Vol.55 | エキサイトさせられた2冊の新書

text by Masahiko YUH

 何年か前のことだが、邦楽演奏会の会場に外国人の姿がちらほらと見かけられるようになったとき、時代が足早に変化しつつあることを実感したことがある。そのときのことをふと思い浮かべた。あのとき、私は時代が急速に変化しつつあると感じた以外には何もない。邦楽の愛好者に外国人がいても不思議はないし、ましてや優れた外国の演奏家の邦楽演奏を聴くことも、時には海外から邦楽作品の新作に接することさえ決して珍しくはなくなった今日、地歌、謡曲、雅楽、能楽、等々の我が国の伝統邦楽に魅力を感じる人が1人でも増えたらむしろ嬉しいし、それに愉快ではないか。外国で生まれ育った人が邦楽に興味を示すのと、その昔私がクラシック音楽やジャズに学業そっちのけでのめり込んだこととの間に、いったいどんな違いがあるというのだろうか。私のジャズやクラシック体験を思えば、邦楽の魅力に取り憑かれる外国の音楽ファンがいて当たり前で、それ以上も以下もないというのが私の考えだった。武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」を聴いて、あるいは山本邦山の尺八によるジャズ演奏を聴いて、邦楽に興味を持つようになった外国人だってきっと少なくないはずだ、と。
 こんなことを思いめぐらせたのも、実は、中国出身の美人ピアニストとして評判が高いユジャ・ワンをめぐって展開される『ピアニスト』という新刊書(アルファベータ社)と出会って、突然、脳髄を刺激されたからである。この本は6月某日、黒沼ユリ子のDVD試写会の会場で紹介された翻訳者の鈴木光子さんから直接いただいた。鈴木さんのあとがきによれば、原作は2010年にスイスのゾエ社から発刊されたもの。著者のエティエンヌ・バリリエはスイスのフランス語圏を代表する作家・評論家で、昨年には来日講演もしているとあった。バリリエは、近年、国際的なピアノ・フェスティバルが開催されていることで世界的に知られるようになったフランス南部、エクサン・プロヴァンス郊外の村ラ・ロック(La Roque of Anteron)で、1987年に北京で生まれ、その後米国へ渡って研鑽を積み、国際的な名声を博するようになったユジャ・ワンの演奏に接してこの本を書く決心をしたらしい。巻末に付録された彼の日本における講演「東洋におけるヨーロッパ音楽」の中で、極東の大国(中国、韓国、日本)の若い音楽家たちが時にはヨーロッパ人以上の目覚ましい達成を果たしていることに衝撃を受けたバリリエは、「本を書くことによって肉づけしたいと考え」、「二人の人物による哲学的で情熱的な対話の形式をとることとし」、著作に「『中国のピアノ』(邦題は『ピアニスト』)という題名をつけました。しかし場面を変えて『日本のピアノ』としてもよかったのです。そして、そこにユジャ・ワンという若い中国人の女性ピアニストが現れたのです」と書いている。
 著作は、この二人の評論家がユジャ・ワンというピアニストの演奏(本著ではユジャ・ワンはメイ・ジンなる名前に変えられている)をめぐって、それぞれのブログで論争を開始することに始まり、やがて誰もがアクセスの可能なブログから個人的なメールのやり取りに舞台を移していつ果てるとも尽きぬ論争をたたかわす。1人は音楽評論界の重鎮的存在、対抗するもう1人は彼の影響圏から出発しながらよりプログレッシヴな評論を展開している気鋭の批評家、と思えばよい。メイ・ジンによるスカルラッティのソナタのフーガに奇跡的な驚異を見出した前者に対し、後者は「男の匂いをプンプンさせた道化のラン・ランのあとは、メイ・ジンの女っぽい手練手管か」とか「すぐれた手品」と揶揄し、ショパンの葬送ソナタにいたっては「まるで死骸のトルコ行進曲」とか「無信心な泣き女の挽歌」等々、容赦ない。こうしたやり取りの応酬がブログやメールで、これでもかと闘わされる。しかし、どれほど執拗な論戦が闘わされても、これはあくまでも著者の創作であり、フィクションなればこその気持ち悪さは否めない。ましてやテーマがテーマだけに居心地がいい論争になったとは私には言えない。もしユジャ・ワンがこれを読んだらどんな反応を示すだろうかと、そちらの方に興味をそそられる。
 私に言わせれば、2人の評論家にファンの声やバリリエ自身の主張などいっさいを代弁させるフィクション設定に、中身の面白さは別にして、クラシックという芸術音楽を生み出し金字塔に仕立て上げたヨーロッパ人の自負が良くも悪くも見え隠れする作品にも見えた。近年、さまざまなコンクールやコンペティションで「極東の大国(中国、韓国、日本)」の出場者が優勝したり、上位に入賞したりするニュースが珍しくはなくなり、むしろヨーロッパの若手演奏家がレースから置いてきぼりを食っている印象さえ与えかねない、以前には想像もつかなかった現在の状況に苦々しさや苛立たしさを感じていることが、東洋の演奏家に無分別な中傷を発したり、この『ピアニスト』のような著作が生まれるひとつの否定できない背景となっているような気がしてならない。

