MONTHRY EDITORIAL02

Vol.49 | 「冬の喪」   text by Mariko OKAYAMA
photo(林光)by 大原哲夫


 このところ作曲家の訃報が相次いだ。昨年12月には三木稔が逝去し、今年1月には林光、別宮貞雄が日を近くして亡くなった。別宮は1922年の生まれ。三木は1930年、林はその1年後の1931年の生まれである。それぞれに異なった作風を持つが、およそ10年を隔てた一つの世代が終わったという気がする。
 年齢の順に言うなら、別宮は東大で物理を専攻、のち、美学科に入学、1950年に卒業後、パリに渡った。矢代秋雄、黛敏郎らとともに船で行ったという。別宮はD.ミヨー、O.メシアンらに師事したが、当時の前衛にはほとんど影響を受けず、ひたすらベートーヴェンを信奉したことで知られる。その作風も調性の明確な、いわゆる新古典主義と言われるもので、終生その姿勢は変わらなかった。ちなみにミヨーに自分の作品を見てもらうのに、気恥ずかしくて「作風が古くさいのでは」と一言付け足したら、ミヨーに「音楽に古い新しいの別はない」と言われ、驚いたそうだ。ミヨーは当時、前衛だったから。
 氏は桐朋の教授をしており、私が大学生だった頃、矢代秋雄、三善晃とともに、廊下を歩いているのをよく見かけた。矢代がどこか少年の面影を残し、三善が近寄りがたいオーラに包まれているのに対し、別宮は飄々とした雰囲気を醸し出していた。三人ともパリに学んだが、同時期の黛が(彼は、ここに学ぶべきものはない、と言ってさっさと帰国した)前衛のあとを次々と追いかけた末、東洋へと回帰したのに比べ、矢代はパリの空気をそこはかとなく残しながらも独自の世界を築いた。彼が早世したのは、いかにも惜しいことだった。三善もまた西欧の書法を取り入れつつ、前衛とは距離を置き、その創作の半ばから、反戦の作品群を書き続けた。
 私が氏と直接に知り合ったのは歌曲集『淡彩抄』(1948年)の評を音楽雑誌に書いてからで、その時、それを大変気に入ってくれ、葉書を頂戴した。そのあと、「別宮貞雄/管弦楽作品個展」(2001年)で、交響曲第5番(新作)発表の折り、フライヤに何か短文を書いて欲しいと言われた。氏の『智恵子抄』(1982年)が好きだった私は、別宮作品のイメージを持つため、福島へゆき、安達太良山を眺めたのであった。それを材料に、ちょっとした文章を書き、「個展」直後の3月、オペラ『有間皇子』のプログラムにもエッセイを書いた。それもまた、氏に喜ばれ、帝国ホテルで接待を受けた。私は、演奏家にしろ、作曲家にしろ、プロモーターにしろ、常に距離を持たねばならない、もしくは接触してはならない、なぜなら何となく親しみを持ってしまうと、批評に影響を及ぼされかねないから、という頑な信条の持ち主であった。にもかかわらず、招待を受けたのは<帝国ホテル>につられてしまったのだろうか。はしたない...。ちなみに同席したのはなぜか朝日新聞の記者だった。ともあれ、近年はちょっとした関わりを持ったところで、影響を受ける方が悪い、と思い至ってはいるが、やはり基本的には避けている。
 氏は、シンプルに、恥ずかしげもなく(良い意味である)、よく歌う音楽を書く作曲家だった。『交響曲第5番』もしかり。他の作曲家の新作にもたいてい足を運んでおり、しばしば会場で見かけたものだ。だからと言ってその作風になんの変化もなかったけれども。
 三木稔は、東京芸術大学作曲科で、池内友次郎、伊福部昭に師事している。彼の仕事ぶりを見ると、伊福部の影響がかなりある気がする。日本音楽集団(1964年設立)という、伝統邦楽の分野に新たな風を吹き込む斬新な音楽集団を立ち上げ、ちょうど武満をはじめとする伝統音楽の見直しと相まって、かなりな評判を呼んだ。私も無論、興味を持ち、評論の道に入ってからは、しげく通ったものだが、だんだんその手法が手慣れるにしたがって、足が遠くなった。
 オペラ『春琴抄』(1975年)は歌と器楽が見事に溶け合った名作だと思うが、近作である新国立劇場委嘱による瀬戸内寂聴台本の『愛怨』(2006年)は、私には不満だった。ある種の折衷主義にしても、山田耕筰のオペラ(オペラ作曲家はそれなりに居るが、山田の「黒船」より上をゆく作品は少ない、というのが私の見解である)ほどの完成度も感じられず、いま一つだなあ、何と言っても台本が悪い、などと思った。氏は長年、癌を病んでおり、寂聴に「自分は癌でいつまで生きられるかわからないのだから、早く台本を」と急かし、やっと出来上がったオペラであったのだが。その上演時のロビーは、いつにない華やぎというか、派手な女性客が多く、姿を見せた寂聴の周りには大きな人垣ができており、彼女が動くたびにその輪はぞろぞろと移動するのであった。

