Concert Report#555

ブエノスアイレスのマリア
2013年6月29日(土曜日)15:00 東京オペラシティ・コンサートホール:タケミツメモリアル
Reported by 悠 雅彦
Photos by 西田 航

<曲目>
アストル・ピアソラ「ブエノスアイレスのマリア」

<演奏>
アメリータ・バルタール(歌)
レオナルド・グラナドス(歌)
ギジェルモ・フェルナンデス(語り)
小松亮太(バンドネオン)
近藤久美子(ヴァイオリン)
谷本仰(ヴァイオリン)
吉田有紀子(ヴィォラ)
松本卓以(チェロ)
井上信平(フルート)
鬼怒無月(ギター)
黒田亜樹(ピアノ)
田中伸司(ベース)
真崎佳代子(マリンバ、ヴァイブ、鉄琴、打楽器)
佐竹尚史(打楽器)

 最後の1曲「神のタンゴ」が天上に向かって魂の縛りを解き放った。遠来のゲストを含む全員が全神経を注ぎ込んで、普段の幕切れとは違う陰影に富む大団円を導きだした瞬間、聴いていた者の心の片隅で頬杖をついていたわだかまりが解放されたかのような、そんな高揚感が充ち満ちた。一瞬の静寂を破って、客席を埋めた満余の聴衆が感激をスタンディング・オベーションと歓声で演奏にこたえたのは当然といって過言ではないほど、音楽といい、演奏といい、まずは期待を越える感動を生み出したことに敬意を表したい。
 タイトルの「ブエノスアイレスのマリア」とはアストル・ピアソラがオラシオ・フェレールの台本を得て発表したタンゴ・オペリータ(タンゴによる小さなオペラ)。初演はブエノスアイレスで1968年。そのときマリアを歌ったいわばプリマドンナが今回初来日したアメリータ・バルタールで、レコード吹込でもマリアをつとめ、その数年後にピアソラと結婚した。ピアソラ没後10年の2002年、ヴァイオリンの鬼才ギドン・クレーメルが再演したときは8人編成で、ピアソラ版より3人少ないが、今回の公演ではオリジナル版に戻って上演された。その、小松亮太をリーダーとする11人(小松亮太と十重奏団=Tokyo Tango Dectet)の演奏が、実に素晴らしかった。初来日のマリア役のバルタールは、日本のタンゴ奏者がピアソラのタンゴへの思いを託した音や曲の数々をこれほど見事に再現するとはつゆ想像すらしていなかったと見え、感激の情をあらわにアンコールを歌い上げた後、腹の底からの喜びを押さえきれぬように小松以下メンバーと抱き合って演奏を讃え合う姿が、この日のステージのありようを物語っていた。
 ちなみに、この公演は本来なら2011年に上演されていたはずのもの。3月11日に突如来襲した東日本大震災のために中止を余儀なくされたピアソラ渾身の作品が、2年余のブランクを乗り越えて実現したことになる。その間の小松亮太のピアソラ作品に対する特別の思い入れや、いったん白紙に戻って再出発しなければならない演奏者たちの心情を察すると、気持ちの揺れをコントロールして再度の挑戦に踏み出すのに、おそらくは涙ぐましい葛藤や努力があったろうと想像しないわけにはいかない。だが、結果は吉と出た。すでに何度か経験を積んでいるゲストはともかく、小松亮太とトーキョー・タンゴ・デクテットの健闘を称えたい。
 オペラといっても通常のオペラとは違う。オペラのコンサート形式による上演を思い浮かべていただければよい。フロントに小松以下、その後ろにピアノとベース、左手にストリング・クヮルテット、右手に鬼怒無月と井上信平、その背後に2人のパーカッション、そして奥の一段高いところに3人のゲストが立つ。この作品を理解する上で最も重要なファクターは恐らく詩人オラシオ・フェレールが書いた台本だろう。のっぴきならないほどシュールな言葉の嵐。舞台左右の細長いスクリーンに字幕が映し出されるものの、それを忠実に追っていたらピアソラの素敵な音楽も満足に味わえないどころか、この作品を消化不良のまま聴き流してしまいかねない。私はとっさにフェレールの台詞を自己流の解釈で聴き進む道を選んだ。だが、ピアソラの音楽は掛け値なしに感動的。あたかもブエノスアイレスの空に輝くひときわ美しく輝いている星のよう。ピアソラが彼なりのコンセプト(戦略)でタンゴの新しい道を切り開こうとしていた姿を彷彿とさせるタンゴ物語である。なぜ彼が54年にパリへ飛んで和声法や楽曲分析の権威ナディア・ブーランジェに師事したのか、はてまたエレキ・ギターを加えたタンゴ・バンドを結成したのかや、彼がデューク・エリントンを敬愛した理由など、彼が目指した新しいタンゴにまつわる幾つかのヒントがこの「ブエノスアイレスのマリア」の音楽に潜んでいるような気がして一心に聴いているうちに、ピアソラがマリアに託して伝えようとした何か大事なものが見えてくるような錯覚さえ覚えた。
