MONTHRY EDITORIAL02

Vol.55 | 「アカデミア・ユリコ・クロヌマの閉校をめぐって」   text by Mariko OKAYAMA


 ヴァイオリニストの黒沼ユリ子氏がメキシコで創立したアカデミア・ユリコ・クロヌマが、今年の6月末をもって閉校となった。黒沼氏は、56年日本音楽コンクールで優勝ののちプラハに留学、以降、国際的に活躍するかたわら、80年にメキシコシティのコヨアカン地区に幼、少年少女のための弦楽器専門の音楽アカデミーを開設、以来32年にわたり、その指導を行ってきた演奏家であり、教育者である。その間、メキシコの才能ある若手演奏家たちを数多く育て(本誌ディスク・レビューでご紹介したA・ユストゥスもその一人 http://www.jazztokyo.com/five/five895.html)、2007年にはその功績に、メキシコ政府から、音楽家に贈られる最高の栄誉であるモーツァルトメダルを贈呈されている。日本でも、日本とメキシコを結ぶ音楽交流への貢献により、今年、旭日小綬章を受章した。今回の閉校は、その長年の活動に終止符を打つものだが、そこには昨今の世界の政治、経済、社会状況の大きな変化が投影されている。氏はアカデミア閉校の主な理由を3つ挙げている。
 第一に、メキシコ市内における治安と交通渋滞の悪化。加えてソ連邦・及び東欧社会主義崩壊後の国々からのヴァイオリニストたちのメキシコへの大量移住により、中流以上の家庭の子弟たちは、自宅での出稽古を廉価で申し出る彼ら教師に習うことを優先し、妻の運転する車で子供がアカデミアに通うことを夫が許さなくなったこと。
 第二に、インターネットの急速な浸透により、子供や学生たちが自宅でパソコンと向き合う時間が大幅に増え、毎日、何時間かの自習が必修のヴァイオリンやチェロの練習に興味を示す者が激減した。  第三に、一般に「ベネズエラ方式」と呼ばれる音楽教育システム(エル・システマ)から生まれ、現在ヨーロッパはじめ日本でも高く評価されているシモン・ボリバール交響楽団や、同システムで育ち、今や世界の楽壇で最も活躍する指揮者となったグスタボ・ドゥダメルらの存在に刺激され、メキシコでも10年ほど前に国立少年少女交響楽団が創立され、国家文化芸術審議会(日本での文化庁にあたる)直属の管轄下で、全国で子供たちへの無料音楽教育に力を入れ始めた。そこでは奨学金の名目で毎月メンバーたちに数千ペソ(数万円)の現金支給があり、低所得家庭への経済援助をも兼ね備え、生徒たちの多くがそちらへ流れていった。
 こうした事情により、アカデミアは生徒数も激減、幼、少年少女の唯一の音楽教育の場としての存在意義が薄らぎ、存続が不可能となったとのことだ。
 近年注目されているエル・システマとは、1975年にベネズエラでスタートしたクラシック音楽の教育制度(3歳〜19歳)で、子供たちに無料で楽器を貸し与え、音楽の素養や技術、アンサンブルなどを教えることで、彼らの心身の健全な発達を助けるというものである。音楽教育が、とりわけ問題をかかえる貧困層の子供たち(少年院出や孤児なども含む)の荒んだ生活や心を癒し、未来への希望を与え、地域の社会変革にも大きく役立つ、ということで世界的に大きな反響を呼んでいる。
 アカデミア・ユリコ・クロヌマは、いわゆる貧困層の子供たちを対象としたものではなく、月謝(格安)が払える中流以上の、だいたいが音楽家か音楽愛好家を中心とした家庭の子弟だが、月謝が払えなくとも才能があり、熱心に学ぶ子には月謝免除の制度が設けられた。その意味では、エル・システマにならぶ貢献を、民間で果たしてきたと言えよう。
その熱意と努力には大きな敬意を表したい。

 


 また、アカデミアには、1983年のメキシコ通貨大暴落の際に日本から寄贈された大小のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが100台ほどあり、それらは国家文化芸術審議会を通じメキシコの地方の貧しい子供たちに贈られることになったという。日本からの善意が、こうした形で伝えられることもまた、黒沼氏のすぐれた決断によるもので、日本とメキシコの友好親善に大きく役立つものとして賞賛されよう。
 黒沼氏は、アカデミア・ユリコ・クロヌマでの活動以前に、差別や抑圧に苦しむアメリカの原住民インディヘナが住むメキシコの田舎で、現地の貧しい子供たちにヴァイオリンを教えている。プラハで知り合い結婚した夫君(メキシコ生まれ)の仕事に同伴し、現地で生活をしていた頃のことである。窓辺から漏れる氏のヴァイオリンの響きに心惹かれた子供たちの、ヴァイオリンを習ってみたいという願いに触れ、まともな楽器もないところから手探りではじめたレッスン(ボランティア)で、子供たちの知る賛美歌や土地の歌がその手がかりであった。貧しくとも彼らの生活のなかにあふれる歌や踊りをヴァイオリンの合奏や伴奏でもっと楽しめるように、その手助けができたら、というのが氏の気持ちだったという。学校の備品として用意された数台を、子供たちが順番に使いながら練習する、というスタイルだったが、レッスン開始の2、3週間ののちにはいくつかの賛美歌が弾けるようになった。教会の礼拝でその腕が披露されたとき、氏には様々な思いがめぐったという。ヴァイオリンを手に、ほころびだらけのシャツとズボンに裸足で並ぶ音楽班の子供たちの背を見つめながら、差別や貧困とは別世界にいる氏自身の生活を改めて振り返らざるを得なかったのだ。演奏家として日本や世界各地を飛び回る「持てるもの」としての自分と、「持たざるもの」として生まれてきた子供たちとの間の絶対的な格差。日本から贈られた100台の楽器が、こうした子供たちの手に渡るように、との氏の願いには重い実感がこもっていると言えよう。
 日本人で国際的に活躍する音楽家は数多い。が、黒沼氏のように、社会の底辺に暮らす子供たちと、レッスンを通し実際に関わった経験を持ち、また、決してエリートに偏らない音楽教育の場を異郷に立ち上げ、それをここまで継続させた人はいない。今回のアカデミアの閉校は、時代の大きな変化の波がもたらした一つの現実だが、32年にわたる音楽教育の成果は、確実に実っている。氏は閉校ののちも、メキシコでの音楽教育に様々な形で携わってゆくとのことである。今後のさらなる活躍を祈りたい。

★ A・ユストゥスの新ライブ・ディスク&DVD(2012年1月19日@紀尾井ホール)「パガニーニ/カプリス全24曲ライブ」http://adrianjustus.com/aj1001.htm
次回のコンサートは2013年1月17日@紀尾井ホール


丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

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