 


 三木は日本音楽集団での活動ののち、1990年に、やはり邦楽と西洋音楽を取り結ぶ、結アンサンブルを、1998年には邦楽創造集団オーラJ、楊静(中国琵琶奏者)を中心としたアジアアンサンブル(2002年)と、現代邦楽界で大車輪の活躍を続けたが、私にはどうしても心に響いて来るものがなかった。CDを聴いてみても、その流麗な音楽に、綺麗だな、と思うだけで、胸に引っかかってこないのは、私の耳の大雑把さでもあろう。これらの三木グループの集大成のような、東西音楽交流を目指す「八ヶ岳北杜国際音楽祭」(2006年から毎夏開催された)には、毎年、各国からの招待演奏家やグループが馳せ参じ、私もいつか行こう、と思っているうちに訃報が届き、遅きに失したと悔やまれる。おそらく、その書法から、日本でよりも、世界での評価が高かったのではないか。それも、やはり邦楽とのからみであることは間違いなく、それはそれで世界の作曲界に大きな影響力を持った作曲家だったと思う。氏とは接触もなかったが、ホールのロビーで見かける氏は、常に穏やかで端正な方であった。
 林光は、東京芸術大学作曲科中退。尾高尚忠に師事した。氏は何と言ってもオペラシアターこんにゃく座(1971年創立)の座付き作曲家、音楽監督としての活動が最も良く知られているのではないか。こんにゃく座は、最初8人の団員から出発したそうだが、いわゆる室内オペラで、伴奏もピアノだけで(小規模なアンサンブルの場合もある)、独特の発声法(いわゆるベルカントと異なる、日本語の発声に沿った形のもの)で歌われ、日本語が字幕などで補強されるようなオペラとは全く異なる方法論を持っていた。私もその初期のステージから、かなり通った。わけても『白墨の輪』(1978年)は忘れがたい。二人の母親が、子供を自分の子であると主張し、裁判官が、白墨で描かれた輪の中に子を立たせ、手を引っぱり寄せた方が母親である、としたところ、子が哀れで手を引っ張らなかった方の母親を親として認めた、というブレヒト原作の作品である。ピアノと歌とが見事にマッチした緊迫のステージで、この座の特性が良く現れていた。そのあとも時間のあるときは観に行っていたが、作曲が萩京子になったあたりから興味が後退した。これは好みの問題だろう。
 また原民喜の詩による合唱曲『原爆小景』も氏のライフワークで、第1章の『水ヲ下サイ』(1958)から、13年ののち『日ノ暮レチカク』『夜』が書かれた。最後の『永遠(とわ)のみどり』はそれからまた30 年近くの歳月を経た2001年に書かれている。氏は『原爆小景』に象徴されるように、社会問題への発信を当初から貫いた稀少な作曲家であり、そのことが、良くも悪くも聴衆を選んだという気がする。それはたとえば三善晃のそれとは全く異なるもので、そこにいわゆるプロレタリアート運動の影を見たひとも多かったのではないか。
 氏は長らく、朝日新聞の評者でもあり、私は欠かさず読んでいた。あるとき、氏が隣席となったおり、丁度、批評のことで悩んでいた私は、氏に訊ねた。「良くないと思った場合、どうなさいますか?」と。というのも、まだ若かった私は、新人だろうが、有名人だろうが、自分の感性に訴えるものがないと、ばっさり新聞紙上で切り捨て、悪名高い生意気な批評家として業界に嫌われていたのである。ブーニン・ブームのとき、ちっとも良くない、と言うような内容の評文を書き、ファンから刃物同封の封書が新聞社に送られてきた、というようなウソみたいな話もあった頃のことだ。
 ともかく、私の問いに、氏はこう言った。「判る人には判り、判らない人には判らない、そういうのが優れた批評というものです。」と。私は少々むっとして、「ふん、逃げたな」などと内心思ったのであるが(何しろ若かった)、今になってみると、それがどれほどの技術であるか、思い当たるのである。原則として、自分が評価できないものは、パスする。どうしても書かねばならない場合は「判る人には判り、判らない人には判らない」そういう批評を書く。それがプロの技術というものだ、と最近つくづく思う。
 ともあれ三者三様の生き様と音楽を顧みて、別宮のように歌う人も、三木のように邦楽とのコラボレーションに夢中になる人も、林のように社会性を帯びた作品を発信するひとも、現在の70代以降にはもう居ない、とはっきり思う。
 三人の作曲家の作風はそれぞれでも、どの作品にも自身の軸というものがブレずに示されている。その軸を持つ人は、見回したところ、彼らの世代の周辺以降、ほとんどいない。作品の解説で、しきりにその軸を<書く>作曲家、プレトークで<喋る>作曲家は山ほどいるけれども。
 ともあれ、相次いでの逝去、御冥福を祈りたい。(2月6日記)



別宮貞雄


三木稔


林 光

丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

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NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
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