輪が仮想するところの、ギヤック族の「波動昇降」という音楽概念を忠実に具現化している。冒頭から一貫して均質なリズムを刻み続けるカスタネットとタンバリンは、いわば砂時計的役割であり、首の皮一枚で音楽の流れをリアリティに繋ぎとめている触媒であるが、こうした規則性のなかの不規則性、あるいはその逆でまず想起させられるのは「集団即興」である。集団即興の試みにおいては、ある規定のカードを切っても、それが楽器の属性と即興という自由によって否が応にも変容する宿命を負うのに対し、依然「曲モノ」の名残を色濃くのこすこちらは、不規則性も外郭を保ったままのディストーションの域に留まっている、というのが実際に感知された差異である。また、即興では楽器の特徴や個性が(奏者のそれも含め)露わになることが多いのに対し、この『村松ギヤ』ではあくまで個々の楽器が化粧を落とさない。例えば、西洋化の権化のひとつとして登場するトランペットも、従来の音の鋭角性は封じ込めたまま、婉曲的な轟を保つ。金管楽器に特有のミュート音的な効果も、弦楽器に担わせている。しかし、何も素顔を見せる必要はないのだ。なぜなら、出発点が架空なのだし、そもそも民間伝承の本質は意味の真意を問うことではなく「語り継ぐ」ことにあるのだから。夢は夢として保持する、という一貫したコンセプトが保たれるさまは見事だといってよい。その場の空気までもマグネティックに吸い寄せる、野平一郎の指揮ぶりもなかなかの役者。シャーマン的身体の筆頭を見事に務めていた(エンディングの静寂の御し方も含め)。


『愛の讃歌〜ガムランアンサンブルのための』(2007)

ガムランアンサンブルが入るということ、舞踊というそのままズバリの身体が登場することで、「見ること」が鑑賞の中核をなす。視覚はほぼ強制参加。否、目を閉じて聴くほうが身体の気配は濃厚に感じられるかもしれない。この『愛の讃歌』で三輪が挑んだのが「(日本人が、邦楽ではなく)西洋音楽としてガムラン音楽を創ることは可能か」という命題である。西洋音楽のフィールドで、その思考に多大なる影響を受けつつも、いかにそれから逃れるかを自らの作曲活動のなかで常に問い続けてきた三輪が、ガムラン音楽に感じた魅力-----西洋的なトップダウンの思想ではなく、「個々がそれぞれ好き勝手なことをやりつつも全体を動かしてゆく」ボトムアップの思想であるというが-----、そこには三輪が理想とする、西洋的な価値基準で新しい云々ではない「ありえたかもしれない音楽」との近さがあるという。強烈な演じ手の個の湧出、という西洋的信仰を捨て、個を超えたところで自然発生的に湧き出るものを保持しながら包み込む手法、ということになるのかもしれない。たしかに、こちらがその世界に没入することを拒むような、独自の完結された世界が連綿と続く。「聴衆参加」という今では常套句になってしまった単語は初めから存在しなかったような、出来あがった紙芝居を見せられている感覚にも近い。作者が植え付けた「たったひとつの遺伝子操作」であるという、十進数におけるビットパターンを常に二人一組で合計15になるようなリズムパターンとして設定する仕掛けは、一定の整合性をエンドレスに紡ぐ。整合性が連続しながらも結末が欠落するアンビヴァレンツが生むのは、無常観だろう。実感からは徐々に切り離される。手にふれられない美しいものを仰ぎみる----そうしたピュアさは、西洋の思想の潮流から見れば甚だ現代的ではないともいえる。決して出会うことのない、ふたりの踊り手の動きも象徴的だ(ひとりひとりが違うことをやる、という前提を思い出されたい)。所作は肉体化された音符であり、出会えば終りである。イメージは具体化するのではなくて、あくまで行間から滲み出るものである。しかし「自由に想像してくれ」とは声高に叫ばない閉鎖性がある。答えを出そうとすれば、理想の世界=永続する世界は霧消し、「讃歌」ではなくなる。


