Concert Report #693

デニス・コジュヒン〜ピアノ・リサイタル

2014年5月20日 19:00 紀尾井ホール
Reported by 悠雅彦

<第1部>
1.ピアノ・ソナタヘ長調 Hob.16/23 (ハイドン)
2.前奏曲、コラールとフーガ (フランク)
3.4つの即興曲 Op.90、D899 (シューベルト)

<第2部>
1.ピアノ・ソナタ 第3番 (ヒンデミット)
2.7つの幻想曲 Op.116 (ブラームス)

 このピアニストの演奏姿を瞼に焼き付けながら聴いていると、評判の若いピアニストが束になってもかないっこないと、ときに唖然とする。端倪すべからざる底知れぬ能力というべきか。その一方で、技巧の粋を尽くしたどんな難曲もこのピアニストの手にかかると、ごく当たり前の曲にしか聴こえないことがある。手や指の動きが信じられないほどスムースで、どんなに手の込んだ曲でもいとも軽々と弾きのける鮮やかなフィンガリングが、身軽な黒のシャツ姿でピアノに対峙する姿形と一体になって、その結果まるで流麗なバレェ舞踊を思わせる美しい滑りを見る者に印象づける。それは前年のコンサートでも実感したことだが、恐らく何度聴いても当分この印象は変わらないだろう。
 この夜のお目当てはフランクとヒンデミット。もっとも、古典派のハイドンに始まり、ロマン派を通って、ドイツ・ロマン派が20世紀音楽(ジャズを含む)の大河へと合流した時代に独特の作風を発揮したヒンデミットをクライマックスにおくという当夜のプログラムは、これまで日本の聴衆に心地よい衝撃をもたらしたプロコフィエフやショパン作品の縛りから解放されたいとのコジュヒンの思いの発露ゆえだったのかもしれない。
 ソナタ形式の完成に寄与したハイドンのソナタでは、短調の第2楽章をサンドイッチにした両端楽章の、オーソドックスながら両手の機能を発揮させた運動性がこのピアニストの持味とフィットして、あたかもバーバーやウォルトンのピアノ・ソナタに通じる同質的快感を感じさせた。ただ、2階の最前列席ゆえではないと思うが、フォルテでは音がひび割れたまま耳を圧するのにいささか閉口した。端正な中にも柔らかなニュアンスがあったらなとふと思いながら、シフやピレシュのリリシズムをダブらせたりしたが、これは無い物ねだりだろうか。それはシューベルトでもほとんど同様だった。完璧さが裏目に出た結果ゆえか硬直したニュアンスが表に出てしまうのかもしれないが、とはいうものの一点の曇りもないこの明晰さは捨てがたい。
 期待した通り、フランクとヒンデミットは、月並みな言い方だが素晴らしかった。ベルギー生まれのフランスの作曲家ながらワーグナーの影響を恐れなかった独特の半音階的和声と堅固な作品構成がフランクの作曲法を特徴付けているが、その重厚にして深遠な教会音楽的敬虔さをたたえて厳かに展開されるこのピアノ曲の本質をコジュヒンは的確につかんで構成し、終わってみればかなりドラマティックな、バッハとロマン派がせめぎあうかのような迫力を生みだしてみせた。
 一方、ヒンデミットはフランクの1世代後のドイツの作曲家ながら、フランスの6人組やアメリカのジャズなど多様な影響を作品に溶かし込む優れたセンスと演奏家視点に立つ特異な作曲技法を持っていた。この変ロ長調のソナタはナチスの迫害を逃れてドイツを脱出する直前の作品だと思うが、フランクの作品同様に最後の第4楽章にフーガを配し、全般にリズムの劇的な展開を軸に、変化に富んだ運動性を強く印象づける戦争の世紀を予兆させるかのようなダーク調を通奏低音とする響きを生んでいる。フランクでもそうだったが、ヒンデミットでもコジュヒンのフーガ演奏に圧倒された。特にヒンデミット作品への彼のアプローチは、たとえば第2楽章の疾走感といい、あたかも音の映像化を試みるかのような立体的な音の構成や描写を印象づける第3楽章といい、何といっても形式性と音の運動性とが活きいきと一体化しながら高揚化してクライマックスを迎えるフーガに遺憾なく発揮されて、私にとってはこの夜の何よりの収穫だった。
 ヒンデミットのフーガ(第4楽章)は左手のリズム提示で始まるが、この若きピアニスト(28歳)の左手は強靭かつしなやか。かくも性格を異にする右手と左手を持ち、その絶妙なバランスで全体の演奏を構成するというこの1点に焦点を当てれば、何やら白昼夢に迷い込んだような、奇妙な感覚のズレを覚える。だが、それを演奏として成り立たせる彼の両手の表現能力は圧倒的である。左手がむしろインテレクチュアルで、強靭ながらも大らかさをたたえており、右手を包み込むような柔らかささえ感じさせのに対して、右手はときにやんちゃな利かん坊ぶりを発揮する。包容力のあるスケール豊かな左手と闊達で自己主張の強い右手。つまり、コジュヒンの演奏にはあたかも性格が大きく違う兄弟が会話を弾ませているかのような図を彷彿させる面白さがあるということだ。
 さて、最後のブラームスは、意外な聴きものだった。7曲の奇想曲と間奏曲で構成されたこの幻想曲を、さまざまなドラマが明と暗を点滅させながらクライマックスに導いていく、まさに音楽による変化に富む壮大なファンタジーを繰り広げてみせたのだ。打って変わって柔らかなタッチと、入れ替わるように情動的な揺れとを交互に明滅させながら、物語を紡いでみせる。コジュヒンの体温が感じられる演奏で、こちらも温かくなった。第6曲のホ長調の間奏曲での粒建ちのいい安らいだ調べに、ふとシューマンの世界が見え隠れした。ひょっとすると、次回はシューマンかもしれない。
 ブラームスを弾き終えて、初めて小さく微笑んだ。良くも悪くも完全燃焼したコジュヒンなりの充足感の現れだったのだろう。


悠 雅彦
1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、朝日新聞などに寄稿する他、ジャズ講座の講師を務める。
共著「ジャズCDの名盤」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽之友社)他。本誌主幹。

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