追悼 中村とうよう

1. 中村とうよう 略歴

本名:中村東洋
1932年7月17日京都生まれ。2011年7月21日東京にて自死
京都大学経済学部卒業後、1956年日本信託銀行に入行。1960年、退職後、音楽評論家として独立。『スイング・ジャーナル』誌のレコード評担当等を経て、
1969年 音楽雑誌『ニュー・ミュージックマガジン』(1980年『ミュージックマガジン』に誌名変更)創刊、89年まで編集長を務める
1982年 音楽アーカイヴに焦点をあてた月刊『レコード・コレクターズ』創刊。
1989年 ワールド・ミュージック専門誌季刊『ノイズ』創刊、92年3月まで13号刊行
1990年 自身のレーベル「オーディブック」創設、SP音源などを中心に世界の民衆の音楽を紹介。選曲、解説、デザインなどすべてを自身で手がける。
2006年 ジャズ、ポピュラー、民族音楽を含む世界各国のSP、LP、CD、文献、民族楽器を含む自身のコレクションを武蔵野美術大学に寄贈
2008年 武蔵野美術大客員研究員着任
2009年『ミュージックマガジン』誌レヴュワーを退任
2010年 株式会社ミュージック・マガジン社取締役会長職退任
2011年7月4日 自身の特別監修にて武蔵野美大美術館で「中村とうようコレクション展〜楽器とレコードを中心に」開催、研究成果を公開

主な著書:
『大衆音楽の真実』(ミュージック・マガジン1986)
『大衆音楽としてのジャズ』(ミュージック・マガジン 1999)
『ポピュラー音楽の世紀』(岩波新書 1999)
『中村とうようの収集百珍』(ミュージック・マガジン 2005)

2. 中村とうようコレクション展@武蔵野美術大学 | Nobucco 安田伸子 / 撮影 田中雄一郎

私の叔父が、とうよう氏と幼な馴染で、東日本大震災後、たびたび、電話で話をしていた。
とくに変わった様子はなかったが、数年前から、自分の死後を考え、武蔵野美術大学に音楽関係の資料をすべて寄贈し、立川の小さいマンションに引っ越し、お墓の準備などを、せっせと進めていたという。

2011年7月4日から9月24日まで、武蔵野美術大学で、「中村とうようコレクション展」が開幕されています。民族楽器、レコード、書籍などが展示され、とうよう氏がどのように音楽と関わってきたのかを辿ることができます。
2006年に、コレクションを武蔵野美術大学に寄贈することが決まり、この展示会に向けて、長い間、準備を進められていたようです。とうよう氏にとって、この展示会は、この上ない喜びであり、同時に最後の活躍となりました。
<60年代のフォークとロックの動き。ラテン音楽からアフリカへ。ブルースの奥にある黒人音楽の探究。インドネシアでのクロチョン音楽との出会い。アジアの逸材、テレサ・テン、ヌスラッド。晩年のヨーロッパ旅行、ギリシャ音楽との出会い>などが展示され、レコードは、一般には流通していない、すでに姿を消してしまったLPを中心に展示。その他、とうよう氏のコレクションであるアジア、アラブ、アフリカのどれも珍しい形をした民族楽器<太鼓、笛、琴、ウード、竹筒琴、コラ、親指ピアノ、鉄琴、木琴、ダマル>が展示されていました。
7月4日にこの展示会をオープン、7月17日に79歳の誕生日を迎え、7月21日逝去。まるで、すべてが、計算されたかのようでした。

最後に、私のCD『Pagina de viaje旅の物語』(Jazz Tokyo)の解説、『ミュージックマガジン』での紹介など、お世話になり本当にありがとうございました。
手紙をお出しすると、遅くなりながらも、いつも丁寧なお返事をいただき、本当に嬉しく思いました。
私のCD『Pagina de viaje旅の物語』は、私の一番の宝です。(タンゴ・ピアニスタ)






3. 追悼:中村とうようさん | 本郷 泉

7月22日付け朝刊各紙で報じられた、中村とうようさんの訃報に驚いた人は少なくないはずだ。ご自身の楽器・レコード・コレクション展会期中に自死なさったとのこと、直接の友人、知人ならずとも衝撃の度合いはますます大きい。
彼の訃報はツイッター(わたし自身はやっていないけれど)を通して瞬く間に広がり、数日のうちに、直接的、間接的に関わった人たちから単なる音楽好きまで、多くの人がブログや自身のHPで、とうようさんの人となりや著作物について、めいめいに思いのたけを掲載していて、それぞれが彼から受けた影響力の大きさを改めて知らされたのだった。

