Concert Report #679

<歌曲(リート)の森>〜詩と音楽 Gedichte und Musik〜 第13篇
イアン・ボストリッジ

2014年4月14日(月) トッパンホール
Reported by 多田雅範
Photos by 大窪道治/トッパンホール提供

イアン・ボストリッジ Ian Bostridge (テノール)
ジュリアス・ドレイク Julius Drake (ピアノ)

マーラー:若き日の歌より 〈春の朝〉/〈思い出〉
マーラー:子どもの魔法の角笛より 〈少年鼓手〉/〈トランペットが美しく鳴りひびくところ〉/〈死んだ鼓手〉
マーラー:さすらう若人の歌
ブリテン:ジョン・ダンの神聖なソネット Op.35
ブリテン:民謡編曲第1集 《イギリスの歌》より 〈サリーの園〉
ブリテン:民謡編曲第3集 《イギリスの歌》より 〈おお悲しい〉
ブリテン:民謡編曲第1集 《イギリスの歌》より 〈オリヴァー・クロムウェル〉

前回は“弦のトッパンホール”を強く印象付けたピーター・ウィスペルウェイ(チェロ)の公演を聴いたが、今回は“リートのトッパン”を堪能した


この〈歌曲の森─詩と音楽 Gedichte und Musik〉シリーズは、08年から、マーク・パドモア(テノール)、イアン・ボストリッジ(テノール)、クリストフ・プレガルディエン(テノール)、クリスティアン・ゲルハーヘル(バリトン)、アネッテ・ダッシュ(ソプラノ)、クリスティアーネ・エルツェ(ソプラノ)、ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)を迎え、今回はこのシリーズ2度目のボストリッジで13回目を数える。

「文学芸術のひとつの高みとして憧れを集め、人生航海の折々に、指針を示してくれる“詩”。その“詩”が、かつてほど読まれなくなっていると言います。それに歩を合わせるかのように、日本では歌曲(リート)も衰退して、すでに久しくなりました。一方ヨーロッパでは、フィッシャー=ディースカウら世紀の名歌手が相次いで引退した一時期には同じく低迷・衰退の兆しがみられたものの、近年は、魅力的なリート歌手が次々に登場して歌曲(リート)はかつての栄光を取り戻したばかりか、また新たな輝きを放っています。」(トッパンホールのHPから)

職場の3さい年上の上司が、ディースカウを聴いて声楽をやっていた。とてもいい調子で深夜のクレーマーを説得したり抗弁したりしていたので、いつもうっとりと声色を耳にしていた。好きなジャズメンは艶やかな音色と語り口の最右翼ジョニー・ホッジズだという、すごく納得できるラインだ。「ただくん、いいジャズのベーシストが出てきたね!」というから、もしやトーマス・モーガンに気付く耳があったかと思ったが、エスペランサ・スポルディングのことだった。あらら。でも、これもすごく納得できるラインだ。

ディースカウの『冬の旅』は、サイモンとガーファンクルの『ブックエンド』やジョン・コルトレーン〜ジョニー・ハートマンと並んで、ぼくの耳の書庫に収まっている。これはこれで、納得できるラインではないだろうか。突拍子もないかな?

ステージにイアン・ボストリッジが登場して、その羽生結弦に先行していたかのようなスレンダーな長身と甘いマスク、グランドピアノに右手をかけて、少しだけ身体を斜めにして朗々と歌いはじめたときに、ディースカウよりもどちらかというとハートマンを聴くという強引な耳のわたしが居た。

クラシック通いを始めてから出会ったのは、圧倒的な藤村美穂子(メゾソプラノ)とキュイを舞った平山恭子(ソプラノ)だけれど。藤村美穂子がとても日本人であることのハンディが感じられないドイツ・リートの本流で圧倒させたのに対して、ボストリッジはディースカウのようなドイツ・リートっぽさがあまり感じられない。もっと、スムースで透明な感じだ。

イギリス紳士の王子さま、という風情かな。クラシックでもインプロでもフォークでも、ヨーロッパの各国はそれぞれ頑なな固有性からは逃れられない。つい百年前には存亡を賭けた戦争をしていただけのことはある。つまりは、イギリス風味のグスタフ・マーラーを聴く日本人、という、とても高度な鑑賞が課せられるコンサートなのだった。

会場には歌曲(リート)愛好家が終結した様相なのだろうか、すべての歌詞と対訳が印字された厚い豪華なプログラムを開き目で追いながら鑑賞している皆さんが多かった。

わたしは歌詞を追うのを途中であきらめて、純粋に声の音楽として耳をそばだてた。

不思議なことに、声の抑揚や弱音への消え入り、静寂のタイミング、解像度を上げると微分音の絶妙なラインをカミソリの一閃ですり抜けて行く声の表現に、その静かな総体のなかには怖ろしいほどの暗闇が潜んでいることにおののき始める。ほのかな歓びは、ほのかな哀しみは、ただそれだけではないのだ。

わたしは、ボストリッジを聴く。

そこにわたしはわたしの人生の経験の歓びや哀しみを代入しているだけなのだろうか。

プログラム後半のベンジャミン・ブリテンは英語詩であることや、表現の華やぎでどちらかというとわかりやすいものだった。安心して鑑賞できた。

日本語しかわからないわたしと、ボストリッジと、マーラーの世界と、それぞれに位相を遠くから照らすように、感覚の触手を飛ばすようにして把握しあおうとした体験は、それは日本のわたしたちだけが許された稀有な音楽的体験なのだろう。それは、他者を理解しようとする最も大切な要素である想像力への跳躍だ。遠くに在るからこそ至ることができる、つながりの糸を創造できる、とても音楽的なことがらなのだろうと思う。

そんな、うまくかたちにできない強い感動を手にして、ぼくは明日から生きる手がかりを得たように帰路につく。ボストリッジの渾身の表現は、静かに圧倒的だった。そんなボストリッジに、公演後のCDサイン会をすることをわたしたちはあまり求めていないような気がする。

部屋に戻って、マーラーの歌詞を読む。宮本常一の「忘れられた日本人」を読む。中山義秀「碑(いしぶみ)」と宮本百合子「三郎爺」を読む。さて、21世紀になって、わたしたちはよりよい世界に住んでいるのだろうか。


多田雅範(ただ・まさのり)
Niseko-Rossy Pi-Pikoe。1961年、北海道の炭鉱の町に生まれる。東京学芸大学数学科卒。元ECMファンクラブ会長。音楽誌『Out There』の編集に携わる。音楽サイトmusicircusを堀内宏公と主宰。音楽日記Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review。

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