ウェイン・ショーターは今年の夏、8月25日で80歳になった。今、80歳代が熱い。アーマッド・ジャマル(p)、ランディ・ウエストン(p)等が続々と新譜を発表し元気な音を聴かせてくれている。ウェインもその仲間入りをしたことになるがウェインもまた意欲満々である。
今年の春リリースされたレギュラー・カルテットによる『WITHOUT A NET』(Blue Note)では久しぶりにジャズの真髄、即興の妙を堪能した。コンサートのライヴ・レコーディングで、激しく燃焼しながらも統制の利いた透明なサウンドは若々しく、官能的でさえあった。
ウェイン・ショーターは以前、演奏にあたっては如何に表現するかではなく、何を表現するかということを自らの信条としていると語っていたことがあるが、このアルバムを聴くとウェインのそうした考え方が伝わってくる。
このウェイン・ショーターのレギュラー・カルテットはウェイン・ショーター(ts,ss)に、ダニーロ・ペレス(p)、ジョン・パティトゥッチ(b)、ブライアン・ブレイド(ds)の4人。これだけのリーダー級のメンバーが結成以来12年にも渡ってユニットを持続すること自体が奇跡的であるが、このウェインの信条と4人の音楽に向き合う姿勢が一致しているから長きに渡って持続しているのではないかと思う。
2001年の夏に結成され、最初のアルバムとしてリリースされたのが『フット・プリンツ・ライヴ』(Verve、2002)であった。このアルバムでの4人の有機的な結びつきには生命の息吹きのような力強さがあった。そしてカルテットの音楽はこれまでにジャズが築き上げてきたサウンドをすべて取り入れた上で21世紀の我々の進むべき道はこれだ、という宣言でもあった。
それは『WITHOUT A NET』まで持続され、さらに充分に熟成しダイナミズムを増している。
ウェイン・ショーターの演奏で最初に注目したのはウイントン・ケリー(p)の『ケリー・グレイト』(Vee Jay、1959)である。丁度ウェインがアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに加入した頃の演奏である。ここでの、艶っぽい糸を引くようなロング・フレーズはウェインの原点ともいえる瑞々しさに溢れ、このアルバムを聴いたのがきっかけでウェインの活動に関心を持つようになった。
ウェイン・ショーターは1933年、ニュージャージー州ニューアークの生まれ。子供の頃は絵を描くのが好きで12歳で州の美術展に出品するほど力を入れていたという。前述の『WITHOUT A NET』のジャケットに描かれている絵もウェイン自身が描いた絵が使われている。15歳のときにJATPのレスター・ヤング(ts)を聴き、スタン・ケントン(orch)やディジー・ガレスピー(orch)、チャーリー・パーカー(as)、イリノイ・ジャケー(ts)等を次々と体験しジャズを知る。ジャズとの最初の出会いがレスター・ヤングというのはウェインのイメージにそのまま重なる部分がある。そしてクラリネットの指導を本格的に受ける。テナー・サックスはハイスクールに入ってから手にし、ニューアークの10代の少年で構成されているバンド「Jazz Informers」に加わり演奏をはじめる。この頃ソニー・スティット(as,ts)とも知り合っている。
ウェインはニューヨーク大学に進みバードランドやカフェボヘミア等ニューヨークのジャズ・シーンを知る。学校に通いながら演奏も始めていたようで、面白いことにカレッジ・ジャズで有名なジョニー・イートン(p)とも短期間であるが一緒に演奏していたようだ。
大学を出たウェインはまもなく軍隊に徴兵されることになる。
1958年に除隊後ミュージシャンとして本格的に活動をはじめ、このころコルトレーンとも知り合っていた。コルトレーンはマイルスのクインテットに在籍していたが独立を考えていたので、その後任としてマイルスのグループに入るようウェインに勧め、ウェインはマイルスに電話をかけたのだそうだ。マイルスはコルトレーンの企みだと見抜き、その申し出を断ってコルトレーンをグループにとどまるように引きとめた。しかしコルトレーンの決意は固く1960年のヨーロッパ・ツアーを終えるとマイルスのグループを退団してしまう。そこで、今度はマイルスの方からウェインにバンドへの加入を求めた。しかし、皮肉にもその時すでにウェインはアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに参加していて、この時点でマイルスGへの入団は実現しなかった。結局、マイルスは1964年の夏、日本初来日のコンサートから帰国したあとにウェインを迎えることになる。このへんのいきさつは、マイルスの自叙伝(クインシー・トループ著)で詳しく語られている。