わたし自身はとうようさんとは面識がなく、わたしもまた単なる音楽好きのうちのひとりに過ぎず、とうようさんなどと、親しげに呼ばせていただくなど失礼このうえないのかもしれないけれど、音楽、とくにアフリカ大陸の音楽の奥深さを教えてくれた師としてのリスペクトと親しみを込めて、ここではとうようさんと呼ばせていただこうと思う。

単なる音楽好きのうちのひとりであるわたしが、面識のないとうようさんについてあれこれ語るなどおこがましく、その資格も無いのだけれど、とうようさんの書かれたさまざまの文章に少なからぬ影響を受けた者のひとりとして、哀悼と感謝の意を表して少しだけ何某か書かせていただくことにした。

まずは、何を差し置いてももっとももお世話になったのが、長年とうようさんが編集長を務められた『ミュージックマガジン』だ。辛口かつ時に独断的なアルバム・レビューには反発を覚えることもあったけれど(表現に多少の違いはあっても、同様の趣旨のことを述べているブログをたくさん見かけた)、ワールド・ミュージック全域にわたってのレアな情報、アーティスト・インタビューも満載、インターネットも普及していなかった時代の貴重な情報源で、「マガジン」で仕入れた情報をもとに、今はなき六本木WAVEでアルバムの実物チェックというのが定番コースだった。J-popの扱いの比率が多くなってきた頃から、段々手に取ることも少なくなり、今では本屋で立ち読みすらしなくなってしまったが、好奇心旺盛で、おそらく今より感性がずっと研ぎ澄まされていた多感な20代、わたしにとって音楽の教科書のような存在だったのが『ミュージックマガジン』だった。
そしてもう一冊、全編とうようさんの書き下ろし、『ミュージックマガジン』の増刊号として発行された、アフリカ大陸の音楽に関する良き指南書『アフリカの音が聞こえてくる』は、1984年発行ながら今もまったく古さを感じさせない名著で、アフリカの音楽について何か知りたいことがあれば、わたしは今もまず最初にこの本のページをめくる。国別、民族別の音楽や楽器の紹介、時代による変化や傾向、アジア、ヨーロッパ各国の音楽や楽器との比較、奴隷制によって持ち出され、行きついた国で根付き姿形を変えた音楽のその後についてなど多角的な視点での豊富でわかりやすい記事に加え、ナイジェリアのキング・サニー・アデ、ガーナのカクラバ・ロビや南アフリカの故ミリアム・マケバの初来日インタビュー(ミリアム・マケバの初来日はなんと1969年)なども掲載、とうようさんのアフリカ大陸への深い愛を感じる一冊だ。わたしが個人的によく聴くマリ、セネガル、ギニアあたりの音楽の例を持ち出せば、まだソロでデビューする前の、サリフ・ケイタやユッスー・ンドゥールをそれぞれ所属していたグループのいちボーカリストとして紹介していて、このときすでに彼らに注目していたことを窺(うかが)わせる。ついでに、サリフの所属していたレ・ザンバサドゥールやレイル・バンド、ユッスーの所属していたエトワール・ドゥ・ダカールといったバンドが活躍していた時代は、それぞれの伝統音楽にラテンの要素が加わり、西アフリカ諸国の音楽の新しい時代の幕開けとなった時期で、この『アフリカの音が聞こえてくる』では、他のバンドの紹介も交えてこの時代の音楽が生き生きと輝いている様子を伝えてくれている。
とにかく、読むたびに何かしら新しい発見があるし、実際の音楽を聴く前にすでにわくわくさせられること間違いなしの一冊なので、おそらくもう絶版になっていると思うけれど、もしどこかで偶然に見つけたら是非入手をお勧めしたい。
とはいえ、恥ずかしながら、わたしはとうようさんの他の著作物を読んだことがなく、結果的に彼の死がきっかけになってしまったのは遅きに失してしまったのかもしれないが、さらに彼の紹介するさまざまな音楽を知りたくなり何冊かオーダーしたところだ。

大学を卒業後しばらく銀行にお勤めのかたわら、50年代後半から音楽紹介記事を投稿してたそうだ。フリーになられてからお亡くなりになるまでのご活躍は、わたしが紹介するまでもなく、多くの音楽ファンの知るところだ。亡くなる数日前に79才のお誕生日を迎えられたそうで、そんなお年になられていたとはまったく知らず、でもできることならないものねだりを承知で、カタカナ表記とアグレッシブな言葉遣いの多い、とうようさん独特の語り口の文章にもう少しお目にかかりたかった。
プライベートな事情は何も知らないし、詮索もすべきではないと思っているが、安らかにお眠り下さいと祈るのみである。心よりご冥福をお祈り申し上げます。(駐日マリ大使館勤務)





