秋吉敏子と初めて出会ったのは、19070年夏、ハーレムの<バロン>というジャズ・クラブである。ここは“ヤバイ”ので仕事が終わってから、ゆっくりインタヴューに応じていただくことになる。今はなき“PANAM”の近くの<ブラッセリーズ>でロング・インタヴューする。
その直後に撮った写真が『jazz』誌1974年12月号の表紙を飾る。むろん、アタッシェケースの中は、譜面がギッシリ。夏でも手袋は欠かせない。お履きものは、素足に草履である。
バックのポスターは、“Rolling Stones”。その下に貼られているのは、”Blood,Sweat & Tears”(血と汗と涙)。何と、Miles Davis Quintetが前座である。時代はまわる。いや、時代は確実に変わる。
なお、当時、愛娘のマンディみちるは7才であった。

アメリカに来ましてから十五年、最近では五年前に日本に帰ったきりですから、若いジャズ・ファンの方たちにはすっかり馴みも薄くなってしまいましたので、私のジャズ史から話すことにいたします。それは同時に日本のジャズ史を語ることでもあると思います。
昭和五年、満州の大連で生まれて、一九四七年夏に引き上げ、翌年の十一月、
ふとしたきっかけからこの世界に入りました。十八歳の時のことです。敗戦直後の当時の日本にはアメリカの軍人がいっぱいいて、その連中の需要を満たすためのクラブやダンス・ホールがたくさんありました。でもそういう所で働けるミュージシャンの数は極めて少なく、どこでも常時ミュージシャンを募集していました。小さい頃からずっとピアノが好きだった私は、終戦で父は財産をなくし、ピアノもなくし、ピアノが弾きたい一心で“ピアニスト求む”という店の求人広告を見て、フラフラととび込み、マネージャーに会ったんです。あとは何も聞かずに雇ってくれました。九州の別府です。それがすごいバンドで、アコーディオン、アルト・サキソフオン、バイオリン、ドラム、ベースそして私のピアノという編成になりました。そこでまず、何となくジャズを聞く機会に触れていきました。
私、ピアノがとても好きで、その楽器が弾きたくて仕事に入ったというだけで、この頃、生涯ジャズをやるなどということは夢にも思っていないことでした。昼間、まだ店がオープンしない前は、べートーベンのソナクなんかを聞いては生甲斐を感じている時代でした。(今でも、ベートベンは好きですけど,)ところがある晩、何回か店に来て私のピアノを聞いている日本人の人が、
「あなた、あれがジャズだと思いますか?」
と、私に言うわけです。
「思います。」
「あなた、ジャズは好きですか?」
「嫌いです。」
「そうでしょうね。でも、あれがジャズだと思ったら大間違いだ。あんなものじゃない。あなたは僕の聴いたところでは、大変にピアノがうまい。九州一のジャズ・ピアニストになるのは、わけないことだ。僕はレコードをたくさん持っていて聞かせてあげたいから、是非家にいらっしゃい。」
と、いうわけで、昼間、その人の家に行きました。その人はいわゆるジャズ・ファンで、昔の、七八回転の、ベニー・グッドマンがライオネル・ハンプトンなんかとセクステットでやっているレコードなどをかけてくれました。そして、最初に聞いたのがテディ・ウィルソンの「スイート・ロレイン」。なんて素晴らしいピアノだろう、なんてきれいなピアノだろう。これがジャズなのか、これじゃ、クラシックと変わりないと、俄然、夢中になって、私、昔から母に厳しく育てられたことが災いしまして、中途半端なことができずに生真面目なものですから、もう、それから毎日毎日その人の家へ通ってレコードを聞き、そこにまたアップライトのピアノがあったものですから、レコードから譜面にとって、テディ・ウィルソンそっくりのようなつもりになって弾いて...それが始まりです。今みたいに情報がない時代ですから、最初はテディ・ウィルソンとか、ジン・クルーパーとかチャーリー・ベンチュラとかにすごいなあなんて、ずい分長いこと夢中になっていました。チャーリー・パーカーなんて聴いたのは、ずっと後のことですから。
☆明けても暮れてもウォーター・メロン