 そう、マリアはタンゴの象徴でもあり、あるいはタンゴの化身なのだ。劇中でもマリアは死んだと思ったら蘇生したりする。ラプラタ河沿いの貧しい農民の出で、やがてブエノスアイレスのクラブやキャバレーで名を売り、娼婦に身をやつした末に没落と死を体験し、やがて新しいマリアとなって甦った彼女は、タンゴの精髄の中に生きる聖女だといってよい。マリアはいわばタンゴの擬人化された存在であり、私はふと新約聖書の福音書に登場するマリア、すなわち娼婦から守護聖人となったと伝えられるマグダラのマリアを連想した。そのタンゴに内在する穢らわしいものや神々しいもの一切を表現するのがバンドネオンであり、私の想像ではその精神や技法などの一切がピアソラから人知れずに小松亮太へ伝授されたのだ。でなければ、才人小松といえどもピアソラ作品の再現にかくも全身全霊をこめた献身などできるわけがない。
 「ブエノスアイレスのマリア」は休憩を挟んでの全16場、16曲。歌手でもあるギジェルモ・フェルナンデスの語りによる「アレバーレ」からアメリータ・バルタールの「マリアのテーマ」で始まり、レオナルド・グラナドスの歌とフェルナンデスの語りが複雑な展開を見せる「狂ったストリートオルガンのバラード」へと続く。余白が尽きたので、最後に印象に残った曲と演奏に触れておきたい。第4場「カリエーゴのミロンガ」。男が少女マリアに向けた眼差しの憐情を、グラナドスとバルタールが切々と歌い上げる。小松とデクテットの演奏「フーガと神秘」が、第2部の「夜明けのタンガータ」や語りが入った「罪深きトッカータ」などとともに出色。とりわけストリングス、その中でもかなり以前から注目していた近藤久美子の色艶のいい音色と嘆きの神髄に迫る奏法に魅了された。一方、鬼怒と井上はジャズのプレイからは想像がつかない神妙さ。だが、フルートの井上がチェロの松本と組んで、娼婦の歌をうらぶれた面持ちで表現するバルタールを支えているのを聴けば、井上が神妙なのではなく彼らもまたピアソラの偉大な影を肌で感じた結果なのだと合点する。
 ピアソラの圧倒的な短調曲とその不思議な魅力。「盗賊たちのミゼレーレ」でフェルナンデスが叫ぶ「とびきりのDマイナー!」、そうまさに飛び切りの短調。第2部はマリアの最初の死で始まる。その「葬儀に捧げるコントラミロンガ」におけるミロンガのステップで進む葬送の儀式や、タンゴのカンタービレとおぼしき「アレグロ・タンガービレ」を聴くと、ピアソラはヨーロッパとの葛藤もあったのかもしれない。後者における近藤の艶のいいヴァイオリンに霊感を得たか、マリアのバルタールが熱唱した。「受胎告知のミロンガ」でもマリアが情熱のミロンガにふさわしい熱唱を繰り広げた。黒田亜樹がジャズ演奏のタッチで熱い風を送り込んだ「アレグロ・タンガービレ」。そして最後は、高揚感がひとつになった「タングス・デイ/神のタンゴ」。
 この「ブエノスアイレスのマリア」が東京でたった1回の公演で終わりとは、いかにももったいない。初来日のアメリータ・バルタールはまさに待望だった。だが、彼女が60年代末にヒットさせた「ロコへのバラード」を思い出すと、とうに全盛期を過ぎての初来日だった。せめて彼女が40代の頃に実現していたらと思うのは、ファンの側の我がままかもしれない。とはいいながらも、今回の上演は忘れがたい印象を残した。草葉の陰でピアソラも喜んでいることだろう。
 何はおいても小松亮太、及びトーキョー・タンゴ・デクテットの面々の集中力と気合いの入った好演を称えたい。(悠 雅彦/2013年7月2日記)

WEB shoppingJT jungle tomato

FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


Copyright (C) 2004-2015 JAZZTOKYO.
ALL RIGHTS RESERVED.