4. 中村とうよう先生 追悼 | G2us 高谷秀司

謹んでお悔やみ申し上げます。
あまりの驚きに未だ事実として受け止めがたいというのが本音です。

とうよう先生は、反社会的なロックンロールに、真っ当な存在理由を与えた人。
ストーンズの純粋暴力に、正当な社会性を与えた人。
R&Bの精神を音楽ジャーナリズムに、魂として刻み込んだ人。
その業績はあまりにも偉大すぎて言葉では語りきれない。

私が始めて先生にお目にかかったのは高校一年のとき(今から約40年前...)。
当時の新しい音楽潮流を探るシンポジュウムがあってストーンズの解説をしておられた。
NMM(『ニュー・ミュージックマガジン』)等で文書は見ていたけれども、第一印象は、揺らぎのないインテリジェンスの中に人を包み込んでしまうやさしさのある人。
しかし、何に驚き、何に感動したか、それは解説の途中でレコードをかけられるのだけれども、先生の聴き方があまりにも凄い。
ストーンズの『スティッキ・フィンガーズ』が上陸したばっかりで その中の<ブラウン・シュガー>を聞いているときの先生の身体の動き(決して大きい動きではない)。
私は、このときある種、動物的、本能的なことを感じた。
ここまで見事に音楽を愛している『聞き方』があるのか...
ここまで見事に音楽の感動を表す聞き方があるのか...
テレを取り払ってまっすぐに音楽と向き合う心意気を学んだ。
それ以来私は完全にとうよう先生のミーハーであった。
その日、シンポジュウムが終わったあと、持参したNMMにサインをしてもらい、握手をしてもらった。
実に変わった高校生であった。

当時もう音楽活動に勤しんでいた私は、ことある毎に、先生をお招きして聞いてもらった。勿論、めったに来てはもらえなかったが...いつも冷静だった。

「お前のやる音楽はまだ冷静でいられる」と言われた言葉が忘れられない。
今でも私の励み。

12年前に私が、エッセイ集(随筆)を出すときに、これしかないといってタイトルをくださった。
『不埒(フラチ)』
有り難く戴いた。

今は、私より先生のほうが不埒だ。不埒だ...。

私には、先生の思想性、精神性を次代に伝える使命と責任がある。

深い悲しみと慈しみを持ってとうよう先生の死を悼みます。(ギタリスト)





5. 追悼 中村とうよう | 杉田誠一

「フォークを唄う歌手は大勢いるが、“フォーク・シンガー”と呼べる人はほんの一部にしかすぎない」

1969年夏、初めてニューヨークのヴィレッジを彷徨したとき、<フォーク・シティ>を見つけて、大感激。ワァ〜ォ!! ここが、かつて、ピート・シーガーや、ボブ・ディランや、ジョーン・バエズや、PPMが根拠地=ホームとしていたところなんだ。

店内に入ったとたんに、くっきりと想い起こされたフレーズが、本稿のイントロである。ぼくにとって、中村とうようから学んだことは、このフレーズに集約されている。

同・60年春、渋谷・桜ヶ丘の『ニュー・ミュージックマガジン』の編集部をたずねる。目的は、ぼくが主宰する『ジャズ』誌との「交換広告」の件である。まず驚かされたのは、そこは、音楽資料室というか、音楽創造工房以外の何ものでもないのである。隣りの部屋には、はんなりとした昼下がりの光に浮上するチェロがさりげなく置いてある。ぼくにとっては、おびただしいというか、ハンパな量の資料ではない。それも、書籍、譜面、レコード、等が、見事に整理されているのである。

その内実が、民族音楽であるならば、誰しも納得がいくのだけれども、僕のつたない理解力では、古典〜現代音楽に関するものがほとんどなのである。後日、そこが林光(現代音楽家)の部屋だと知る。

にこやかに応対してくれたのが、田川律である。紺のスーツがまったく似合わなくって、何故か大手労働組合の副書記長のようなイメージがオーバーラップする。それから、商談(?)後、中村とうよう編集長を紹介される。