 二人の批評家が互いの芸術感や思想性を砦にしてたたかわす考え方の違いはむろん、起こるべくして起こった論争の面白さで一気に読ませるだけでなく、この『ピアニスト』はそれが旺盛であればあるほど知的関心を刺激してやまないアクチュアルでさえある対話となっている。その点で言えば、極めて刺激的な内容だ。
 ところが、日本での講演をまとめた付録『東洋におけるヨーロッパ音楽』を丹念に読むと、気になる文章に出くわす。たとえば、「ヨーロッパの音楽(日本でいう西洋クラシック音楽)はヨーロッパそのものです。それだからこそ、こうしたヨーロッパの音楽の持つ普遍性と、それを非ヨーロッパ文明が受け容れることができたという理由が、かつてないほどの激しさをもって浮上してくるのです」と言うバリリエは、明らかにヨーロッパ人(ユーロ圏をつくりあげた国や人)であって、コスモポリタンではない。「ヨーロッパの音楽はヨーロッパそのものです」と、こんな分かりきったことを何故わざわざヨーロッパ音楽を愛する日本の音楽愛好家を前にして言わなくてはならないのだろうか。邦楽の演奏家や評論家が邦楽が好きで集まった聴衆に向かって「日本の音楽(邦楽)は日本そのものです」などというだろうか。米国のジャズ評論家はアメリカのジャズは米国そのものですなどとは決して言わない。私などは、ヨーロッパのクラシック音楽が全世界の人々に愛され親しまれているという、世界で稀な普遍性を持つにいたっていることを思えば、これ以上にいったい何を望む必要があるのだろうかと思わざるを得ない。「ヨーロッパの音楽の持つ普遍性と、それを非ヨーロッパ文明が受け容れることができた」こととの間に何らの違和感も感じない私とバリリエ氏とでは、私には想像もできないほどの深い溝があるのかもしれない。ユジャ・ワンが、ヨーロッパのピアニストと同じように、あるいはそれ以上にヨーロッパの音楽を演奏できるということが、彼にとってそれほど重大事であることを暗示しているが、裏を返せばユジャ・ワンがそれにふさわしい才能に恵まれた屈指のヤング・ピアニストだという事実以外には何もない。
 なお最後になってしまったが、鈴木光子氏の訳文は丁寧で、日本語の知的な香りがエレガントな雰囲気を生み出すことに成功していることを言い添えておきたいと思う。

 もう1冊は確か昨年の暮れに上梓され、今年の初めには新聞や雑誌などで盛んに取り上げられて“時の人”になった観さえある相倉久人氏の『至高の日本ジャズ全史』(集英社新書)。それやこれやで当方は紹介する機会を逸して、とうとう今日になってしまった。というのは外交的な言い訳である。包み隠さずいえば実は私にとって相倉久人という御仁はいわば師匠のような存在だった。といって、当時の私には一面識もない先輩である。相倉さんの方が失礼なといって血相を変えられるかもしれない。お恥ずかしい話だが、私がジャズについての執筆を開始し始める直前、腰を据えて読み、参考にした本はたったの2冊だけである。1冊が、知識としてのジャズの歴史をおさらいさせてもらったヨアヒム・ベーレント著(油井正一訳)「ジャズの歴史」で、もう1冊が相倉久人著「ジャズからの出発」(音楽之友社)。1967年7月半ば過ぎ、ジョン・コルトレーン死去の報に接した瞬間、電撃的に音楽についての執筆に踏み出そうとした私にとって、相倉さんの著書はまさにジャズから出発しようとする一青年(といってさほど若くもなかったが)への指針となる覚え書きのようなものとなり、何度も読み返したものだった。
 ところで本書は、ジャズが日本にやってきた大正時代の黎明期から話が始まり、相倉さんのジャズ人生の出発点となった有楽町の喫茶「コンボ」での人脈形成と、時には八方破れに似た奔放な人付き合いや決心したら後へは退かぬ相倉流行動術が核になった、筋書きの展開の面白さで一気に読ませる。展開の面白さと言ったって、相倉氏自身が体験した実話に基づいているからこその面白さであって、中には彼の執筆で事情が分かって、腹を抱えるよりむしろ思わず“ほんとにそう?”とびっくりさせられることさえ少なくない。
 これがその1例になるかどうか。略奪したピストルで何人もの人を殺害した永山則夫事件を映画にした足立正生に指名され、音楽監督になった彼が良き仲間であるはずの山下洋輔ではなく富樫雅彦を起用したこと。あの悲しい事件はこの直後に起こった。富樫はこの音楽を12月18日(1969年)に日本コロムビアで録音し、発売を控えた70年の新年早々、彼が最も信頼する女(ひと)からナイフで背中を刺され、下半身の機能を失う事件が起こったのだ。ちなみに、彼が全身を使った最後の吹込となった本録音は、下半身を失った彼の念の入った編集作業の後『アイソレーション』のタイトルで発売された。この映画音楽に山下が絡んでいるとはつゆ知らなかったが、それはともかく、ジャズの執筆者として文章を書く喜びを味わい始めていた私が最初に心を通わせたミュージシャンが富樫雅彦であり、事件直前に彼と親しく話を交わしていたことも手伝って私にとってももっとも信頼に足る恐るべき音楽的才能を開花させつつあったプレイヤーとして永遠に忘れられない1人となった。
 そして、山下洋輔とのなれ合い批判など幾多の中傷を経験した相倉氏はこう結ぶ。「いわれのない文化人に対する言論弾圧も醜さを増していった。ぼくはそのことを機に、ジャズ評論家としての活動、ジャズを刮目し言葉で拮抗するゲリラ活動の一切を停止することにした。要するにつまり、ぼくが語ることのできる<日本ジャズ史>はここまでということになる」、と。
 「いわれのない文化人に対する言論弾圧」の仔細については、ぜひ本著書をお読みいただきたい。この件(くだり)を読むと、私は69年からジャズについての執筆活動をしていますなどと、とてもじゃないが口はばったくて言えはしない。しかもである、よりによって彼が活動を停止したとき、彼と入れ替わるようにしてジャズ執筆の緒に就いたのが私だったということになる。そうであれば、「相倉さん、このたびは著書のご上梓、おめでとうございます。ご本の素晴らしさをぜひ吹聴させて下さい」などど、言えるはずがないではないか。 そうこうしているうちに日にちだけがどんどん経ってしまったということだ。
 それにしても、相倉さんが当時は司会者(MC)として八面六臂の活躍をしておられたとは詳しくは知らなかった。ましてや新宿ピットインの専属司会者だったとは。69年の晩秋だったか、私が物書きとしての人生を歩み始めたころ、そのピットインに「ニュージャズ・ホール」が誕生した。日本のフリー・ジャズがお仕着せを脱して独自の道を切り開くひとつのきっかけともなった場所で、相倉氏の説明では「ピットイン」の上階にあった楽器置き場が改装された新装のホール。当時足しげくここへ通っては意気盛んなフリー・ジャズにふれたり、高柳昌行さんと知己を得たりしたことを懐かしく思い出した。 


