MONTHRY EDITORIAL02

Vol.60 『ピアニスト』を読んで text by Mariko OKAYAMA

 先月の悠雅彦氏のコラム『悠々自適』に、『ピアニスト』(エティエンヌ・バリリエ著、鈴木光子訳)という本が紹介されている。私もこれを読み、いろいろ思うところがあった。とりわけ、巻末につけられたバリリエの日本での講演「東洋におけるヨーロッパ音楽」にいくつか興味深い文言があるので、ここで触れてみたい。
 バリリエは「ヨーロッパ人が極東の大国(中国、韓国、日本)と呼んでいる国々がヨーロッパ音楽を知り、愛し、実際にやってみて、そして演奏するようになったこと。それも当のヨーロッパ人と同じくらい上手にそれをやっていること」、「時にはヨーロッパ人より深くそれを知り、愛し、またもっと上手にそれをやっている」ことに驚異と感動を覚えている。極東ではヨーロッパ音楽は「まるで告白された愛のように、明らかで自然な、ありのままの姿で愛好されて」おり、「さらにヨーロッパ人にとって特に感動的なのは、その音楽の愛好者たちの年代がヨーロッパのそれよりずっと若いということ」だと語る。その例証として、若者向けのアニメ映画『のだめカンタービレ』を挙げ、そこで「鍵盤上の指が実際にその音楽が演奏されるときの指の動きとぴったり合致している」ことに、「すばらしい精緻さ、真の音楽にたいする尊敬のあらわれ」を見るのである。「たかがアニメ映画の中だというのに!」という彼の言葉には、日本の高度なアニメ文化への無理解がほの見えるが、いずれにしても「極東日本」のヨーロッパ音楽への愛は「ほまれ高い古い大陸の人間である私たち」(この種の優越感は随所に見られる)には驚嘆なのであった。
 さらに彼は、ヨーロッパ音楽が、日本人の日常にとって「絶対的な自然さ」を持っていることに注目する。そのことを二つの小説から彼は説く。一つは村上春樹の『スプートニクの恋人』、もう一つは小川洋子の『やさしい訴え』である。村上作品には、ピアニストになる夢を途中で断念した韓国人(日本生まれ、日本育ち)のミュウという女性が登場する。 ここでバリリエが強調するのは、小説のなかに出て来る日常のディティールにヨーロッパ音楽がきわめて自然にはめこまれていることだ。ミュウのお気に入りは、シュワルツコップのモーツァルトであり、バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタ、それにさほど有名とはいえないジュリアス・カッチェンによるブラームスである。ホロヴィッツのモノラル録音時代のショパンは、とくにスケルツォは文句なしにスリリングで、グルダの弾くドビュッシーの前奏曲集はユーモアに満ちて美しく、ギーゼキングの演奏するグリークはどこまでも愛らしい、といった記述がさりげなく挟まれる。これらの文章から、ミュウたちの背景に響く音楽文化がのぞきみえるわけだが、バリリエは、そこに日本の伝統音楽が全く姿を見せず「音楽といえば即、西欧音楽を指して」おり、それが「絶対的な自然さ」をもって扱われていることに驚くのである。
 また小川の『やさしい訴え』は、ラモーのチェンバロ曲集の作品をタイトルとしたもので、この曲が通奏低音のように小説に流れている。ここでは、やはり優れたピアニストでありながら、聴き手がいると恐怖で弾けなくなるという神経症を患い、チェンバロ制作者となった新田という男性が、主人公瑠璃子の恋の相手となる。ちなみに瑠璃子は西洋の書道ともいうべきカリグラフィーを仕事としている。バリリエは、チェンバロ制作という職業選択に、新田の西洋音楽への愛の深さ、真摯さを見る一方で、日本の伝統的な書道ではなく西洋のカリグラフィーを糧とする瑠璃子の生活にも驚きを隠さない。
 バリリエの疑問、なぜ彼らはかくも自然に、西洋音楽(文化)を自分のものとしているのか、について、彼は「彼らは借り物にも異種交配にも満足せず、その先へ行って」おり、「かくしてこの音楽は彼らにとってよそから来たものではなく、まさしく彼らの音楽なのです。これは完全な同一化であり、全面的な受容であり、豊かで全体的な融合とさえ言えると思います。」と結論づけている。
 一方で、バリリエは、武満徹の「西欧では時間とは理性的なもので線状をしているが、東洋ではそれは環状である」という言葉から、両者の音楽の相違についての考察も加えている。が、ここでも、ヨーロッパ音楽が東洋の音楽とこれほど深く異なっているのに、「どうしてそれがこれほどまでに東洋で受け入れられ、どこにでも現れ、なおかつ自然でいられるのか」という問いに、再び戻っているのである。
 この問いには、日本の外来文化受容の歴史的パターンを提示すれば一つの答えとなるだろう。早い話、今日、TVのコマーシャルで多く流れるのは西洋音楽で、決して三味線音楽や箏曲ではなく、それが日本の日常の「自然」なのである。おおざっぱに言えば、日本の伝統的な邦楽と呼ばれるものも、やはり大陸文化の日本的受容と変容の一つの形に他ならない。AKBに代表される大衆音楽、ロック、ポップス、ジャズなど、日本には雑多な音楽シーンがごちゃまぜに存在しており、そのどれもが、「自然」なのであって、西洋音楽だけが特別なわけではない。彼の視点は、本場意識に凝り固まったヨーロッパ音楽の偏狭な信奉者のそれであり(彼の周囲にも多様な文化があるはずだが)、悠氏が彼をヨーロッパ人であって、コスモポリタンではない、と断言するゆえんである。