著作等で、僕が抱いていたイメージは、典型的なビートニクというか、ヒプsターというイメージであったのだけれども、未だかつて出会ったことのない、静かに燃え盛るオーラをしっかりと享受する、クールなヒップというか、アカデミックなヒップとでもいうのだろうか? 仕立てのいい、ホームスパンのグリーンがかったジャケットが印象に残る。

「京都の銀行員生活(記憶が正しければ?)がイヤになりまして。頑張って下さい」という程度のハナシしかしてはいませんが__

サンフランシスコ〜ニューポート〜シカゴ〜ニューヨーク、等を彷徨し、帰ってきたのは初秋である。ホテルはすべてYMCA。ニューポートでは家具屋の倉庫の一角で寝泊まりし。フェスティバル・フィールドへの行き帰りは、ヒッチハイク。プレス・パスがもらえず、自前でチケットを買い、撮影は、まったくのゲリラ戦。翌70年のニューポートなんて、宿泊先が見つからず、悠雅彦にスーツケースを預けて、撮影しちゃったりして__。お世話になりました。

サン・ラ、マイルス、ビル・エヴァンス with ジェレミー・スタイグ、サニー・マレイ、ローランド・カークらを目の当たりにしたのだけれども、何よりも驚いたのは、ブルース〜ニューロックの出演が多いこと。

B.B.キング、ジェスロ・タル、スライ、サベージ・ローズ、ジェームス・ブラウン、ジョン・メイオール、ジョニー・ウィンター、フランク・ザッパ、ブラッド・スェット・アンド・ティアーズ、レッド・ツェッペリン、等々が同じステージに次々と登場するものである。

帰国直後、田川律より原稿依頼を受ける。400字詰め原稿用紙30枚ほどの原稿が手垢にまみれて返却されてきたのは、すっかり冬のことであった。

いま、つくづく思うに、ボツになった原因は、いわゆるニュー・ロック革命を「情況」としてとらえずに、ひとつの「現実」としてとらえたからに違いない。

くしくも、同年、同じステージで、マイルス・デイヴィス・ユニット(チック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネット)は、『ビッチェズ・ブリュー』を演っている。そのニュー・ジャズ革命をしっかりと「情況」としてとらえるのに、数年の月日を必要とした。

ニュー・ロック革命は、未だに「現象」としてとらえている。我ながらカタクナですなあ__

そう、「ジャズを演るミュージシャンは大勢いるが、“ジャズ・ミュージシャン”と呼べる人は、そのほんの一部にしかすぎない」。

いや、「音楽とかかわる人間は、大勢いるが、“ホンモノ”と呼べる人は、そのほんの一部にしかすぎない」。

中村とうようは、真の“ホンモノ”である。

合掌。(ジャズバー『Bitches Brew for hipsters only』オーナー)

註:「交換広告」とは、雑誌と雑誌の間で、無料で相互に広告を載せることをいう。参考までに、『ジャズ』誌1970年1月号の『ニューミュージックマガジン』の広告は、「特集:ドラッグとロック・レボリューション」、「対談:林光・佐藤信」である。






6. 中村とうようさんの死を悼む | 稲岡邦弥

とうようさんの訃報を知ったのは7月22日付けの東京新聞朝刊だった。ぼくは宅配の新聞は親父を継いで「朝日」だが、外出時に車中で読むのは決まって「東京新聞」である。他紙もいろいろ読み比べてみたが、「東京新聞」が不偏不党に徹していてほとんど死語に近いが「社会の木鐸(ぼくたく)」となり得ている。あからさまな守旧派の新聞は精神衛生上よろしくない。インターネットの普及で新聞を読まない若者が増えているようだが、ぼくなどは最近ますます新聞を読み込む時間が増えている。ネットとの差別化を図って、新聞が社外からの内容の濃い寄稿を積極的に掲載するようになったからである。

それはさておき。とうようさんの訃報を目にしたとき、一瞬、窓外を流れる景色が止まったように思えた。しかも、「身投げ」による「予告済みの自死」の可能性が濃いとある。文化欄に掲載されているとうようさんの近影を見てひとり合点がいった。武蔵野美大で開催されている「中村とうようコレクション展」に参加したとうようさんは杖に身を預けどこか弱々しげである。ぼくの記憶は小柄ながらエネルギッシュで人を射るような強い眼差しの壮年のとうようさんのイメージが固定されたままだ。齢(よわい)79とある。数えでいえば傘寿(さんじゅ)だ。自分の老いには敏感であっても他人の老いには鈍感であることが多い。久しぶりに出会った同級生の変わりように驚くが、自分が老いていっているように、他人も同じ速度で老いているのだ。自分の頭の中のイメージが固定されたままになっているに過ぎない。

