Concert Report #668 |
アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル |
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シフの音楽には温もりがある。音楽に向かう彼の心身の温熱が、じんわり滲みてきて聴き手を溶かす。それは特別な感触で、演奏中、私は何度も胸に手をあてた。こんなに温かく、無垢で、美しい音が、この世にあっていいものかしら、と。
とりわけピアニシモ。今まで、極上、と思われるピアニシモはそれなりに聴いてきて、最近ではルプーが心に残っているけれど、シフのそれは信じられないようなかそけき響きの連珠。天使の羽がキーをそっと撫でてゆく、なんていう形容もむなしくて。響きが生まれでるぎりぎりの、楽器と人の命のかすかな交感だけで成り立っている、と言ったらよいか。温かさは、そういう命の交感から立ちのぼる。ピアニシモばかりでなく、この夜のシフの音は全部、そう。
この間、ベートーヴェンの『ディアベッリ変奏曲』他のCDを聴いて、万華鏡のよう、とか、音の楽園に遊ぶよう、とか書いたのだけれど(http://www.jazztokyo.com/five/five1031.html)、こういう温かさは感じなかった。こういうピアニシモも感じなかった。このCDと同じ内容のプログラムの日もあったから、それがどうだったか、行った人に聞いてみたい。でも、とにかく、やっぱり、音楽は、その人と一緒の空間で、一緒に呼吸をして、一緒にその場と時を生きてはじめて、音楽になるのだと、この夜、痛切に思ったのだ。CDで聴くよりほかない多くのファンには心苦しいけれど、可能なかぎり、実演に足を運んで欲しいと切に思う。音楽は「生きもの」なのだから。
メンデルスゾーンは、ピアノのリサイタルで取り上げられることの少ない作曲家だけれど、作品へのシフのあふれる愛が横溢する。『厳格な変奏曲』の、いかにもメンデルスゾーンらしい甘美な歌を、変化に富んだ17の変奏で弾き継いでゆく。全体がニ短調でも、一つ一つは色とりどり。そのブーケのなかで、第14変奏の1曲だけニ長調になる、それを柔らかな陽光に花首をもたげるようにシフは弾いた。プレストのコーダの熱を帯びたたたみかけにも余分な力は一切なく、あくまでしなやか。この変奏曲に対応するように、プログラムの締めくくりにはシューマンの『交響的練習曲』が置かれており、二人のロマン性の色調の異なりが、くっきりと伝わってくるようになっているのもシフらしい。メンデルスゾーンが滑らかな歌謡性を明るく謳歌するのに対し、シューマンは、うつろう外界と沈潜する内面世界の往来を、9つの変奏のなかにていねいに織り込む。さまざまに浮かび上がる音の綾にたくされたシューマンの心の声が、なんとこまやかに聴こえてきたことだろう。交響的の名にふさわしく、フィナーレの白熱の追い込みなど、シンフォニックなスケールの大きさも充分な造型もあって。
前後するが、2番目に弾かれたシューマンの『ピアノ・ソナタ』はクララへの熱い想いをこめた作品。第2楽章のアリアが夢のように美しく、あまりに切なくて、やはり私は胸に手をあてるほかなかった。スケルツォの弾力も独特で、小さな野うさぎが跳ねるみたいな柔軟さ。メンデルスゾーンの『幻想曲』は、冒頭のアルペジオが虹の架け橋のようで、それだけでこの作品のたっぷりしたロマンと幻想性を知らせるのに充分なくらいだった。
アンコールでのメンデルスゾーン『紡ぎ歌』は、ピアニシモとピアノだけで弾かれた。ほのかな光の粒子が鍵盤の上で舞い踊る。
どんな音の背後にもヒタと寄り添うシフの温もりと無垢な魂。こういうピアニストが同時代にいることに深く感謝したい。
追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley
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#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣
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JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi
#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報
シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻
音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美
カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子
及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)
オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美
ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)
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#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義
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#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
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