『永遠の光・・オーケストラとCDプレーヤーのための』”Lux aeterna luceat eis, Machina” for orchestra and CD player(2011)

世界初演となるこの作品は、3・11の直後に構想されたものである。冒頭に触れたところの「中部電力芸術宣言」を公開し、大量のエネルギー供給があって初めて成り立つ我々の消費者的生活を自覚して「電力芸術」を試みた意欲作。タイトルもカトリックの聖体拝領唱のラテン語による冒頭部分であるが、原子力発電で多大なる悪疫を未来への遺産とした我々が、もはや死後の世界を信じられるべくもないし、またその資格もないというシニカルな視点に立っている。このような時代に生みだされる芸術は、人間の感情や尺度とは無関係な「儀式」でなければならず、儀式であるからには「戒律」を要する。その戒律の創造こそが三輪にとっての「音楽を創ること」であるという。演奏形態としては、架空の民謡歌手・高音キンが歌う人工音声と、架空のオーケストラによる人工音や鳥の声などのサンプリング音がCDプレーヤーから流れ、それが生のオーケストラと共演する形を取る。またメロディは「新調性主義」と三輪が名づけるところの、コンピュータ・アルゴリズムによって生成された17,984個の16分音符をCDプレーヤーと人間が演奏し続ける。しかも、繰り返しはなく音型はバラバラで、生のオーケストラの弦楽パートが用いる技法はほぼピッチカートに特化される。まず想像してしまうのが、一聴しての感想は、「ライヴとは何か?」である。これを音源という「製品」で聴いた場合、録られたものを録ったものを聴く、というメタ構造がまず鬱陶しい。凡そ人間的な手触りは消失し、音楽の戒律化については傷つかないだろうが、それではあまりに作者の思うツボではないか。それだから逆に生で聴いてやろう、機械にオーケストラという人力が拮抗する様に立ち会おう、という反・儀式が頭をもたげる。それこそ作者がもっとも忌み嫌うところの、ほとんど感情的な生理反応なのだが...。ライヴは文字通り「生きること」であり、録音は「完結したものの再生」でしかないはずだ、という「信じたいとおもうところ」を強烈に挑発される。事実、オーケストラの楽器の配置も通常とは異なり、例えばコントラバスは背後に横列で配置するのではなく、縦一列で割り込ませてある。生音の高低バランスも密かに操作されているわけであるが、対するCDプレーヤーのほうはステージの中央奥に鎮座したままである。木の摩擦に限りなく還元される音質の弦楽ピッチカートは、周縁部でさざめくアンビエント・ミュージックであり続け、メロディが浮き上がっても、それはCDプレーヤーから流れてくる人工オケが担っているのだから堪らない。視覚的にも聴覚的にも、機械に人間が奉仕している姿に映り、『村松ギヤ』にも共通する、グロテスクな運動性のみが残る。はっきり言ってCDプレーヤーは当初憎々しい存在だ。しかし、人口サンプリング音に耳を凝らし、同時にタイトルをかんがみた時、「永遠の光」のレクイエムの対象が明示されて痛烈なアイロニーが伝わってくる。こういう腹立たしげな擬人化された機械の闖入をもたらしたのも、元をただせば誤った方向の利便性のうえに胡坐をかいた人間である。自業自得、ということだ。ただ、この手の音楽が蔓延すれば、作曲家(人工音プログラマーとしての)は必要だが演奏家はいらないという極論になりはしまいか、それは少々エゴイスティックなのでは、とおもった。プログラム・ノートにあるように、人によって選びだされた音に殊勝な意味などないのだとしたら、聴き手がどのような意見を持とうとそれに意味はない、ということにもなりはしないか。それでは音楽などいらない、となってしまう。少々空恐ろしい(*文中敬称略。10月4日記)。

【参考リンク】 http://www.suntory.co.jp/sfa/









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