とうようさんに最後に接触したのは、2005年。縁あって、ブエノスアイレスから帰国したタンゴ・ピアニスタNobucco(安田伸子)のCD『旅の物語〜パヒナ・デ・ヴィアヘ』をJazzTokyoからリリースすることになり、彼女の叔父の幼なじみであったとうようさんに解説を依頼することになった。とうようさんとのやりとりは『ミュージックマガジン』の編集部を経由して行われたが、リリース後に3人で食事でも、という約束はスケジュールの都合で果たされないまま終わった。この時とうようさんが執筆したライナーノーツで、とうようさんは、彼女が影響を受けた何人かの音楽家の中でアストル・ピアソラとエグベルト・ジスモンチに対する評価を保留した。「態度を保留する」ということは事実上、否定することを意味する。多田雅範がJazzTokyoのCD紹介(http://www.jazztokyo.com/newdisc/komado/nobucco.html)で触れているように“ピアソラもジスモンチも西洋音楽教育を受けて、それを刃に音楽の野生をデフォルメした世代”だからである。コンテンポラリー・タンゴとコンテンポラリー・ブラジリアンの両雄をバッサリ切るあたり、とうようさんの面目躍如といったところだ。

ぼくが現役時代、『ミュージックマガジン』の編集長だったとうようさんはリリースするECMのアルバムにことごとく1点や2点の評価を下した(MM誌の評価は10点満点制)。そして評文の多くに「気持ちが悪い」とか関西人風に「気色(きしょく)が悪い」などが使われた。第三世界の音楽を愛するとうようさんにとって、インプロに新しい展開を促すリズムのオープン化や新しい音楽のありようである録音芸術など、音楽にインテリジェンスを持ち込むECMの作風は受け入れ難かったのである。セシル・テイラー・ユニットの『アキサキラ』を“騒音以外の何ものでもない”と評した故・安原顕を呼び出したり、バダール・ロイの『アシルバッド』を“ジャズとはいえない”と断定した評文を掲載した『スイング・ジャーナル』誌の児山紀芳編集長に喧嘩をふっかけたりした意気軒昂のぼくだったが、とうようさんの採点には文句をつけたことがなかった。とうようさんの批評の座標軸が明快不変であることが客観的に知られていたからである。(ネガティヴな評文を掲載されたメーカーによっては、広告掲載を差し止めたこともあったと聞く)。

それどころか、とうようさんに頭を下げに編集部を訪れたことがある。ラテンのアルバムだったか、解説を依頼したとうようさんの署名をよりによって「中村ようよう」と誤植したときである。誤植には厳しいとうようさんが、課長の私と洋楽担当に「今後、気をつけるように」と注意を促しただけだった。当時のトリオレコードはジャズの他に、ブルース、レゲエ、ラテン、ブルーグラス、ハワイアン・ミュージックなど、いわゆるルーツ・ミュージックを幅広くリリースし、とうようさんの評価が高かったこともあるのだろう。その後、とうようさんからはアルバム・リリースを希望するアジアのミュージシャンの紹介を受けたりもした。

死亡が確認された7月21日の翌々日、東京新聞の夕刊はとうようさんの遺稿を掲載した。武蔵野美大で開催されている「中村とうようコレクション展」(同大が寄贈を受けたSP約5,000点、LP 3万点、CD・カセット5,000点、楽器350点のなかから一部を体系的に展示)に関するもので、もちろん、筆の乱れは一点もみられなかった。久しぶりに手にしたMM誌の最新号(表紙はK-POPのアイドル・グループKARA)には絶筆となった「とうようズ・トーク」の最終篇が掲載されており、公立高での「君が代」の強制的斉唱の是非判決に触れ、“音楽としての「君が代」を問題にするならぼくだったら、あんなに気持ちの悪い歌は二つとない、とはっきり答える”と断じて潔い。「とうようズ・トーク」は、とうようさんの独断と偏見の連載エッセイで、ぼくなどはMM誌を手に取ると真っ先に目を通したものだ。概してとうようさんの辛口に胸のすく思いをしたことが多かったと記憶する。

とうようさんの“身投げ”について「認知症」を云々する声が聞こえてきたが、とうようさんの自死を冒涜するものだ。それはとうようさんなりの人生のケジメの付け方だったとぼくは確信する。“老いとは残酷なものである”ことを認めつつではあるが。(本誌編集長)