ベニー・ゴルソン(ts)の後継としてジャズ・メッセンジャーズに加入したウェイン・ショーターは1961年の1月2日、東京サンケイホールで日本へのデビューを飾る。このときの演奏はTBSが収録していて放送され、後に『A Day With Art Blakey 1961』(テイチク)としてリリースされている。お正月の2日にジャズ・コンサートを開く慣わしはここから始まったのだそうだ。その後ジャズ・メッセンジャーズはベニー・ゴルソンの<ブルース・マーチ>に代表されるファンキー路線から次第にウェインの色彩が濃くなり1963年1月にはフレディー・ハバード(tp)、カーティス・フラー(tb)そしてウェイン(ts)の3管編成で再びサンケイホールに登場、ミュージカル・ディレクター、ウェインのモーダルなスタイルが評判を呼んだ。この3管メッセンジャーズでは『UGETSU』(Riverside)が一番ウェインの特徴が出ていて聴きなおしてみると懐かしい。
マイルス・クインテットでの第一声は1964年9月のベルリンジャズ祭『イン・ベルリン』(Sony)であった。マイルスのもとで一緒に演奏するようになったハービー・ハンコック(p)とはこのあとずっと付き合うことになる。ウェインとハンコックは音楽的にも友人としても深い間柄となり、宗教も同じである。ハンコックとの『1+1』(Verve 1997)の<Aung San Suu Kyi>はグラミーを受賞している。
1967年のマイルス・クインテットの『ネフェルティティ』(Sony)の頃になるとアルバムの半分はウェインの曲で構成され、ウェインのクインテットへの貢献度は高まる。
一方、マイルスのクインテットに参加しながらウェインは、ブルーノートに自己名義のレコーディングをしたり、様々な活動をしていて、1966年の11月にはトニー・ウィリアムス、エルヴィン・ジョーンズ、アート・ブレイキーという3人のドラマーをフィーチュアした「3大ドラマー」の公演で来日し、かなりハードなブローイングを吹いたりもしている。写真はその時のウェインである。
1969年の秋、マイルスのグループを退団したウェインは『イン・ア・サイレント・ウエイ』(Sony)で一緒だったジョー・ザヴィヌル(key)と1970年に「ウェザー・リポート」を結成する。
「ウェザー・リポート」 はジョー・ザヴィヌルの音楽的志向もあって、エレクトリック・サウンドを多く取り入れてマイルスとともにジャズ界に新しい波紋をまき起こしたが、その中でもウェインのソロ・パートになると世界が変わり、奔放なウェインの存在が浮かび上がる。
1981年の6月、東京・杉並区の立正佼成会のホールで「ウェザー・リポート」を目の当たりにした。JR高円寺駅から環七通りをかなり長い時間歩いて寺院のような会場、普門館に行ったのを覚えている。ホールに入るとステージにはすでに楽器が並べられ、お香の煙がもうもうと立ちのぼっていたのを思い出す。演奏はレコード以上に激しくライヴとスタジオとの差をはっきりと確認できたし、とりわけウェインのソロが印象に残っているが、そのあとリリースされた「ウェザー・リポート」のライヴ・アルバム『8:30』(Sony、1978,79)で「ウェザー・リポート」のライヴは追体験できる。とくにアルバム中の<サンクス・フォー・ザ・メモリー>はウェインの無伴奏テナー・ソロで「ウェザー・リポート」のなかでもウェインがいかに突出していたかがわかる。<サンクス・フォー・ザ・メモリー>はサージ・チャロフ(bs)の名演『ブルー・サージ』(Capitol)に並ぶかなり過激なバラードである。
ウェインはウェザー・リポート在籍中でも並行して様々な活動をしているが、そのひとつにハービー・ハンコックと結成した「V.S.O.P.」がある。ウェイン、ハービー、ロン、トニーというマイルス出身の4人とマイルスのポジションにフレディー・ハバード(tp)が加わったオールスター・クインテットである。「V.S.O.P.」は、もともとは1976年のニューポート・ジャズ祭の「ハービー・ハンコックの追想」というプログラムから誕生したグループであったが、その翌年の1977年7月23日、東京、田園調布の田園コロシアムに姿をみせ一日限りのコンサートを行った。その記録を収めた『V.S.O.P.クインテット・ライブ・イン・ジャパン』(Sony)のライナー・ノーツによると昼夜2回、1日限りの公演で16000人が集まったという凄い人気だった。開場を待ってコロシアムの周囲をとりまくファンの長い行列はいまだに記憶にあるし、トニーの黄色いドラムセットがかっこ良かった。いま、振り返ってみるとフュージョンの時代のように思われていた70年代も結構熱いジャズもあった。
ウェイン・ショーターは今年の11月から来春にかけて80歳を記念するコンサート・ツアーを計画している。アメリカ国内、カナダ、ヨーロッパをレギュラー・カルテットで巡るという。そしてウェインのホームページには来年の4月14日と15日、東京、渋谷、オーチャードホールでのコンサートが予告されている。来春はウェイン・ショーター・カルテットのまき起こす旋風が春一番となるかも知れない。 (2013年12月 望月由美)