ジャズに浮かされて東京へ出たのが、一九四九年の冬、最初にジョージ川口さんの先生の生馬さんのショー・バンドに入りました。それからあとはゴシャ、ゴシャとゲイ・スターズとかブルー・コーツとか、フランキー堺さんのシックス・レモンズとかに加わり、自分の最初のバンド、コージー・クヮルテットを作り、ニヶ月でつぶれました。二回目のコージー・クヮルテットにはまだ余りうまくなかった渡辺貞夫さんもいました。そのうち宮ちゃん(宮沢昭)が来てクインテット、トロンボーンが入ってセクステットまでになり、またしぱらくしてクヮルテットに戻り、そこでアメリカに来たんです。アメリカ留学は一九五五年のことですから、この間、六年余が経っているわけです。
とにかくあの頃は、ジャズ・バンドというと、ダンス・ホールなんかに出演していた人が多く、いわゆるジャズのインブロビゼイションを身体で感じとれるジャズマンというと、やはり一九五〇年代まで待たねばなりませんでした。
ジャズがもっとも大衆に結びついだのは、ジョージ・ウェインが来日した一九五二年から二、三年間で、熱狂的なブームになりました。毎週一回、読売ホールで開かれていた「読売コンサート」のジャム・セッションはいつも超満員、コンサートを開けば、またどこも満員という、一つのブームを形づくりました。「テネシー」が日本で一番最初のジャズ喫茶として、アライブ・ジャズ・コーヒー・ショップなんて変な名で登場したのも一九五三年。そこに一番最初に出だのが渡辺晋とシックス・ジョーズ。そして渡辺晋さんから昼間のグループを私に集めてくれということで集めたのが「オール・スターズ」とかなんとかで、宮ちゃんとか、海老原さんとかを入れたクインテット、しぱらくしてクヮルテットになってしまい、またしばらくしてからはソロになって毎日出ていました。そして夜は夜で、前述のコージー・クヮルテットで「ニュー・ギンザ」というクラブの中二階に出てやっていました。
ある日、今日ある私の運命を決定的にした事件、オスカー・ピーターソンが、レイ・ブラウンとひょっこり「ニュー・ギンザ」に現われて、そしてアメリカの大プロモーターのノーマン・グランツに私を紹介してくれたわけです。その頃が日本でのジャズの最盛期でした。でも、相変らす情報は乏しく、私など相も変わらず「ウォーター・メロン」なんか弾いてて、自分のスタイルなんてものは全然ありませんでした。今でも、日本のシンガーがアメリカに来ると、日本ではうまいと言われている人でもみんな同じように、一曲歌うと誰かさんみたいでというような、そんな調子だったと思うんです。一曲弾けばエロル・ガーナーみたいで、そのあと何か弾くとオスカー・ピーターソンみたいなんて調子だったと思うんですけど、曲りなりにも、苦心惨担して、自分でアレンジしてやってました。お客さんたちも、ものすごく熱心で、ブレイクなんてすぐ判って、ああ、ってね。そういうコミュニケイションがありました。私が日本に最初に帰ったときですから一九六一年ですね、聴衆の受け取り方は静かなものになっていましたけど、今また、人の話によると、その当時のジャズ・ファンみたいに非常に聴衆の質が高くなっているということです。しばらく日本に帰っていませんので、よくはわかりませんけど。
ま、聴衆のことはさておき、実際、ミュージシャンだけの話でいいますと、その頃からだんだん、いわゆるパップ派のパーカー・スタイルが俄然はやりだしました。ディジー・ガレスピーも大物でものすごく尊敬されて、ずいぶん隆盛になってきましたけど、残念なことに日本にはまだその頃は、トランペットではテクニック的にうまい人はいましたけど、日野皓正さんみたいな人はいませんでしたから、ディジー・ガレスピーの影響を受けるなんて人はー人もいなかったんです。だから、いきおいサキソフオン吹きになって、宮ちゃんとか、松ちゃん(松本英彦)とかナベさん(渡辺貞夫)とかいう連中が活躍して、ソニー・ローリン(ロリンズ)とかチャーリー・パーカーとかの傾向が支配的になっていたんです。それにパーカー系のものを勉強する人が非常に熱心でした。