7. さようなら中村とうよう先生 | 秋山美代子

7月21日中村とうよう先生が、自ら79歳の生涯を閉じた。「なぜ?どうして!」と言うよりも「来るべき時か来た、終わった。」と言うのが正直な気持ちである。

とうよう先生との一番の思い出は、やはり1991年の WOMAD YOKOHAMAだろう。英国の WOMAD財団と共に設立した、株式会社WOMAD JAPANのディレクターだった私から、とうよう先生にWOMAD 日本委員会の顧問を依頼した。それは、我が国において、ラテンからニュー・ロック、そしてやがてはワールド・ミュージックまで、認知と普及に尽力したとうよう先生への、せめてもの恩返しの意味もあった。


予想通りとうよう先生は快諾してくれたが、それからWOMAD YOKOHAMA開催までの道程は決して平坦ではなかった。WOMADは本家の英国と外国でのフェスティバルを、共通したメンバーでツアーし、開催国ごとに御当地アーティストを加えたラインナップで制作費を抑えて来た。ところがとうよう先生は日本初のWOMADで、今までで最高のWOMADを実現することしか頭になく。ワールド・ツアーとは別の、日本独自のラインナップを強く希望した。とうよう先生はWOMADの趣旨とその功績には大いに敬意を払いつつも、ことアジア、ラテンのラインナップには、かねてから疑問を呈していたからである。

WOMAD財団の中心人物、トーマス・ブルーマンと、とうよう先生、お互いにヨーロッパとアジアを代表するワールド・ミュージックの第一人者としての、意地とプライドが真っ向らぶつかり合い、火を噴くことが度々あった。あまりの激しさに通訳が「もうこれ以上やれない!」と泣き出すほどだった。とうよう先生曰く「この際だからWOMADの悪しき部分、未だ残る白人優位の植民地支配者的メンタリティを改めさせてやろうじゃないか!○○アーティストはいらない、△△に変えるべし!□□をどうしても出演させるなら、私は日本委員会の顧問を降りる!」トーマス曰く「ナカムラはWOMADを乗っ取る気か?彼がこれ以上強権を行使するなら、日本でのWOMAD開催は取り止める!」その度に両者をなだめて鎮火させるのが私の役目だった。

最終的にはWOMAD財団側も、その当時のとうよう先生の、メディア、スポンサー、そして日本人アーティストに対する影響力の大きさは認めざるを得ず、大幅に譲歩して日本委員会の要望に従ってくれた。そしてパシフィコ横浜のオープニング・イベントとして、予算には比較的恵まれていたこともあり、91年の第1回(ハレド、ポーグス、ユッスー・ンドゥール、坂本龍一、スザンヌ・ヴェガ、都はるみ他)92年の第2回(ロマ・イラマ、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、パパ・ウェンバ、河内家菊水丸、都はるみ他)は、今にして思うと結構豪華な面子だった。終始満悦そうで、傍目には精力的にすべての出演者のステージを回っていたようだが、とうよう先生はこの頃すでに体力と気力の衰えをハッキリと自覚していた。

第1回WOMAD YOKOHAMAの3日間の期間中、私はとうよう先生とコンサートの合間に、また食事をしながら色々と雑談をした。そして1つの疑問について質問した。とうよう先生の音楽に対する限りない愛情、異文化に対する尊敬の念、鋭い批判力に対して、極端に海外取材の回数が少ないことが、かねてから気になっていた。「行くなら、観光旅行に毛の生えたような駆け足ツアーはごめんだ。3週間以上は滞在して、フィールド・ワークもやりたい。そうなると事前の準備も費用の問題もあり、忙しさにかまけてなかなか実現できないままになっている。それに、もし旅先で体調を崩して、誰かの世話になったり他人に迷惑は絶対にかけたくない。」との答えだった。そして「(当時は反目しあっていた)ユッスー・ンドゥールとサリフ・ケイタが、もしアフリカの大地で共演することがあるなら、それは観てみたいなあ。ミヨコさんその時はお伴してくれるかな?」と私に訊いた。私が「ヨボヨボになっても、頭と耳が確かなら車椅子にくくり付けてでもお伴します。そのかわり、現地で滅茶苦茶な論理を押し通そうとするなら、車椅子ごと放り出しますからね!」と答えると「車椅子で常に他人の介助が必要な状態で、現役生活を続けて行くことは、とても我慢できない。でもミヨコさんなら、小さい頃から年寄りを見て育って、頑固爺の扱いに慣れているので、気兼ねせずに一度なら頼んでもいいかな。」と述べる表情は、音楽業界では畏敬の念を持って見られている、厳格極まりない中村とうようとは別の、優しいお爺さんのものだった。

