Concert Report #699

パウル・バドゥラ=スコダ〜ラスト・コンサート

2014年6月5日(木)19:00 すみだトリフォニーホール
Reported by 悠 雅彦
Photos by 林 喜代種

1.幻想曲ニ短調 K397 (モーツァルト)
2.ピアノ・ソナタハ短調 Hob. XVI - 20(ハイドン)
3.4つの即興曲 Op 90, D899 (シューベルト)

---------------Intermission---------------

4.ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K595 (モーツァルト)
  指揮・ピアノ:パウル・バドゥラ=スコダ
  管弦楽:東京交響楽団

 長いこと会えずにいた知人と思いがけなく巡り会った。私にとっては何よりも、そんな懐かしさで胸が熱くなった至福の一夜だった。
 私がスコダの演奏を初めて耳にしたのはまだ中学生だったときで、むろんテレビなどがなかった昭和27、8年ごろ。今にして思えばスコダが初のカーネギー・ホールでの演奏会を成功させ、栄光のキャリアの本格的スタートを飾ったころではなかったかと思う。世はLP時代を迎えていたころ。当時の私の楽しみのひとつは、NHKラジオ第2放送で午後のひとときに放送される、クラシック音楽のレコード番組に耳を傾けることだった。むろんジャズの虜(とりこ)になる遥か以前のこと。学校の授業を放棄してまで夢中になって聴いた音楽の数々が、私にとってこの上ない糧となったことは言うまでもない。そんな中にスコダのモーツァルトがあった。その後スコダと三羽がらすをうたわれたイエルク・デームスやフリードリッヒ・グルダを聴いて、たとえば同じモーツァルトのソナタでもスコダとグルダではまったくといっていいくらいニュアンスが違うことに驚いたり、ときには違うモーツァルト曲を弾いているのではないかと面食らったりしたこともある。
 そのスコダが今、前方の舞台中央にいる。1927年(10月6日)生まれというから86歳。なるほど高齢ゆえの<ラスト・コンサート>なのだろう。とはいえ、ピアノに向かって歩く姿勢は86歳とは思えない。背も曲がっていないし、足早な歩きっぷりも老いを感じさせない。アンコールを弾き終え、熱烈なファンからのプレゼントを両手に抱えて舞台下手に引っ込んだときなどは何と小走り。客席の笑いを誘うほどのこの達者な一挙手一投足を見れば、そんな差し迫った”ラスト”でないことだけは間違いない。恐らくは東京までの長旅に耐えられなくなったのだろう。現に自身の弾き振りによるモーツァルトの協奏曲の全曲録音も進行中と聞く。老いてますますと言いたいくらいの溌剌とした活動が伝えられており、それは当夜の演奏でも存分にうかがえた。もちろん私が初めて聴いた半世紀以上も前のスコダではない。あのときの端正でありながら優美なたたずまいを脳裏に呼び戻していた私は、いわゆる枯淡の境地とは無縁の、明快で力強い打鍵に象徴される溌剌たる弾きっぷりに、最初は戸惑いを覚えた。しかし、次第に演奏の喜びを羽ばたかせるかのように自由な精神を謳歌する、開放的とでも言いたいくらい野に遊ぶ子供に帰ったかのようなスコダの現在の境地を私はいつしか堪能していた。二つや三つ、音をミスしたくらい、どうということはない。モーツァルトの「幻想曲」はやや硬かったとはいうものの、ハイドンの「ソナタ」ではソナタの様式性にきちんと的を絞った端正な演奏で、このときばかりは半世紀前のスコダの印象が甦った。
 第1部の<ソロ>で最も印象深かった演奏はシューベルトの即興曲。スコダはよほどシューベルトが好みとみえ、2年前の3月に来演したとき東京文化会館でオール・シューベルトの演奏を披露したことがある。そのときのコンサート評を興味深く読んだことを思い出した。この即興曲はついこの間(5月25日)、ロシアのデニス・コジュヒンの演奏会で聴いたばかりだが、流麗なコジュヒンとは対照的にスコダの即興曲はあたかも4楽章のピアノ・ソナタを聴くかのよう。事実、スコダは4つの作品の構造や骨組みに意を払って重層的な響きを導きだした。
 一方、第2部の演奏前に面白いハプニングがあった。スコダが演奏会でいつもこうしたサービスを披露しているのかどうかは知らないが、客席を和ませる軽いトークで第2部の幕を開けたのだ。あるいはよほど機嫌が良かったのか、体調そのものも良かったのか。ますますラスト・コンサートとは思えなくなってきた。幕開きでモーツァルトの「幻想曲」をなぜプログラムに選んだのかも、そのおしゃべりで分かった。ソニー・レコードの一時代を築いて3年前に亡くなった大賀典雄氏の可愛がっていた猫の愛聴曲、それがニ短調の「幻想曲」で、ほかのどんな曲を聴かせても知らん顔だったとか。軽井沢の別荘に招かれたときのエピソードを、スコダが子供のように喜々として話す仕草を見ながら、ステージでご満悦の笑みを浮かべているピアニストはもしかしたらスコダの化身かもしれないと、私は心底そう思った。でなかったら、<ラスト・コンサート>などとあえてうたうわけがない、と。
 トークの間に、東京交響楽団のピックアップ・メンバー、総勢30人ほどがピアノを取り囲むようにして演奏の体勢に入った。話し終えたスコダの指揮で始まった、恐らく彼がモーツァルトのコンチェルトの中でもとりわけ愛着の深い1曲がモーツァルト最後のこのピアノ協奏曲第27番だろう。開始前のトークでこの変ロ長調の至る所にモーツァルト独特の哀調が縫うように流れていると話したスコダの弾き振りは、第1部の硬さが嘘のように消えたピアノの心地よい響きが、よく彫琢された東京交響楽団の洗練されたアンサンブルと気持よく溶け合った、まさに偉大な作曲家に対するスコダの愛情がほとばしる素晴らしいモーツァルト像を描いてみせた。実に温かな雰囲気が聴く者を和ませる、あたかも微風が頬をなでていくような変ロ長調であった。
 最後のアンコールがモーツァルトの「グラスハーモニカのためのアダージョ」。変ロ長調の忘れがたい余韻が消えずに漂っている中での別れの言葉。最後の土壇場になって初めてスコダはこれが「サヨナラ・コンサート」であるとの思いが胸に迫ってきたのではないか。私にはそう見えた。このとき初めてスコダの胸に何かがこみ上げたように感じられたのだ。

悠 雅彦(ゆう・まさひこ)
1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、朝日新聞などに寄稿する他、ジャズ講座の講師を務める。
共著「ジャズCDの名盤」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽之友社)他。本誌主幹

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