Concert Report #687

エフゲニー・キーシン ピアノ・リサイタル

2014年5月1日 サントリーホール
Reported by 丘山万里子
Photos by 林 喜代種

<曲目>
シューベルト:
 ピアノ・ソナタ第17番 ニ長調Op.53 D.850
A・スクリャービン:
 ピアノ・ソナタ第2番「幻想ソナタ」嬰ト短調Op.19
「12の練習曲」Op.8より第2番、第4番、第5番、第8番、第9番、第11番、第12番
<アンコール>
バッハ(ケンプ編曲):
 シチリアーノ
スクリャービン:
 「8つの練習曲」より第5番

 触れたら壊れそうなくらい敏感で儚げな感性をそのまま音に映し出していた少年期から、力の誇示に傾いた青年期、そして今40歳を越えたキーシンは、落ち着きのなかに、もっぱら響きの多彩を追求するピアニストへと歩を進めているようだ。彼の出自たるロシアのリリシズムに色彩豊かな音響世界をひろげるスクリャービンは、ちょうどぴったりの選曲と言えよう。後半の最初に置かれた『幻想ソナタ』は、2楽章構成の短いものだが、海をイメージしての印象派風の書法が精妙に描き出され、当夜の一番の聴きものとなった。第1楽章アンダンテ、夜の海の黝(あおぐろ)い面に、きらめく月の光が虹色の輝きを放ってさわさわと波立つ。ジョルジュ・スーラの点描画法を思わせるその微細な色の饗宴に、ときおり打ち込まれる左手の硬質な打鍵が、どことない不安を掻き立てるところに、ふと少年期のキーシンを思い出す。第2楽章プレストの嵐は、無窮動なパッセージの駆け上り、駈け下りが荒々しい飛沫をあげ、激しい情動で圧倒、スケールの大きなファンタジーを繰り広げた。これをただの力でなぎ倒さず、周到なディナミークでコントロールしているところに、彼の現在の安定が見えようか。『12の練習曲』では、スクリャービンが恋人を思って書いたという第8番の、心の裡をとつとつと語りかけるようなレントがいかにも優しく、魅力的だった。
 前半のシューベルトは、いわゆるシューベルトらしいたっぷりした歌謡性があまり見られない作品だが、どの楽章にも簡潔な歌は仕込まれているのであって、それをキーシンは丁寧に際立たせ、美しく聴かせた。第3楽章スケルツォの風にそよぐ若葉が踊るような清新な躍動も印象的だ。
 だが、聴き終えて思う。あまたいる国際的ピアニストのなかで、何がキーシンをキーシンたらしめるか。響きのパレットで売る奏者はほかにもいるし、無比のテクニックだっていまどき、耳目はひかない。NYのカーネギーホールがスタンディング・オベーションとなったというその同じプログラム。NYの聴衆は彼の何に熱狂したのか。スクリャービンのソナタで一瞬感じたあの少年期のおののきは、私の心を動かしたが、それ以外、音楽はどんなに激しても、繊細を極めても、たださらさらと綺麗に流れ過ぎて行き、ついに私の心身を引きずり込むことはなかった。それはなぜ?


丘山万里子
東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。2010年まで日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」「からたちの道 山田耕筰論」(深夜叢書社)、「失楽園の音色」(二玄社)、「吉田秀和 音追い人」(アルヒーフ)、「波のあわいに」(三善晃+丘山万里子/春秋社)他。本誌副編集長。

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