ところで私が音楽評論家、中村とうようの存在を知ったのは、ニューミュージックマガジンの創刊であった。物心ついた頃から洋楽に親しみ、Billboardなどの洋書にも不自由しない家庭環境だったし、中1の時にはすでにNME(英国の音楽新聞ニューミュージカル・エキスプレス)を航空便で定期購読していたので、ファン雑誌の要素が強い既存の日本の音楽誌は全く物足りなかった。そんな中、ニューミュージックマガジンの出現は画期的だった。ポピュラー音楽を真っ向から評論できる最初の雑誌として、他とは全く一線を画す存在だった。その創刊者で編集長たったとうよう先生の姿を、初めて目にしたのは、ニューミュージックマガジンが後援した、欧米のロック・アーティストのフィルム・コンサートだった。

実際にとうよう先生との付き合いが始まったのはその10数年後になる。私の友人ユッスー・ンドゥールが、初めてインターナショナル・マーケットに向けて発表した、Nelson Mandelaの日本盤リリースの頃だった。とうよう先生とも親しく、ユッスーのファンでNelson Mandelaのリリースにも多大な協力をしてくれた、ラテン音楽評論家/DJの竹村淳先生の紹介だった。当時アフリカ音楽のマニアと、エスニック音楽好きのロック・ファンの間で、ユッスーが話題になりだし、とうよう先生の薦めでミュージックマガジンにユッスーについて初めて寄稿した。そらから間もなくとうよう先生が監修する、NHK−BSのシリーズ特番「赤道音楽」の一部を手伝うことになり、プロデューサーの故大江宣夫さんとの付き合いも始まった。
両者との出会いが、後のWOMAD YOKOHAMAへとつながる訳だが、何度か打ち合わせを兼ねて夕食を共にしたことがある。夕食の席と、もう1度は中村とうよう事務所を訪れた時、私はとうよう先生に提言した。「ある分野で日本に於ける権威と仰がれた人でも、感心のない者からすれば『お爺ちゃん、お金にもならないガラクタを山のように残して死んだ』と迷惑がられる。元気な内に仕事の後継者と、某大な資料の整理についての準備を進めてください。」と。後継者については、候補として何人かの名が挙がったが、特定の誰かに委ねる様子ではなかった。資料については、WOMADがらみで、横浜に中村とうよう資料館を開設する話を進めていると言うことだった。そして何人かの音楽関係者と識者たちも、実現に向け働きかけていたが、その後地方公共団体は文化より、福祉の予算を優先する時代になり、いつの間にか資料館の話も立ち消えになってしまった。

とうよう先生が求心力を失って行ったのは、89年ミュージックマガジンの編集長から退くと同時に新しく手がけた、ワールド・ミュージックを主体にした雑誌、季刊ノイズが休刊した92年頃だと思う。同年の第2回WOMAD YOKOHAMAでは、とうよう先生はヌスラット・ファテ・アリ・ハーン他、ごく少数のアーティストを除いて、コンサート会場に姿を見せることはなかった。そして他のコンサートでもとうよう先生の姿を見かけることはめっきり減少した。この時点で、私の中では「アクティヴな音楽評論家中村とうようは完結した。」と感じた。とうよう先生と会うことも、話すこともなくなった。何の未練も感傷もなかったが、中村とうよう資料館だけは何とか形にして残して欲しいと願った。

私はとうよう先生の評論に影響を受けて、誰かロック・ミュージシャンのファンになったり、ワールド・ミュージックについて学んだという意識は全くない。とうよう先生から何か学んだとすれば、それは「プロ意識を持つこと」である。私は一時期ロック・ミュージシャンの写真を撮っていたことがあるが(今も決して止めた訳ではない)とうよう先生の助言に従い、写真を撮っている時は(撮影‐現像‐焼き付けまで一貫して)常に本業のつもりで没頭して来た。今は複数の事業を営むようになったが、とれも副業や余技でなく、本気で取り組んでいるつもりである。

長らく定期購読していたミュージックマガジンも、いつの間にか読まなくなっていたが、とうようズトークだけは立ち読み、もしくは知人の事務所で毎号読み続けていた。そんな中で武蔵野美術大学に音楽関係のすべての資料を寄贈すること、自分の死後のことを考えて、極力家族や周囲の関係者の手を患わせることのないよう、着実に身辺整理をしていることを知った。そしてすべてを終えて、折しも武蔵美の美術館で「 中村とうようコレクション展」が開催されて間もなく、とうよう先生は自分自身で自分の人生を完結した。さようなら、本当にさようなら中村とうよう先生・・・・。(8月7日 グリオインターナショナル)





