セロニアス・モンクのステージには何度か通った。写真は1966年5月、二度目の来日公演時のモンク。鍵盤をじっと見つめるモンクの瞳が闇の中で輝いていた。深く吸い込まれるようなモンクの眼差しに会場は心地よい緊張感に包まれた。モンクはチャーリー・ラウズ(ts)がソロをとっている時に、やおら椅子から立ち上がってぐるぐる体を回し始める。
噂には聞いていたモンク踊りだ。肩をガクンと落とす。その瞬間チャーリー・ラウズもラリー・ゲイルス(b)もベン・ライリー(ds)もモンクと一体化する。マジックを見ているようだった。
二部のスタートは<アイム・ゲティン・センティメンタル・オーヴァー・ユー>、トミー・ドーシー(tb)のスイートな曲。モンクがメロディを弾き始めたとたんに会場の張りつめた空気がすっと溶けてゆく。この二部の初めの一音で、一部のステージのモンクス・ミュージックの全てを吸収しようと高ぶっていた胸のつかえがすっと解けてモンクの音楽がすいすい体の中に入ってくる気持ちになり、すっかりモンクが判ったような気分になった忘れられない瞬間であった。
モンクが亡くなってもう32年になる。今回、写真の整理を機にバイオグラフィーを辿りながら何枚かのアルバムを聴き直してみると、あらためてモンクの音楽の新鮮さが蘇った。
セロニアス・スフィア・モンク(Thelonious Sphere Monk)1917年10月10日ノースカロライナ州ロッキーマウントに生まれる。モンクが4歳の時に一家はニューヨークに移り住む。ニューヨークの街はラジオから流れる歌やビッグ・バンドのサウンドが教会で歌われるゴスペルと混じり合い音楽に溢れていた。ピアノを始めたのは6歳くらいの時、姉が弾いているのを見て興味を持って弾き始める。正規のレッスンよりも、むしろファッツ・ワーラー(p)やアート・テイタム(p)、デユーク・エリントン(p)といったジャズ・ジャイアンツがお手本だったようである。
13歳の時にはアポロ・シアターのアマチュア・コンテストにも出場している。マンハッタンではトップ・クラスの名門公立高、スタイベサント高校に進む。高校のホームページには輩出した有名人の中にThelonious Sphere Monkの名前がしっかりと刻まれている。
17歳の時には伝道隊とともに国内を巡り各地の教会で演奏している。こうした経験が素地となって『モンクス・ミュージック』(Riverside)で讃美歌<アバイド・ウイズ・ミー>を、演奏したのかもしれない。
19歳の時にケニー・クラーク(ds)に誘われてハーレムの「ミントンズ・プレイハウス」のハウス・ピアニストになり、そこでチャーリー・パーカー(as)やディジー・ガレスピー(tp)等と出会い、歴史的なビ・バップ創世の渦の中心にいた。このミントン時代にモンクの永年のクロージング・テーマとして知られる<エピストロフィー>が作曲されている。
1944年には短期間であるがクーティー・ウイリアムズ(tp)のオーケストラに加わるが、モンクがオーケストラを辞めた後にクーティーは<ラウンド・ミッドナイト>をレコーディングした。このへんの事情からモンクの名曲<ラウンド・ミッドナイト>にはクーティー・ウイリアムズが共同作曲者としてクレジットされることになってしまったという。因みにこのレコーディングでピアノを弾いたのはモンクの4歳年下の後輩バド・パウエル(p)であった。バドとの関係は後にモンクの音楽人生に大きな影響を及ぼすことになる。また、同じ44年にモンクはコールマン・ホーキンズ(ts)のバンドで初レコーディングも経験している。 『モンクス・ミュージック』(Riverside、1957)にホーキンズを呼んだのも、実はこうした深い結びつきがあったのである。
1947年にネリー・スミスと結婚し二人の二人三脚がスタートする。またこの年ブルーノート・レコードに自分がリーダーとしてレコーディングを始めている。このときの音源が初リーダー・アルバム『Genius of Modern Music, Vol. 1、2、More Genius』(Blue Note)等の形で発表される。
モンクとネリー夫人はいつも一緒で、日本のコンサート・ツアーにもネリーさんは同行し甲斐甲斐しく世話をする姿は傍目にも印象的だった。クリント・イーストウッドが制作したビデオ『ストレート・ノー・チェイサー』(Warner Home Video)にもヨーロッパ・ツアーでの二人の仲の良い親密なシーンが記録されていて微笑ましい。貴重なドキュメンタリーだが、この中でモンクの長男T.S.モンクは、母は誰よりも早く父を理解していた、それも深い愛情を持ってね、父が音楽的成長をとげたのも母が父の一切の面倒を見たからだ、と語っている。