 相倉さんと言えば、ジャズ・ギャラリー8での幾多の“事件”を抜きにはできない。たとえば、「ギャラリーで起こった二つの奇跡」のタイトルで回想される事件は、その真相を知らなかった私には日本のモダン・ジャズ展開における秘史ともいうべき、思わず膝を乗り出したほどの裏話、いや最も重要な1ページというべきものだった。1965年、ギャラリ−8でその存在感を高めていく天才、富樫雅彦が紆余曲折を経て山下洋輔と邂逅しグループを組んでファンの刮目を集める演奏を繰り広げていく逸話。氏自身が「これこそ日本のジャズの誕生」と喝破した歴史的1ページの、「崩壊が一瞬にして起こった」顛末に、私も思わず嘆息した。たった1度の録音も残すことなく歴史の闇に消え去った富樫雅彦クヮルテット。司会役の彼がクヮルテットの解散を告げたとき、熱心なファンの間から「溜息や嗚咽が起こった」というのも、まさにむべなるかな。私も知らず知らずのうちに嘆息を繰り返した。
 もうひとつの事件は、比較的に良く知られている。バークリー音大に留学していた渡辺貞夫が帰国し、ギャラリー8のファンを熱狂させた同じ65年の11月15日。相倉さんが佐藤允彦と空港へ出迎えにいった話。佐藤がセッションに彼を誘った話。渡辺がこの申し出を快諾した翌日、噂を聞きつけたファンがギャラリーに押し寄せた話、等々。あたかもドキュメンタリー・フィルムを見るような、まさにナベサダ・フィーバーが誌上に横溢するかのよう。すでにあれから半世紀近くが経っているとは思えない。
 こうして綴っていってもキリがない。「戦後日本の文化と呼ばれるものすべて、あらゆるスタイルが<混在>する形で現存していることを心してかからなければ、いつか大切なものを見落とすことになる」、あるいは「日本文化の成長の過程を眺めていて、そこには必ず輸入した先の外国からの影響があり、それを底辺に何ものかへ発展〜創作していかなければならないという、特異な文化気質を日本は背負っている」など、随所に相倉語録とでもいうべき自己の信条を貫いているところが彼らしい。その上で、内田樹著『日本辺境論』に啓発された日本人や日本文化の特異性に言及しながら、彼が日本でジャズ革命を起こそうとして催した「ジャズ会議」での提起、すなわち「文化はその末端において変化せざるを得ない。かくて、すべての文化は外側から変化する」と持論を展開し、「元の文化を超える」可能性に希望を託している相倉久人氏の青年のような主張に、私もいつの間にか引き込まれ、ときにエキサイトしながら我が半生を振り返ることになった。(2013年7月17日記)

悠 雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


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