8. さようなら、とうようさん | 悠 雅彦

巻頭エッセイ(http://www.jazztokyo.com/column/editrial01/v43_index.html)


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FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW12.27 '15

年末特集
ことしの このCD 2015(国内編)
伏谷佳代|剛田武| 細田成嗣|稲岡邦弥| 神野秀雄|小西啓一| 望月由美|及川公生| 斎藤聡|玉井新二
ことしの このCD 2015(海外編)
伏谷佳代|剛田武| 細田成嗣|稲岡邦弥| 神野秀雄|小西啓一| 望月由美|及川公生| 斎藤聡|常盤武彦
このライヴ/このコンサート 2015(国内編)
伏谷佳代|剛田武| 細田成嗣|稲岡邦弥| 神野秀雄|斎藤聡| 望月由美|悠雅彦
このライヴ/このコンサート 2015(海外編)
伏谷佳代|剛田武| 細田成嗣|稲岡邦弥| 神野秀雄|斎藤聡| 望月由美|常盤武彦| 悠雅彦
(*アルファベット順)

FIVE by FIVE
#1267『Mike Nock ~Roger Manins / Two -Out』『Mike Nock~Laurence Pike / Beginning and end of knowing』(FWM) 悠雅彦
#1268『板橋文夫FIT! / みるくゆ』(MIX DYNAMITE) 齊藤 聡
#1269『Romain Collin / Press Enter』(ACT Music) 常盤武彦
#1270『Mike Moreno / Lotus』(World Culture Music) 常盤武彦
#1271『Shoko Nagai / Taken Shadows』(Animul) 剛田武
#1272『河野智美/リュクス』(Sony Music Direct) 徳永伸一郎
#1273『The Creative Music Studio (CMS) -Archive Selections Vol.2』(Planet Arts) ブルース・リー・ギャランター
#1274『Mette Henriette』(ECM) マルクス・シュテグマイヤー
#1275『この1枚 2015(国内編)』
#1276『この1枚 2015(海外編)』

COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito, 吉田野乃子 Nonoko Yoshida & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#09 Contents
・音楽を進化させる異邦人 剛田武
・連載第9回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 (シスコ・ブラッドリー)
・よしだののこのNY日誌 第7回(最終回) 吉田野乃子
・ライヴ・レポート:吉田野乃子@Stone 蓮見令麻
・インタビュー:ジョシュ・エヴァンス 齊藤聡

連載フォト・エッセイ
Reflection of Music 43「マッツ・グスタフソン」横井一江

カンサス・シティの人と音楽
#46. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”: チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#255『Wolfgang Muthspiel / Driftwood』(ECM)
#256『Boys featuring SHUN』(Studio TLive)
#257『Mette Henriette』(ECM)
#258『田中倫明/オラシオン』(スタジオ・パライソ)
#259『早川隆章&T-SLIDING T-SLIDING U〜Just Bacharach』(What's New)
#260『カウント・ベイシー・オーケストラ・イン・アムステルダム1956』(55 Records)
#261『Nautilus / Nautiloid Matter』(Palette Sound)
#262『code”M”/美宇宙の饗宴』(Wisteria)

INTERVIEW
#144「Josh Evansジョシュ・エヴァンス 」齊藤聡

LIBRARY
#82『日本のジャズは横浜から始まった』稲岡邦弥

CONCERT/LIVE REPORT
#860「蜂谷真紀・村田直哉 公開ライヴレコーディング」安藤誠
#861「コリン・ヴァロン・トリオ」平井康嗣
#862「第6回 雅楽と国際文化交流」稲岡邦弥
#863「吉田野乃子@The Stone, NY」蓮見令麻
#864「田崎悦子『三大作曲家の遺言』最終回」伏谷佳代
#865「エリソ・ヴィルサラーゼ ピアノ・リサイタル」伏谷佳代
#866「戦後・日本のジャズは氷川丸から始まった」稲岡邦弥
#867「Jazz Treffen 2015高瀬アキ ルディ・マハール ニルス・ヴォグラム」稲岡邦弥
#868「カマシ・ワシントン」神野秀雄
#869「このライヴ/コンサート 2015(国内編)」
#870「このライヴ/コンサート 2015(海外編)」

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