MONTHRY EDITORIAL02

Vol.52 | 「吉田秀和氏のこと」   text by Mariko OKAYAMA


 巨星、墜つ。吉田秀和氏がこの5月に逝去した。享年98歳。批評家、と呼べる真の人だった。
 長年にわたる吉田氏の仕事については、また改めて書くこともあるかと思うので、ここでは個人的なことどもを書かせていただく。

 私が鎌倉の氏のお宅をはじめて訪ねたのは、拙著『吉田秀和論/なお語りたき音』(楽社)を携えてのことだった。その日は雪で、はじめての訪問にお宅を探しあぐね、約束の時間を20分もすぎていた。さぞかし御不快だろうと身のすくむ思いだったが、氏は「やあ、雪のなか、よくいらしたね。」と温かく迎えてくださった。一時間ほどの会話の中で、私は何を言ったのか覚えていない。氏が何を語られたかも覚えていない。ただ、午後の雪明かりに、逆光を浴びて端然と座る氏の美しい銀髪と穏やかな眼差し、そして庭の紅梅につもる雪に、ついと飛び立つ小鳥の姿が、今も脳裏に焼き付いている。
 2度目の訪問は、私が新しく創ろうとしている批評紙に、お力を御借りしたい、とのお願いをしに、だった。近くの花屋で求めた薄紫の花束を、氏はご自分で花瓶にいけられ、私の話に静かに耳を傾けて下さった。音楽学者、音楽評論家、音楽ライター、音楽ジャーナリストなどと名乗る人々が満ちあふれる昨今の批評の在り方に強い疑問を持っていた私は、批評と呼べる文章が、どうしても欲しかった。それは吉田氏のものでなければならなかった。「原稿料は支払えません。でも先生の文章が欲しいです。」と私は言い募った。氏は微笑しながら、「若い人たちだけでおやんなさい」とやんわりおっしゃった。
 私は心底、がっかりし、氏の邸宅を辞して、近くの蕎麦屋で蕎麦をすすった。朝日新聞に一本書くのがやっとで、もう自分は書けない、という氏の言葉は、私の胸に突き刺さり、哀しく、また腹立たしくもあった。
 氏の処女作は『ローベルト・シューマン』(『主題と変奏』吉田秀和全集2/白水社)である。氏は冒頭で「僕にはGegenliebeというものが、まるで信じられなくなっていた。人間と人間との関係を規定するものは、憎悪だけだ。一方から他方への愛はありうるが、それは、もう一方にとっては堪えがたい重荷であり、正直なところ人間には他の人間が存在することが許せないのだと思っていた。僕は、生きるということが、自分のなかに何の確信もあたえてくれないことを悩んでいた...。」と語りだしている。
 一方から他方への愛はあっても、その手を握り合えることは決してない、というこの文章を最初に読んだ時から、私は激しく反発していた。それなら、芸術行為は何の為にあるのか。それについて語ることにどんな意味があるのか。批評とは、その両者の手を繋ぐことではないのか。そうして、そこにこそ、氏の今日までの批評の道のりがあるのではないか、という内容の手紙を、そのとき送った。  

 


 私はそのあと、もう一度、吉田秀和論を書いた。前掲の書に、氏の絵画論への考察を加えたもので『音追いびと』(アルヒーフ)と名付けた。このときも、本を携えて伺った。氏は、いかにも未熟な私が、自分のことを2度も書いたことに、微笑されていた。
 時がたち、氏は愛妻バルバラ夫人を亡くされ、その筆は沈黙を続けた。もうこのまま、氏は書くことを断念するのだろうか、と私は思った。長い時をおいて復帰されたときは、心からほっとしたのであった。
 氏はそれから、『永遠の故郷』というエッセイを4巻出版した。『夜』『薄明』『真昼』そして『夕映』(集英社)。その『夕映』の終章に、氏はシューベルトの『冬の旅』から『菩提樹』を選んでいる。氏はこの曲を、陰鬱な空気で埋められている『冬の旅』のなかで、珍しく長調(全24曲のうち長調の曲は7曲)で書かれた「仄暗く、生暖かく、底の深い、肉感的な肌ざわりと魅惑に満ちたホ長調の曲である。」と語っている。そうして、この曲が、トーマス・マンの『魔の山』の最後、物語の主人公が、友とともに戦線で闘いながら死に直面する中で、無意識に歌われていることに強い衝撃を受けている。
 「枝のさやぎが耳から離れない
  君の心の安らぎはあすこにあるんだよ。」
 そうして、こう続ける。
 「私は思う、生と死は二つの別のものだが、同時にまた、いま読んだばかりの二人の戦友仲間のようなものである。この二人は仲良く並んで、敵の砲火を避けようと泥濘の中に、深く顔を突っこんで伏せているうち、降り注ぐ弾丸の雨の下、見分けのつかない一つのごちゃまぜになってしまうものかもしれないのだ。」と。
 最初に書かれたシューマンのエッセイで、「人間には他の人間が存在することが許せないのだ」と書いた時から、60年あまり。『魔の山』の最後に歌われるシューベルトの『菩提樹』に、「生と死」、二人が見分けのつかない「一つのごちゃまぜ」であることを見出し、氏はこのシリーズを締めくくった。そこに氏の批評の到達点を見ることができると私は思う。

   2006年、氏は文化勲章を受章し、帝国ホテルで記念パーティーが開かれた。人々がいっぱいにホールを埋めるなか、氏はしつらえられた正面のステージに腰掛け、祝辞を受けていた。私は、さまざまな祝辞の終わったあと、氏に挨拶をしに近寄った。私を認めた氏は、ひとこと「いい仕事をしていますね。」とおっしゃった。私は嬉しかった。本を出すたび、そして3年間しか続かなかった批評紙を、臆面もなく氏に送りつづけたものを、読んでくださっていたのだ。
 差し出した私の手を握って下さった氏の掌は、柔らかく、温かかった。

合掌。


丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

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