ネリーなしではモンクの生活は成り立たないほどにモンクはネリーを頼り切っていた。
ネリーが手術のために入院したときにはモンクは面会時間中、病室のネリーのそばを片時も離れなかったという。面会を終えて病院を出るとモンクは独り街の傍らに佇み、あたりの景色を眺めていたという。この時に『モンクス・ミュージック』(Riverside、1957)の<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>は作曲されたのだそうだ。
結婚して2年後の1949年に長男で現在ドラマーとして活躍しているT.S.モンク(ds)が誕生、そして4年後の1953年に愛娘バーバラを授かる。モンクはバーバラを「Boo-Boo」と呼び大変可愛がっていたそうだ。モンクの<Boo-Boo>はバーバラにささげた曲である。
息子のT.S.モンク(ds)は1986年に「セロニアス・モンク・インスティチュート・オブ・ジャズ」を設立しモンクの偉大な業績を守り、さらなるジャズの発展へとつなげている。そのT.S.モンクは今年の4月に来日し「インターナショナル・ジャズ・デイ・オールスター・グローバル・コンサート 2014 大阪」に出演している。
1951年のある夜、モンクはバド・パウエル(p)から旅に出るので空港まで送ってくれないか、と頼まれ二人は車に乗った。
このときの情景をジェフ・ダイヤーは著書「バット・ビューティフル」(村上春樹 訳、新潮社)のなかで、まるでその場に居合わせたかのような息詰まる描写をしている。
運転していたのはモンク。雨の降りしきる夜だった。パトカーに停止を命じられた。警官が立ち寄る。バドは持っていたヘロインの入った包み紙をぎゅっと握りしめたままその場に凍りついてしまった。バドはどこかで手に入れたヘロインを隠し持っていたのだ。当然のことだがモンクは所持していない。モンクはバドからその紙包みをひったくり、車の外に放り投げた。
警官が近づいてくる。モンクはそろそろと車の外に出る。警官がモンクに名前と証明書の提示を求め、モンクはキャバレー・カードを差し出す。
警官が水溜りに落ちていた包みを拾い、中身をのぞき指でつついて少しだけ舌にのせる。これはあんたのか、それともあいつのか?と尋ねた。モンクは無言のまま、そこに立ちすくんでいた。モンクはその頃バドが精神的に衰弱していて、刑務所暮らしには到底耐えられないことを知っていたのだ。それでは、あんたものだということになるな。結局モンクが90日間拘置されることになる。キャバレー・カードは水溜りに投げ捨てられ、そのまま没収されてしまい、モンクはニューヨークでのライヴ・ハウス等での演奏が出来なくなってしまう。モンクの活動はコンサートやレコーディング、そしてニューヨーク以外の地域での演奏だけに制限されてしまう。ニューヨークを離れることを望まなかったモンクは、そのほとんどの時間を自宅のピアノと向き合うことになり、生活はネリー夫人の働きによって支えられた。こうした事件があったにもかかわらず、モンクはバドにちなんだ<イン・ウォークド・バド>を作曲しバドへの友情を示している。一方のバドもパリ滞在中の1961年、モンクへのトリビュートの意を込めて『ア・ポートレート・オブ・セロニアス』(CBS)を録音している。
モンクはその間、1952年にプレスティッジ・レコードと契約しマックス・ローチ(ds)やアート・ブレイキー(ds)等との『トリオ』、ソニー・ロリンズ(ts)やフランク・フォスター(ts)を加えた『クインテット』などを録音する。また、1954年にはリバーサイド・レコードと契約し、『プレイズ・デューク・エリントン』、『ユニーク』、『ブリリアント・コーナーズ』、『モンクス・ミュージック』などを創っている。