 

 ところで、村上の『スプートニクの恋人』には、一箇所、気になるシーンがあった。フランスの音楽院に留学したミュウが、当時を思い出して語る場面だ。少し長いが、引用しよう。
 「フランスに来て一年ばかりたった頃、不思議なことに気がついたの。つまりね、わたしより明らかにテクニックが劣っていて、わたしほど努力しない人たちが、わたしより深く聴衆の心を動かしているのよ。音楽コンクールに出ても、わたしは最後の段階でそういう人たちに打ちまかされた。最初のうち、それは何かの間違いだろうと思った。でも同じことが何度も繰り返された。そのことでわたしは苛立ったし、腹も立てた。そんなのって公正じゃないと思った。でもそのうちにわたしにも少しずつ見えてきた。わたしにはなにかが欠けているんだということがね。よくわからないけど、何か大事なもの。感動的な音楽を作り出すために必要な人としての深み、とでも言えばいいのかしら。」日本に居るときは気付かず、自分の演奏に疑問を持つこともなかったミュウは、「パリで多くの才能のある人たちにかこまれて、ようやくそのことが理解できたの。」
 この「人としての深み」の一節は、やはりバリリエも気になったとみえ、それを「ヨーロッパのロマン派ピアノ音楽の魂に関連する事柄」だと言っている。だが、村上がここでミュウの言葉を借りて提起しているのは、音楽と人間のもっと本質的な関わりについてだろう。この「深みの欠如」は、国際コンクールで優勝する東洋人にも、しばしば指摘されるものである。テクニックは完璧だが、音楽としての魅力がない。瑕疵のない演奏でトップを獲得したところで(ミュウの言葉とはいささか異なるが、国際コンクールはミスによるマイナスが少ないほど有利である)、国際舞台で通用するかどうか。優勝時こそもてはやされるものの、いつの間にか消えて行く人も多い。昨今は、そうしたコンクールを嫌って、コンクールとは無縁のキャリアから台頭してくる新人が増えてきている。健全なことだ、と私は思う。彼らは最初から「人としての深み」と技術とを分ちがたいものと考えているように見えるからだ。
 では、「人としての深み」とは何だろう。村上はミュウにこう語らせる。
 「わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康でない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。」 彼女は物事がうまく行かない人を努力が足りないと思い、不平を言う人を怠け者だと考えた。「当時のわたしの人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。そしてそれについて注意してくれるような人は、まわりには1人もいなかった。」さらに「誰かを心から愛したことは一度もなかった。正直に言って、そんな余裕がなかったのよ。とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道をすることなんて考えもしなかった。自分になにが欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった。」
 ミュウの言葉はそのまま日本のコンクール受験者にあてはまる。幼い頃から叱咤激励され、練習漬けの日々に、回り道や寄り道などとんでもないというのは、例えばコンクール覇者を出す高名な教師の講習会に群がる母子の様子を見れば一目瞭然である。そうして、たいていの教師が彼らに問いかけるのは「それで、君は何がいいたいの?」という音楽の「内容」なのである。何かを表現するには、表現したいものが自分のなかになければならない。ミュウの「空白」とは、人間としての多様な経験からくる豊かさと切実さの欠如であり、それは自己と他者、あるいは世界との親密で痛切な関わりの欠落である。
 これは別にヨーロッパ音楽に限ったことではない。ここで村上が語っているのは、真の音楽家、すべての芸術行為には、人の痛みや苦しみ、夢や喜び、うつろう愛といった魂の内奥のことごとへの深い洞察と鋭い感性が必要だということである。どこの国にも、この「人としての深み」のない演奏家はいる。それはヨーロッパであれ、東洋の大国であれ、同じである。彼らは鉄壁の技巧を誇るが、感動は生まれない。村上は、別段ミュウが東洋人だったから「人としての深み」を欠いていた、と言っているのではない。バリリエはそれを「ロマン派の魂」うんぬん、としているけれども、そうではなくて、これは人間全般における魂の問題なのである。村上のほうが、はるかに芸術における普遍的で、根源的な問題をミュウのなかに示していると私には思える。
 ちなみに、私は先日、平野啓一郎の『葬送』(新潮社)という大著を読んだ。ショパンとドラクロワを中心とした小説だが、そこに書き込まれている細密な西欧文化理解には、ただただ敬服した。異国の芸術家をここまで「わがもの」とすることのできる想像力と研究心の凄まじさ!学者でもなく、評論家でもない、小説家だからこそ可能な創造世界。それはひとえに、洋の東西を超え、「等しくみな、人間であること」を深く信じる表現行為だ。これをバリリエが読んだら、どう言うだろうか。


丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。

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