どんなに熱心だったかという話しですけど、その熱心な中の一人にハナ肇さんがいました。彼は当時、デューク萩原のコンボでドラムをたたいていましたが、彼の主催で、我々は月一回、横浜の「モカンボ」というクラブを借りて勉強会みたいにセッションをやっていました。ハナ肇さんは事務的なこともやってくれていて、会場料として入口で百円ずつ、みんなからお金を徴収します。ミュージシャンがたくさん集ってお金が余ると、それを来月にまわして、来月は無料で参加できたりするんです。クラブが終ってからみんな集り出しますから、夜中の十一時半頃からセッションが始められます。守安祥太郎さんと私はいないことがなかったんです。私は満州育ちのせいか非常に健康でして、翌朝の九時半頃まで延々と十時間ほども統けられたセッションも休みませんでね、皆さんは朝方になるとこたえてくるし、ホーンの連中であれば何人かいますから入れ替り、立ち替りで、九時頃になると楽器にもたれかかって眠ったり、で、私がたいてい最後はー人になっちゃうんです。一度、朝の十一時頃にもなってやっと、帰ろうか、なんて言ったのを覚えています。それから映画見に行ったり...もうタフでした。
その頃は考えるというようなことではなくて、感じて弾くという調子で、今、当時のテープを聞くと、おそまつで聞くに耐えない代物ですけど、熱に浮かされてやっていたんですね。デモに熱に浮かされてやっていたどいう状態自体は経験として良かったと思うんです。逆にもし、一度も浮かされたことがないとすれば、それはすごくこわいことだと思いませんか?もっとも今の若い人たちに比べたら、我々は物事をそう深刻に考えはしなかった世代なのでしょう。今日のように情報が発達して、世界が狭くなって、政治問題なども隣の国の問題が、我々の問題と同じように親身に感じられる情勢であれば、手放しで夢中になれるハッピーさはもうないのかもしれません。
☆私はジャズだけをやりたい
一九五九年、奨学金を得てバークリー音楽院に留学のためアメリカに来ました。別に何の協力もありませんから、「日本からやって来た...」なんてことで学校の宣伝につかわれながら、こちらもそれを喜んで受けながら自分のトリオであっちこっちのクラブに出演し、そのうちチャーリー・マリアーノと結婚してからクヮルテットでやって、面倒くさくなったからソロになって、それからルー・タバキンらに会って、今のバンドになってから二年半統いているわけです。
ルーたちとのめぐり会いは、最初は仕事ということではなく、私が譜面を持っているし、時々ポコポコと曲を作るものだから、もったいないから練習しましょうかってな調子で始まったんです。ルーが私の曲をとても好きで、また私としてもうまい人はそんなにたくさんいないので非常に遅が良かったわけです。週一回練習して、はじめ「トップ・オブ・ザ・ゲイト」に毎日出ていたんですけど、他のミュージシャンから文句が出て、今は他の場所にも出ているわけです。メンバーもルーを除いて何人か変りました。ベースは最初がレジー・ジョンソン、それから今はスタジオに入ってしまっているロン・カーター、次がレジー・ワークマンとか・・・ドラムスもミッキー・ロカ、ジョン・ファン、ピート・ラロカと、四、五人ぐらいが時に応じて替ってはいますけど、毎週々々やっているので、コンサートなんかがあってメンバーが抜けたりしてもサッと他の人を入れて、我々の持っているミュージックを提供できるということでやっています。
とにかくなにも知らないでやってきたので、こちらにきて、この国柄がわかるまでに四、五年を要しました。一国一民族の国であれば、もっと早くわかったかもしれませんけど、アメリカのような国を形づくっている多民族の、それぞれに違う人情とかユーモアを本当に理解できるまで大変でした。それらのことはともかくとしても、ジャズ・クラブの状態のことは、日本で考えていた状態とは大部ずれていました。私はとにかく、アメリカでジャズを弾ける所は全て、ジャズ・クラブだと思っていたわけですけど、たくさんあるそれらクラブの中でも、自分の好きなようにジャズを弾けるという所は非常に少ないということがわかるまでに、実に四年もかかったのです。例えばイースト・サイドのクラブでは、イースト・サイド・スタイルというものがあって、ジャズ・ミュージックではなく、ジャズ・フレイバー・ミュージックといったものが要求され、それは単にジャズ的要素の強い音楽にすぎないわけです。