1957年にキャバレー・カードが再交付されるとモンクは「ファイヴ・スポット」と長期出演契約を結びニューヨークでの活動を再開する。初めはウイルバー・ウエア(b)とシャドウ・ウイルソン(ds)とのトリオでスタートし、そのあとジョン・コルトレーン(ts)を招き入れ伝説のセロニアス・モンク・カルテットが誕生した。ベースとドラムはその時々の都合で変わっていたようで、コルトレーン夫人のナイーマがハンディ・レコーダーで録音したテープ、のちにブルー・ノートからリリースされた『Live at Five Spot Discovery、1957』(Blue Note)ではベースにアーマッド アブダルマリク、ドラムにロイ・ヘインズが加わっている。残念ながら「ファイヴ・スポット」でのモンクとコルトレーンの正式なライヴ・レコーディングは残されていない。当時、コルトレーンがプレスティッジと契約していたため実現できなかったとされている。なんでもオリン・キープニュースがプレスティッジにレコーディングの許可を求めたところ、プレスティッジはその替わりにモンクをプレステイジの作品に参加するように求めたというが、モンクがそれを嫌って実現しなかった。オリン・キープニュースはその翌年の1958年の春にオリジナル・メンバーのモンク、コルトレーン、ウイルバー・ウエア、シャドウ・ウイルソンの4人をスタジオに呼び『セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン』(Riverside)を録音している。後にカーネギー・ホールでのコンサートが『ライヴ・アット・カーネギー・ホール1957』(Blue Note)としてリリースされたが、このときのリズムはアーマッド・アブダルマリク(b)、シャドウ・ウイルソン(ds)であった。
モンクが初めてヨーロッパ・ツアーをしたのは1954年のこと。パリで公演を行い、ピアノ・ソロ・アルバム『Thelonious Monk』(Vogue,1954)をレコーディングした。初のソロ・アルバムである。このとき録音された<煙が目にしみる>は今なお心にしみる。モンクのソロ・アルバムはその後『Thlonious Himself』(Riverside,1957)、『Thelonious Alone in San Francisco』(Riverside,1959)、『Solo Monk』(CBS、1964)と続くがどの作品もいまだに新鮮で聴き飽きしない。
この時のツアーで、ミントン時代からの古い知り合いのメアリー・ルー・ウイリアムス(p)からニカ男爵夫人を紹介される。モンクとニカ男爵夫人との友好関係はここから始まる。
当時のニカ男爵夫人はニューヨークのスタンホープ・ホテルに住んでいた。ジャズ好きのニカさんの部屋は沢山のミュージシャンたちのサロンになっていったが、1955年3月にチャーリー・パーカー(as)がニカさんの部屋で病死するというジャズ・ファンにとっては悲しい、しかし社会的にはセンセーショナルな出来事がおき、ニカさんはスタンホープ・ホテルを立ち退かざるを得なくなり、セントラル・パーク・ウエストのボリバー・ホテルに移った。このホテルにちなんで作曲されたのが『ブリリアント・コーナーズ』(Riverside)に収録された<バルー・ボリヴァ・バルーズ・アー>である。しかし、パーカーの死や黒人のミュージシャンが数多く出入りすることなどが影響してニューヨークでのホテル住まいが出来なくなってしまったニカ夫人はニュージャージー州のウイーホーケンに家を買い、部屋にピアノを置いた。またニカさんは沢山の猫を飼っていたので「猫の村」ともよばれた。ピアノのある部屋からはハドソン川越しにマンハッタンの景色が一望できた。モンクはこの部屋を気に入り、気の赴くままに滞在してはピアノを弾いていた。ニカ男爵夫人に捧げた<パノニカ>はこの部屋で作曲されたのだそうだ。ジャズの愛好家で映画評論もされていた中山信一郎さんはモンクと渋谷毅(p)が大好きで鹿児島にジャズ喫茶「パノニカ」を立ち上げ九州にジャズの火をともしたが今は店をたたんでいる。壁におおきなニカ男爵夫人の写真を飾り、マッチもニカさんがイラストされていた。
1970年代になるとモンクは体調を崩しピアノもほとんど弾かなくなり、晩年の6年間はニカさんの家で暮らした。1982年2月17日、ニカさんの家で脳梗塞を発症し、ネリー夫人にみとられながら永眠する。
モンクは1993年にグラミー賞生涯功績賞を受賞し2006年ピューリッツァー賞を受賞、2009年にはノースカロライナ州のホール ・オブ・ザ・フェイムに選ばれている。亡くなってから10年の時を経てからモンクの音楽はジャズの領域を超えて広く認められたのである。
ニカ男爵夫人の著書『ジャズ・ミュージシャン3つの願い ニカ夫人の撮ったジャズ・ジャイアンツ』(P-Vine BOOKs)にはモンクの3つの願いが収められている。
セロニアス・モンクの3つの願い
1 音楽的に成功すること
2 幸せな家庭をもつこと
3 君のようなクレイジーな友人をもつこと