Live Report #645

トリフォニーホール・ピアニスト・シリーズ 2013-14
ロシア・ピアニズムの継承者たち 第9回
エリソ・ヴィルサラーゼ ピアノ・リサイタル

2014年2月3日 すみだトリフォニーホール
Reported by 佐伯ふみ
Photos by 三浦興一/写真提供:すみだトリフォニーホール

【曲目】
モーツァルト:ドゥセードの『ジュリ』の「リゾンは眠った」による
9つの変奏曲 ハ長調 K.264(315d)
ブラームス:ピアノ・ソナタ第1番ハ長調 Op.2
ハイドン:アンダンテの変奏曲 ヘ短調 Hob.XVII:6
シューマン:交響的練習曲 Op.13         

 トリフォニーホール主催のピアニスト・シリーズは、常に、心楽しく満たされる体験だ。理由の一つはもちろん、登場するピアニストが現代を代表する名手たちであること。しかしそれ以上に嬉しいのは、ホールに集まる聴衆の質の高さ、耳の厳しさ、そして喝采のあたたかさである。アーティストの側もそれをよく心得ていて、今の自分にとってチャレンジングな、内実のある曲目を選んでくる。今回も期待に違わず、素晴らしい一夜となった。
 プログラムに寄稿した青澤隆明氏が、「プログラミングに関しては『象を産むくらいしんどい』と彼女は微笑んでいた」と記しているが、確かに、並のピアニストならばこのブラームスとシューマンをひと晩のコンサートに並べることはすまいし、ホール側も集客を慮って、せめて前半は軽い、聴いて楽しい曲をとリクエストするはずだ。しかし、「しんどい」と言いつつも挑戦したくなる/すべきと思うコンサート・シリーズであること、それが既に一つの奇跡のように思う。前半と後半の最初にいずれも小さなヴァリエーションの佳品を置き、「古典派とロマン派の充実作を交互に弾く美しい構成をとった」(青澤氏)このプログラムを見るだけで、何かがあると思わせる。まずは企画の勝利であろうし、こうした古典の曲目に「微笑みつつ」正面から取り組もうという気概に、拍手を送りたい。

 ヴィルサラーゼにとって真にチャレンジングだったのは、もしかしたら前半のブラームスだったかもしれない。一聴しての印象は、聳える高峰にとりつき、苦心惨憺して次の一歩を探る登山者、であった。全曲にわたるダイナミクスの設計――どこをクライマックスとし、それに向けてどのように段階的に強弱を配置していくのか――、分厚い和音の連続を技術的に制御しながら、息の長いフレーズを必然性をもって紡いでいくこと...いずれも難しい、大曲である。

 幕開けのモーツァルトもだが、あいだに挟まったハイドンのヴァリエーションは実演で接するのが珍しい作品。しかし特にハイドンは、ヘ短調の特徴ある出だし、問いかけ(または謎かけ)のような終わりが印象的な佳品で、ピアノ愛好家に好んで弾き継がれてきた。シューマンの前にこの作品を置くとは、まことに好ましい。このあたりから客席もぐっと熱を帯び、聴衆が集中の度合いを増すのがわかる。

 そして、定評あるシューマン。
 筆者は実のところシューマンは、どこか理解しがたい、遠い人であった。もちろん、著名曲は何度も聴いてきたし、自分でも技術の及ぶ範囲で弾いてきた。しかし何か、入り込めない/入り込むのを拒絶する音楽という印象がぬぐえなかった。しかしどうだろう、ヴィルサラーゼのシューマンの自然なあたたかさは。主題から終曲まで、あっという間。一瞬の滞りもなく、柔らかく、あたたかく、その時々で十分なドラマもあり...あたかも起伏に富んだ草原を吹き抜けるそよ風のよう。このようなシューマンを弾くピアニストがほかにいるだろうか。
 よく、テンポを「揺らす」と言うが、ヴィルサラーゼのそれはごくわずかなものだ。淀みが生じないよう、一定のテンポを保持しつつ、随所にわずかな間合いを取る。フレーズの始まりのアタック(打鍵)、空間に音を溶け込ませるようなフレーズの終わりの音の処理、いずれもなんとも美しい。意図的に揺らすのではない、人間の自然な呼吸の緩急にそって、つねに、わずかずつ、揺らいでいる。聴き手はまるで、自分がこの曲を歌っている、かのような感覚をおぼえる。シューマンというひとの思い、その眼にうつっていた風景、そのイマージュが心の中に自然に浮かんでくる。
 ロマン派音楽の精髄と言える曲だが、古典的な簡素な佇まい、落ち着いた品格すら感じさせる演奏であった。モーツァルトとハイドンの変奏曲を先に聞かせたピアニストの意図――そうしたものの系譜にこの曲もあるのだという――が、深く腑に落ちた。

 聴衆の拍手喝采は熱く果てしなく続き、シューマンの2曲(予言の鳥、献呈)のほかに、ショパンのワルツを2曲アンコールして演奏会はようやく終わった。次回、彼女はどんな音楽を聞かせてくれるだろう。その日を心待ちにしている。

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FIVE by FIVE 注目の新譜


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#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
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#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
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カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

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オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
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INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
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