MONTHRY EDITORIAL02

Vol.53 | 「絶対音感と相対音感」   text by Mariko OKAYAMA


 かつて「絶対音感」についての本が出版され、話題になったが、音楽家はこの絶対音感を持っている人が圧倒的に多い。
 絶対音感とは、たとえばA(ラ)の音が固定されて存在している耳のことで、これを持っているひとは、周囲の音、たとえば車のエンジン音でもそれがなんの音程かがわかるのである。したがって、全ての音に音程(もしくは音名)がくっついて聴こえるわけで(意識すれば、の話だが)、絶対音感を持っているひとは、わずらわしく思うことがあるそうだ。
 私は絶対音感を持たない。相対音感で、こちらは例えばE-dur(ホ長調)の音楽でもE(ミ)の音をドとして聴いてしまう。したがってどの音階でも耳は勝手に移動してしまうから、おおざっぱな話、ミソシがドミソに聴こえる。オーケストラや室内楽のような作品でAの音をそろえるよう、微調整するのは、このAを基音として、全員が同じ音程を共有するようにする作業である。こういう時、絶対音感を持つ人はちょっとした音程のズレでも気持ち悪くなる。もっとも相対音感の人でも基音(主音)とのずれは判るし、気持ち悪い。ぶら下がり気味の音とか、高めにうわずった音とか。ただ基音が半音(Aの音がA#とか)違っていても、それがドに聴こえてしまうのである。
 私はソルフェージ(楽譜に書かれている音を正確に歌う訓練)のレッスンのとき、自分の相対音感で非常に苦労した。初見(初めて楽譜を見て歌ったり弾いたりすること)で歌うテストでは、課題がC-dur(ハ長調)で出ることは絶対といっていいくらいない。したがってE-dur の曲でもE が私の中ではドになってしまうので、ドと思える音を瞬時にミと歌い変えねばならなく、複雑なことこのうえない。そうして、跳躍音程(かけ離れた音程)にでもなろうものなら、この翻訳操作が追いつかず、めちゃくちゃになるのである。入学試験でも当然ソルフェージがあるから、私が相対音感であることを知った先生は、必ずレッスンの前に、Aの音を出せといって、私にAの音を植え付けようとした。おかげでAの音は刷り込まれたが、それでも全ての音をAを中心として測り、頭の中で出だしの音をAとの距離から歌い始めるという困難な作業をしなければならなかった。
 音階にはそれぞれのカラーがあり、作曲家は必然性を持って音階を選択するわけで、これがわからないというのは、職業柄、大きなマイナスである。もっとも私は演奏を前にして、それが何調であるか、など、ほとんど気にしないのだけれども。が、ともかく、C-durの曲と半音高いCis-dur(嬰ハ長調)の曲を区別することは私にはできないのである。
 私は自分が相対音感であることをとても不便と思っており、周囲のほとんどが絶対音感の持ち主であることをうらやんで来た。以前ヴァイオリンの先生に、ドからはじまるそれぞれの音階がはっきりと異なったカラーを持つことを教えられた時は、やはりショックだった。ただ、音楽そのものは相対音感でも別に聴き取りに問題はないし、カラーのイメージも持てる。そう悲観的になることでもない、と自分を慰めてきたのであった。
 ところで、先日、脳科学者の小泉英明氏と歌舞伎の市川團十郎の対談『童の心で』という本を読んでいたら、小泉氏は相対音感は人間にしかないものだ、と言っている。一般的に絶対音感は音楽家特有の音楽的に高レベルの才能と理解されているけれども、人間が進化して獲得した能力は相対音感のほうだ、というのである。

 


 なになに、相対音感は人間だけが持つものなのか? と私は興味深く読み進んだ。基本的に動物は絶対音感で、相対音感はもてない。チンパンジーなら、せいぜい3つぐらいの音の動きを移調(音階を移動させる)して聞かせると、同じであると認識できるそうだ。 最近になって、歌を歌うことのできるムクドリが、もう少し高度なことができるということがわかってきたという。
 相対音感は人間の特徴の一つで、私たちのしゃべっている言葉にしても、ソプラノの言葉とバスの言葉を同じだと理解できるのは相対音感のほうで、逆に絶対音感の人は上の音程で言っていることと、下の音程で言っているフレーズが別物に聴こえるそうだ。これは極端な例だと思うが(私には絶対音感の世界が判らないから)動物が絶対音感であることは、なんとなく理解できる。敵の襲来や、仲間同士の呼びかけ、応答に反応するのに、相対音感では困るだろう。そんな能力は彼らには必要ないのである。
 それならなぜ人間は相対音感を持つことになったのか?思うに、おそらく人間同士のコミュニケーションが相対音感を要求したのではないか。人間は十人十色というように、それぞれが固有の声音(こわね)を持ち、その声音でしゃべる。ではあるけれど、会話のとき、バスの人がドスのきいた低い声で、あるいはソプラノの人がさえずるような甲高い声で話すことは、まずない。もっとも、ソプラノの歌手が、やや高めの人工的な声で話すのは、やはり職業が染み付いているせいだろう。いずれにしても通常の会話では、お互いに中音域で、相手の音程に自然と合わせて話し合う。これはやはり相対音感のなせる技ではなかろうか。
 また、たとえば演説などは、いつもより音程を高めて叫ぶように話す。ヒットラーの演説や、オバマの演説もこの効果をねらったものだ。テンション(音程)を上げれば、相手を説得、もしくは威嚇する効果がある。逆に相手を脅すときは(金を出せ、とか)、低い声になる。あるいは、助けを求めるのに、人間は低音は出さない。金切り声をあげなければ緊急の事態を誰かに伝えられないからだ。
 そんなふうに人間は声音を使い分ける。それには、相対音感が必須となるのではなかろうか。では、絶対音感の人たちのメカニズムはどうなっているのだろう。残念ながら私にはわからない。
 小泉氏は團十郎に、邦楽の場合はどうなのか、たずねている。團十郎の答えは、邦楽の場合、譜面がないから、ひたすら先生の声音にあわせて歌うことになると言う。譜面がない、というのは、そもそも採譜できるような明確な音程やリズムがないからである。したがって、ソルフェージなどは意味がない。つまり、音にドレミという音名をつけること自体、ナンセンスなのだ。
 考えてみれば、記譜法(音の高さや低さを楽譜に記す)が発明されたのは、人類の歴史からみれば、ごく最近のことであって、それ以前は全て口伝でことはすんだのだ。つまり邦楽の世界と何ら変わりない。したがって、絶対音感や相対音感にこだわるのは、近代の西洋音楽の範疇のみと言えるのではないか。どちらにせよ、音楽を楽しむのに、絶対も相対もなかろう。私たちは「素晴らしく輝かしいE-durだった。」とか「なんとも物悲しいd-moll(ニ短調)であった。」などとは言わないのだから。
 と、小泉氏や團十郎の言葉に、やや意を強くしたことであった。


丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

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