Concert Report #818

イヴリー・ギトリスの世界( The World of Ivry Gitlis 2015 )

2015年5月6日 紀尾井ホール
Reported by 悠雅彦(Masahiko Yuh)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
イヴリー・ギトリス(ヴァイオリン)
ヴァハン・マルディロシアン(ピアノ)

<曲目>
1.ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第 28 番 ホ短調 K. 304
  (モーツァルト)
2.ヴァイオリン・ソナタ 第 3 番 ニ短調 作品108 ( ブラームス )

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3.幻想曲 ハ短調 K. 475( モーツァルト )〜ピアノ独奏
4.小品集
 イ.スケルツォ(ソナタより)(ブラームス)
 ロ.シシリエンヌ(パラディス)
 ハ.シンコペーション(クライスラー)
 ニ.タイスの瞑想曲(マスネー)
 ホ.愛の悲しみ(クライスラー)
 ヘ.美しきロスマリン(クライスラー)
5.アンコール曲
 ト.その1. スケルツォ(ヴァイオリン・ソナタ第5より)(ベートーヴェン)
 チ.その2.浜辺の歌(成田為三)

 音が客席を縫って耳に届いたとたん、ミッシャ・エルマン、フリッツ・クライスラー、ブロニスラウ・フーベルマンらの懐かしい音が私の脳裏によみがえった。とりわけ最近は思い出すことさえ滅多になかったあの甘美なエルマン・トーンや、フーベルマンによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のスラブ風な粘り気に酔いしれたセピア色の記憶が、ギトリスの演奏にのって舞い戻ってきたのだ。こんなことはついぞなかった。ジャズに熱中する前の、忘却の淵に沈んでいた淡い色の思い出が、ギトリスのストラディヴァリウスの奏でる宝石のような調べに乗って突然、飛び出してきたのだ。
 イスラエルはハイファ生まれのイヴリー・ギトリス。何と現在92歳! 1922年生まれといえば、アイザック・スターンやアルチュール・グリュミオーらとほぼ同じ。エルマン、クライスラー、フーベルマン、ティボー、シゲティ、ハイフェッツらからオイストラフやメニューインにいたる黄金世代の歴史を引き継いで、その伝統をじかに感じさせる最後の数少ない巨匠の1人であると、この日あらためて痛感した。
 ギトリスを生で聴くのが初めての私は、エキサイトしたというより、どんな贈り物が飛び出してくるのかと目を輝かせている幼い子供のように心弾ませながら、むしろ興味津々の気分だった。介添え役をも務めるピアニストのマルディロシアン(協奏曲の夕べでは日本フィルの指揮者をつとめた)と舞台に登場したギトリスは、そそくさと調弦を済ませたあと客席に手をかざして大きな声で何か言った。私の席からは座ったままでは彼の姿は視界に入らない。立ち上がって身を前にかがめ、辛うじて目に入ったギトリスはやや前屈みではあるもののすこぶる元気そうだった。その彼が身振り手振りをまじえながら大きな声をあげたのだ。どうみたって92歳の老人の声や仕草ではない。どうやら場内が暗すぎると言っているらしい。客席のライトを点灯せよ、と。やがて休憩時の明るさに戻ったところで、椅子に腰を下ろしたままモーツァルトの「ソナタ」を演奏しはじめた。短調の簡潔な2楽章構成。重音もほとんどなく哀調をたたえたシンプルな旋律が、ギトリスの楽器からほとばしる。構えたところもなければ、いわゆるクラシック・コンサートの堅苦しさとも無縁の、むしろ街のサンドイッチマンの気さくな雰囲気すら感じさせる彼の音楽(演奏)では、パリやウィーンの下町の猥雑性や人なつっこさと香り高い芸術性が何の違和感もなく同居し合っているようにみえる。こういうアーティストが今もなお健在であることに、私は驚きと喜びを感じないではいられなかった。
 休憩前のブラームスの演奏を聴き終えて、このニ短調の演奏に大きなスペースを割こうと考えたほど、繊細さと力強い生気が握手し合ったかのような凛としたブラームスは格別で、フレーズに横溢する豊かな表情や寛ぎは現代のどんな傑出した演奏家にもない心地よさをもたらした。どこから聴いても92歳の演奏とは思えない。前半のモーツァルトにしても例外ではないが、ギトリスの演奏を前にして重箱の隅を突くような小賢しい評文は断じて書くまいと肝に銘じた。彼がいかにも心から音楽を楽しんでいること、そのプロセスを私たちが聴いていること、そしてこの幸せな場に居合わせた幸運を感謝する以外に、彼を讃える方法はないではないか。
 モーツァルトもブラームスもむろん味わい深かったが、それ以上にマルディロシアンの独奏によるモーツァルトの「幻想曲」で始まった後半のプログラムにおけるギトリスの演奏こそ、あるいは彼ならではの真骨頂だったといっていいのではあるまいか。プログラムには「小品集」とだけあって、「舞台上より発表」との但し書きが添えられていた。誰の発案かは知らない。ギトリス自身のアイディアかもしれないが、これは長いヴァイオリン史の中のいわば黄金時代といってもいい20世紀初頭から後半にかけてのヴァイオリン演奏の最も香しい魅力を理屈抜きに味わい楽しめる30分だったと思う。「舞台上より発表」するのはギトリス自身。ブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ」からの「スケルツォ」では当時きってのヴァイオリニストでブラームスの友人だったヨーゼフ・ヨアヒムの話をひとくさり。残念ながらよくは聞き取れない。前半は椅子に座って演奏した彼が、このパートではしばしば立って演奏した。演奏の最後も大きなジェスチュアで客席の拍手を呼ぶ。大半がヴァイオリン愛好家なら誰でも知っている粒よりの小品ばかりを6曲。それらをときに愛でるように弓を操るギトリスは、クライスラーやエルマン、ティボーやフーベルマンらが妍を競いあった良き時代の香りを演奏の中にしのばせることができる、恐らくは最後のヴァイオリニストであることを強く印象づけた。たとえば、クライスラー曲ではあの優美な世界が甦るかのよう。ラグタイム調の「シンコペーション」の軽快感、今やヴァイオリンのスタンダード曲となった「愛の悲しみ」や「美しきロスマリン」。彼が演奏したメンデルスゾーンの協奏曲のSP盤を毎日のように聴いた日々のかぐわしさに酔った。クライスラー曲を挟んで弾いた「タイスの瞑想曲」を聴きながら、いつしかエルマンのスウィートな音色(ねいろ)に浸っているような夢見心地の気分さえも味わった。「美しきロスマリン」を終えたとたん、客席を埋めた超満員の人々がいっせいに立ち上がってのスタンディング・オヴェーション。
 そして型通りのアンコール。型通りとはいっても2曲めで成田為三の「浜辺の歌」を演奏したり、別れ際に母国イスラエルの古謡「ララバイ(子守唄)」で締めくくるなど、ファン・サービスを忘れないこの粋な老演奏家の立ち居振る舞いには目頭が熱くなった。願わくば、来年も聴きたいものだ。

悠 雅彦 Masahiko Yuh
1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、朝日新聞などに寄稿する他、ジャズ講座の講師を務める。
共著「ジャズCDの名盤」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽之友社)他。本誌主幹。

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