Concert Report #668

アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル

2014年3月19日 東京オペラシティコンサートホール
Reported by 丘山万里子
Photos by 林 喜代種

<曲目>
メンデルスゾーン:厳格な変奏曲ニ短調 op.54
シューマン:ピアノ・ソナタ第1番嬰へ短調 op.11
メンデルスゾーン:幻想曲 op.28「スコットランド・ソナタ」
シューマン:交響的練習曲 op.13(1852年改訂版)
<アンコール>
メンデルスゾーン: 「無言歌集」op.19から 甘い思い出
メンデルスゾーン: 「無言歌集」op.67から 紡ぎ歌(蜜蜂の結婚)
シューマン: アラベスク op.18
シューマン: 幻想曲 ハ長調 op.17から 第3楽章(異稿版)
J.S.バッハ: パルティータ第4番 ニ長調 BWV828から サラバンド         

 シフの音楽には温もりがある。音楽に向かう彼の心身の温熱が、じんわり滲みてきて聴き手を溶かす。それは特別な感触で、演奏中、私は何度も胸に手をあてた。こんなに温かく、無垢で、美しい音が、この世にあっていいものかしら、と。
 とりわけピアニシモ。今まで、極上、と思われるピアニシモはそれなりに聴いてきて、最近ではルプーが心に残っているけれど、シフのそれは信じられないようなかそけき響きの連珠。天使の羽がキーをそっと撫でてゆく、なんていう形容もむなしくて。響きが生まれでるぎりぎりの、楽器と人の命のかすかな交感だけで成り立っている、と言ったらよいか。温かさは、そういう命の交感から立ちのぼる。ピアニシモばかりでなく、この夜のシフの音は全部、そう。
 この間、ベートーヴェンの『ディアベッリ変奏曲』他のCDを聴いて、万華鏡のよう、とか、音の楽園に遊ぶよう、とか書いたのだけれど(http://www.jazztokyo.com/five/five1031.html)、こういう温かさは感じなかった。こういうピアニシモも感じなかった。このCDと同じ内容のプログラムの日もあったから、それがどうだったか、行った人に聞いてみたい。でも、とにかく、やっぱり、音楽は、その人と一緒の空間で、一緒に呼吸をして、一緒にその場と時を生きてはじめて、音楽になるのだと、この夜、痛切に思ったのだ。CDで聴くよりほかない多くのファンには心苦しいけれど、可能なかぎり、実演に足を運んで欲しいと切に思う。音楽は「生きもの」なのだから。
 メンデルスゾーンは、ピアノのリサイタルで取り上げられることの少ない作曲家だけれど、作品へのシフのあふれる愛が横溢する。『厳格な変奏曲』の、いかにもメンデルスゾーンらしい甘美な歌を、変化に富んだ17の変奏で弾き継いでゆく。全体がニ短調でも、一つ一つは色とりどり。そのブーケのなかで、第14変奏の1曲だけニ長調になる、それを柔らかな陽光に花首をもたげるようにシフは弾いた。プレストのコーダの熱を帯びたたたみかけにも余分な力は一切なく、あくまでしなやか。この変奏曲に対応するように、プログラムの締めくくりにはシューマンの『交響的練習曲』が置かれており、二人のロマン性の色調の異なりが、くっきりと伝わってくるようになっているのもシフらしい。メンデルスゾーンが滑らかな歌謡性を明るく謳歌するのに対し、シューマンは、うつろう外界と沈潜する内面世界の往来を、9つの変奏のなかにていねいに織り込む。さまざまに浮かび上がる音の綾にたくされたシューマンの心の声が、なんとこまやかに聴こえてきたことだろう。交響的の名にふさわしく、フィナーレの白熱の追い込みなど、シンフォニックなスケールの大きさも充分な造型もあって。
 前後するが、2番目に弾かれたシューマンの『ピアノ・ソナタ』はクララへの熱い想いをこめた作品。第2楽章のアリアが夢のように美しく、あまりに切なくて、やはり私は胸に手をあてるほかなかった。スケルツォの弾力も独特で、小さな野うさぎが跳ねるみたいな柔軟さ。メンデルスゾーンの『幻想曲』は、冒頭のアルペジオが虹の架け橋のようで、それだけでこの作品のたっぷりしたロマンと幻想性を知らせるのに充分なくらいだった。
 アンコールでのメンデルスゾーン『紡ぎ歌』は、ピアニシモとピアノだけで弾かれた。ほのかな光の粒子が鍵盤の上で舞い踊る。
 どんな音の背後にもヒタと寄り添うシフの温もりと無垢な魂。こういうピアニストが同時代にいることに深く感謝したい。


丘山万里子(おかやま・まりこ)
東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。2010年まで日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。
本誌副編集長。

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