Concert Report#470

ベン・キム ピアノ・リサイタル
2012年10月5日(金)  @東京オペラシティ コンサートホール
Reported by 伏谷佳代 (Kayo Fushiya)
Photos by 林喜代種 (Kiyotane Hayashi)

ベン・キム(Ben Kim;pf )

J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びよ
モーツァルト:きらきら星変奏曲ハ長調K.265
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番へ短調op.57「熱情」
<休憩>
ショパン:プレリュード嬰へ長調op.28-13
      プレリュード嬰へ短調op.28-8
      プレリュードロ長調op.28-11
      プレリュード変二長調op.28-15「雨だれ」
ドビュッシー:12のエチュードより 第2
<アンコール>
ショパン:プレリュードop.28-4
      エチュードop.10-8
      プレリュードop.28-7

コンサートイマジンの「未来のマエストロ・シリーズ」第2回に登場したのは、アメリカのピアニストで2006年のミュンヘン国際音楽コンクールの覇者、ベン・キム。幼少のころから頭角を現したキムは8歳でソロ・リサイタルを、12歳でコンチェルト・デビューを果たし、ピーボディー音楽院ではレオン・フライシャーに師事。20歳で同音楽院の学士課程を修了、2005年からはアルゲリッチによるコモ湖国際ピアノ・アカデミーに参加する代表7名に選出されている。現在はベルリン芸術大学のクラウス・ヘルヴィヒのもとでさらなる研鑽を積んでいるという。これまでにソニー・クラシカル、ユニバーサル・ミュージックよりアルバムをリリース。欧米をはじめ世界各地のオーケストラと共演するほか、フェスティヴァルにも数多く出演を果たしている。


繊細さと表裏一体のスリル、強靭なテンション

スリムな体型、黒のスーツの胸元には真紅のハンカチーフが覗いている。笑顔がさわやかな好青年である。その洗練されたルックス同様、演奏も精緻に構築されたデリケートなものである。細部に至るまでの丁寧な造りこみはスコアの入念な読み込みの反映であり、瞬間ごとに変幻する音色のニュアンスは、さながら万華鏡をのぞくかのような密やかな楽しさを聴き手に与えてくれる。

バッハとモーツァルトでは、楽器がまだ十全に鳴りきっていない印象を受ける箇所もあったが、裏を返せば弱音や微音でこそキムの繊細な音楽性が強烈に感知されるともいえる。そのサウンドはやわらかな羽毛が鍵盤を撫ぜているかのようだ。リアリティの一段上を行く瑞々しい音色は、触れれば消えてしまいそうなギリギリのラインの上に組みたてられている。危うさと表裏一体のスリルのうえに立つ、良い意味で線の細さが魅力のピアニズムである。モーツァルトの「きらきら星」では、素のままの単音がパーカッシヴで、まさに珠玉の転がりをみせる。この曲で気づいたのが、この若いピアニストは、己れの音楽が拠って立つべき一定のテンションを熟知している、ということである。言い換えれば、音色の方向が、単に重力に従うのではなく、何かふしぎな張力で下から突き上げられるような感覚を聴き手にもたらす。上下からの拮抗のあいだに、ぽっかりと無重力空間が現れる。そこに張られる極めて細い緊迫の琴線が、キムの音楽の磁場である。声高に主張するものはないが、はかなくも強靭でうつくしい。

「きらきら星」の最終変奏でみせた低音部のうごめきは、網掛けしたようなざらついたアナログ感が不穏な迫力をかもし出していたが、こうした各パーツの効果的な把握は、つづくベートーヴェンの「熱情」でおおきな説得力をもつに至る。屹立した音色が折り重なるとかくも美しく、全体としての音像がまろやかさを増すのに比例して、細部の音の輪郭をもくっきりと浮かび上がらせる。幻惑と明瞭の地平が限りなく近づく不可思議。大仰な強音の打ち鳴らしは存在せず、すべては中間地点で垂直性をたもつ。両端楽章のアレグロが白眉で、とりわけ終楽章のクライマクックスで和音の連打に至ったとき、音流が急激に縦にそそり立つ切り返しは見事。音圧だけではなく、サウンドのやわらかな振幅でこれを実行するあたりが素晴らしい。


リズミックに浮かび上がる詩情

後半は予定されていたプログラムを若干変更し、ショパンのプレリュード4曲とドビュッシーのエチュード第2集というもの。プレリュードの選曲はいずれも、自らの美点を良く認識してのものとおもわれた。第3番や第8番などの流麗なアルペッッジョでは、記譜の限界ギリギリまで、感情をたゆたわせる。音の輪郭が絶妙にゆるみ窪むさまは、ポイントとなるメロディよりも濃厚な存在感をみせる。無意識の領域の深みがおおきく寄せてくるのだ。第11番では、通常は目立たなく奏されることのおおい低音部に意識的だ。前2曲とはうってかわり、感情の流出ではなく抑制で逆に説得力を高めている。「雨だれ」でも、期待されるように楔を打ちつけるような低音ではなく、ゆったりと空気を含んだ軽めのタッチで、中間にぽっかりと浮かぶような余韻をもたせる。アジア人の血が成せる奥ゆかしさか、立体的で上品な音像である。あとにドビュッシーを配置するにあたって、「雨だれ」で〆るのはなかなかである。なぜならば、ピアニスティックな側面でのキムの魅力のひとつは、ひじょうに筋肉質な同音連打にある。リフはエネルギーの溜め、とでもいえようか。ショパンで徐々に感情表現をシェイプし、ドビュッシーではリズミックな面を全開にしてゆく、練れたプログラム構成である(当日の体調などもあったのかもしれない)。バネの効いた躍動のなかに、匂うように潜伏するゆたかな詩情。このピアニストの趣味のよい音楽性がうかがいしれた一夜だった。今後の成熟が期待される(*文中敬称略。2012年10月7日記)。


【関連リンク】
http://www.concert.co.jp/artist/ben_kim/









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