MONTHRY EDITORIAL02

Vol.59 「ズーカーマンを聴いて」   text by Mariko OKAYAMA

 ピンカス・ズーカーマンのリサイタルを聴いて、ひさびさに幸福な気分になった。(5月19日@紀尾井)。ズーカーマンは1948年、テル・アヴィブの生まれ。12歳のとき、イスラエル音楽祭での演奏をアイザック・スターン(1920~2001)に認められ、スターンのすすめでジュリアード音楽院に入学、名教師イヴァン・ガラミアン(1903~1981)に師事した。いわゆる神童として、同郷、同門のイツァーク・パールマン(1945~、やはりスターンに後押しされ、ジュリアードに入学)とともにスター街道をまっしぐら、だったが、パールマンのヴァイオリンの官能的ともいえる華やかさにくらべると、豊かな美音のなかにもしっとりとした落ち着きがあり、ヴィオラも弾き、指揮もするかたわら教育にも熱心なマルチ・タレント性を発揮しつつ、ここまで来ている。まさに円熟期を迎えたヴァイオリニストであり、かつ、ジュリアードの黄金期を代表する最後の大家の一人と言える。
 世界的スターを次々と輩出したジュリアードの黄金期は、ヨーロッパ音楽界の低迷と表裏である。ロシア革命と第二次大戦を逃れて、ヨーロッパの多くの優れた音楽家がアメリカへと渡った。結果、音楽の中心はアメリカに移ったのである。なかでもヤッシャ・ハイフェッツ(1901~1987、ロシアから移住)は20世紀のヴァイオリン演奏の流れを大きく変えたヴァイオリニストで、「ヴァイオリニストの王」として燦然と輝く存在だった。その奏法は音楽の大衆化の時代にふさわしく、大ホールでも良く響く大きく豊麗な音を追及したもので、アクロバティックな超絶技巧とハイ・スピードで聴衆を圧倒し、演奏効果をいかにあげるかに最大の関心を置いた。力と合理性の国、アメリカ文化が彼にとって最もふさわしい地であったのはいうまでもない。ハイフェッツの主導する力と技巧と感覚的な美音とスピードで押し出しの強い派手な演奏は瞬く間に世界を席巻し、スターンはその最大の継承者となった。もっとも、スターンはマールボロ音楽祭でカザルスに出会い、内面からの音楽に目覚めたと言われる。ともあれ、ハイフェッツの系譜はそのままジュリアードのヴァイオリン教育へと流れ込んでゆく。やはりロシアから移住したガラミアンと、その門下であり、のち、指導法の相違で彼と袂を分かったドロシー・デュレイ(1917~2002)がジュリアードの全盛期を築いた。サクセス・ストーリーを夢見る世界中の若者たちが、こぞってその門下に集まったのである。五嶋みどりや諏訪内晶子もその一群に属する。その教育路線はハイフェッツを踏襲するもので、「より大きく、より早く、より刺激的に」というアメリカン・テイストの音楽・ステージ演出力の前に、ヨーロッパの伝統的なインティメートで内面的な演奏は力を失っていった。なかではヨゼフ・シゲティ(1892~1973、ハンガリーから移住)が反ハイフェッツの姿勢を貫き、作品への知的なアプローチと精神的な深みを重視した演奏を守り続けた。晩年のシゲティは「哲学を持って弾く人がいなくなった。今しばらくは私とメニューイン(1916~1999、アメリカからイギリスへ帰化)とで頑張れるが、その後はかなり長い空白時代が来るのではないか。」と語っている。その空白時代が、まさにジュリアード全盛期にあたるわけだが、そのジュリアードもデュレイ亡き後、生徒数は減少の一途を辿っている。世界の音楽教育のメッカとして君臨してきたジュリアードの時代は、今日、終焉を迎えつつあると言えるのではなかろうか。


 

 ともあれ、ズーカーマンは、こうしたジュリアードの申し子として、今や巨匠の名で呼ばれる存在となったが、アメリカナイズされた腕力にものいわせる派手なパフォーマンスとは一線を画する。室内楽を好み、ヴィオラも愛する彼の嗜好は、その演奏に奥行きと幅広さを与えている。この日の演奏も、どこまでも艶やかで目の詰んだ豊饒な響きをホールのすみずみまで行き渡らせながら、決して力んだところがない。とりわけフランク『ソナタイ長調』とブラームス『ソナタ第3番』は、細部まで神経の行き届いた繊細なニュアンスといい、スケールの大きさといい、音楽の包容力といい、素晴らしいものだった。フランクの冒頭、ピアノの細心の序奏から忍び入る弱音の循環主題の美しさには思わず溜め息が出たし、アレグロ楽章のダイナミズムも情熱的でありながら気張ることがない。とりわけヴィオラを思わせる低音の深々とした音色には心がすうっと吸い込まれた。フランクがかぐわしさと品格に満ちた逸品であったのに対し、ブラームスはその抒情性がたっぷりとした筆遣いで描き出され、終楽章のシンフォニックな響きの組み立ては雄渾そのもの。ニ短調という調性に託された仄暗いブラームスの真情を丁寧にすくいとった名演であった。アンコールがパラディスの小品「シシリエンヌ」だったのもいかにも洗練された選択。すべてにわたり、その熟成された音楽は、こころよい芳香を放ち、喝采とブラボーを呼んだのである。
 ところで、このズーカーマンもパールマンもスターンもハイフェッツもシゲティも、みなユダヤ人である。20世紀の名ヴァイオリニストは、圧倒的にユダヤ人が多い。ユダヤに2、3割の非ユダヤ人を加えればそのリストが完成するほどである。その事情を、今世紀の大長老イヴリー・ギトリス(1922~)は「ユダヤの男の子は手にヴァイオリンを持ったメシアとして生まれる」と語っている。女の子はピアノだそうだ。ユダヤ人の二人に一人はヴァイオリンが弾けるといわれるほどヴァイオリンはユダヤの人々にとって生活楽器であり、民族の宗教、歴史、社会を支える必需品なのである。幼いときから、宗教と民謡によって音楽的才能がつちかわれ、それがユダヤ音楽家の活躍の土壌となった。一方で、追放と迫害の歴史を持つこの民族に、楽器一丁で世界を渡り歩く生き方は、一つの智慧であったことも確かだろう。ユダヤのヴァイオリニストたちに共通する美麗で豊満な響きは、世界のブランドである。ズーカーマンの音に、それを再認識しつつ、21世紀のヴァイオリニストの系図がどうなってゆくのか、ふと考えさせられた午後でもあった。


丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

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