#  370

ペーター・レーゼル/ベートーヴェンの真影/ピアノソナタ全曲演奏会第8回
2011年10月12日(水) @紀尾井ホール
reported by 伏谷佳代(Kayo Fushiya)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<プログラム>
ベートーヴェン:
ピアノソナタ第2番イ長調op.2-2
ピアノソナタ第31番変イ長調op.110
ピアノソナタ第1番ヘ短調op.2-1
ピアノソナタ第32番ハ短調op.111

<出演>
ペーター・レーゼル(Peter Roesel)

ベートーヴェンがすっぽりと中へ入っている-----ピアノを弾くことがそのまま作曲家が語りかけているように見えること。それは、ドイツ人が自国の作曲家を弾くという、民族気質の合致から来る自然さを超え、どこまでも謙虚に楽譜を読み込み、探求しつづけてきた長年の営みのみが呼び起こす、自己からも解放された姿である。透明な、良い意味で「クセのない」ピアニズムが展開される。


磐石の重みをもつ閑静の美

2008年より年に2回のペースで行われてきた「ベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏会」もいよいよ最終回を迎えた。この日は最初期の2曲と晩年近くの最後の2曲を組み合わせるという、レーゼルらしい思慮の行き届いたプログラム構成である。すなわち、モーツァルトに代表される古典的な様式美がストレートに現れた初期作品と、人生後期のスランプのなかでいま一度対位法や各種の技法を見極め、その独自の世界観の円熟とともに神がかり的な崇高さにまで昇華された作品との対比。演奏会のタイトルに「ベートーヴェンの真影」とある通り、狭義のベートーヴェンらしさの提示ではなく、あくまで作曲家の多角的な人生の歩みをピアノソナタ全曲という航路のなかで浮かび上がらせるものである。中途半端な解釈を寄せ付けず、音列の美しさは中立的なものとして佇む-----昨今のスターピアニストたちの演奏には決して見ることのできない閑静の美。それは時流にはそぐわぬかもしれないが、懐古趣味とも全く異なる、磐石の重みをもって我々の前に迫ってくる。


ブレない音楽の中心軸、時代の変化に左右されない精髄のような音

冒頭のソナタ第2番は、全楽章を通して質素ともいえるほどの飾り気のなさである。単音の淡々とした手触りは連綿と続いてゆくが、その中に心拍数のような安定した鼓動が絶えず脈打っている。あまりにも淀みなく流れるので素っ気ない、と映りかねないにも関わらず、「あるべきものはある」のである。パッセージのひとつひとつに入念なる検証が積み重ねられた証は、とりわけピアニッシモの質の高さとして現れる。フェザーで鍵盤上をさらりと撫ぜたような軽やかさでありながら、音の芯はムラなく保持され音間の余韻の溶け合いも素晴らしい。聴覚と指先の神経の手触りとが一心同体となった、真の意味での超絶技巧である。安定した律動を見せるテンポ感覚と軽妙なテクスチュアを溶け合わせたアプローチは、なるほどベートーヴェン初期のフレッシュさを表現するのにふさわしい。楽曲の屋台骨のみをすっきりと立ち昇らせるための、太くくっきりと描かれるメロディライン、その余白からさまざまな音色の襞(ひだ)がこぼれ出るという展開力----それはレーゼルほどの域に達して初めて嫌みなく生まれ出る造形の美なのかもしれない。


こうしたストイックとも取れる境地は、第2部冒頭に奏されたソナタ第1番にも共通する。音楽の中心軸がブレずに、どこまでもレガートで続いてゆくという点で抜群のまとまりの良さを見せる。最終楽章プレストで打鍵の方向が垂直にシフトチェンジするや、一層音楽は自律的に旋回し始め、あたかもレーゼルという語り部を借りた作曲家の独白を聴いているような気分にすらなってくる。ともすれば一方通行的な印象を与え兼ねない反面、ひた寄せる苦渋の湧出には、やはり後年の作品への萌芽として長い目で見たときの、ベートーヴェンらしいテンペラメントを感じさせる。きっちりとした構造のなかで、こうした感情表出をさらりとやってのけるところが憎い。楽章間の劇的なコントラストは望めない代わりに、作品が内部から自然に翻るような、言うなれば有終である音の命にすべてを託す割り切りの良さがある。時代が変化しても残る、精髄のような音とも言えるであろう。

楽曲への終りなきリスペクト、その孤高の境地

その音色美を孤高とも言える域に高めたのが、31番と32番のソナタである。とりわけ31番のソナタでは、均整の取れた凛とした美しさ、馥郁と広がってゆく伸びやかさ、そのふたつが共存した単音が珠玉である。現代的な解釈では、中間楽章はアップテンポで決然とした形相を呈すことが多いなか、やはりレーゼルはゆっくりと音楽を運ぶ。フォルテの和音が鳴り響くところでも、その残響に濁りの形跡は全く見られない。あくまで単音の時と同じような清澄さが保たれている。長大なフーガをもつ最終楽章においては、指は振動の伝播以外何の意図も持たぬような邪念のない音を紡ぎだす。そこには強力な意志は乏しいかもしれないが、たゆたう魂の揺らぎがある。音の隙間はこうしたセンチメンタルな未決定性にびっしりと塗り込められ、しじゅう沼に足を掬われている感覚に捉われる。楽曲そのものの呼吸に寄り添うかのような腰を据えたテンポ設定は32番ソナタでも健在であり、あまりにも自然に曲が始まるさまに、逆を期待するのが常套となってしまった、我々の聴覚の惰性を思い知らされる。思い込みとは恐ろしい。簡素でダイナミックな2楽章構成のこの最後のソナタも、純粋に音色のキャラクターの対比で描き切られる。短調の第1楽章は、焦点を明確に突く確固とした足跡で、長調の第2楽章はやはり「塗り込め感」の濃い抒情的なテクスチュアで、といった具合である。しかし、特に終楽章は、内省的に伝播してゆく音色は素晴らしいとは思うものの、ふと食傷する瞬間もある。しかし、それは古典派の枠内でのロマンティシズムの表出という、まさにベートーヴェン自身が経験した相克でもあろう。楽曲の解釈とは、レーゼルにとってどこまでも忠実で透明なものでなければならない-----その厳粛なる事実に、聴き手は静かな戦慄を覚える。(*文中敬称略。10月14日記)









WEB shoppingJT jungle tomato

FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


Copyright (C) 2004-2015 JAZZTOKYO.
ALL RIGHTS RESERVED.