ジャズ自体、もちろん種々の要素からできているわけで、簡単に言ってしまえば、音楽である以上、リズムがあって、メロディがある、そしてハーモニーかある。リズムは、こちらにきてからこなされたものにしろ元来アフリカから来たものですし、その上にある音は西欧から来たもので、これだけでももうジャズは一つの混合体です。その上に独特のフレージングの仕方とかシンコぺーションとかが現われて、いわゆるスイングというものをつくっているけど、そのスイングだって、その時その時の社会というものを反映して、スイング観といったものも違ってきてはいます。だからどういうものがジャズだということは、特に言葉で示すことは困難には違いませんが、しかしジャズの一番の本質的なところに即興演奏という行為があると思うのです。
ジャズをジャズたらしめている核はなんなのかということ。つまり、ジャズのどこに芸術を認めるかということなのでしょうけど、私はこの場合、即興演奏、つまりジャズくらい非常に個人的な音楽はないというところを重視するのです。ジャズでは、何をやるかが問題ではなく、誰がやるかが問題です。クラシックの場合ですと、ただ誰が一番うまくベートーベンをやるかということであって、これは技術の問題でこそあれ、音楽の問題ではないわけです。
その人の思考の問題も多少はあるでしょうけど、プレイヤーの場合には、誰がやるかということは、単なる技術の問題ではなしに、その人自身が音楽でなくてはならないということなのです。だから極端な言い方をすれば、ジャズでは「君が代」やったって「鳩ポッポ」やったって変りはない。そこが本質的に違うんです。だけども、その要素だけ、核と思っている要素だけを除いて、残りの全ての要素をとり揃えたもの、それを私は今、ジャズ的音楽と言ったわけですが、個人の主張が全然ない……非常に繊細で難しいものだと思うんですけど、イースト・サイドのクラブとか、高級クラブではそういう音楽しか要求されないのです。フォーミュラを全部そろえて、化学じゃないけど、調合してやらないとだめなんです。そういうことがわかるまで四年……。だから私が来た当時、そういう所に学校からポコポコ出演させられて、こちらは喜んでガシャ、ガシャやったものですから、みんなから嫌われてしまいました。軽く弾いてとか、下向いて顛しかめて弾いちやいけないとか、そういう社交的な要素の方が強く入るんです。
☆神に選ばれた私たち
本当にジャズだけをやれる店が極めて少ないということにつけ加えて、この国は非常にプロフェッショナルということに徹した国で、職場環境はそれだけ厳しいわけです。むろんジャズ界のみに限ったことではなく、例えは野球の選手なんかも、五、六歳の頃から、親が野球選手にするための育て方を徹底的にしています。ですからアマチュアとプロフェッショナルとの力の差は、日本の大学のチームとプロのチームの差なんてものじゃなくって、そこには全く通用しないだけのはっきりとした力の差があるようです。有名な大学のビッグバンドでやっている人でも、そのままプロのビッグバンドに通用するということはありません。
ところが日本の場合は、そういうプロフェッショナリズムとアマチュアリズムが明確に一線を引いているということもないし、レベルを平均したとき、残念ながらミュージシャンの質は落ちますね。もっともジャズの場合には、何といっても歴史が浅いですし、十五年前に私がこっちに来たときに比べたら向上はしているんでしょうけど、平均したら比較になりませんね。むろんこれは経済的なことともつながっているわけです。日本の場合ですと、十人のミュージシャンがいれば十、もしくはそれ以上の仕事があります。ですから必ずしも、その全ての仕事をこなさなくてもいいという安閑とした環境が用意されています。それをどうしても全てこなすという人間は非常にまれで、その人は経済的な必要性からやるのではなく、自分の今持っているものよりももっとより多くのものを吸収しなきゃという態度でいなきゃ気が済まないと、そうすることが、息をするのと同じくらい必要だとする人で、そういう人は、どういう環境に置かれても必ず進歩していきます。しかしそういう人は、劇的に言えば、神に選ばれたる人達であって、数少ないわけです。ですけど、こちらアメリカでは、経済的な面と現実的な面とは直接つながっているので、必要性からみんなの技術か高まっています。高くないとご飯が食べられないですから。でも逆に言えば、生活できるということがある種の不幸かもしれませんね。生活できるということは、余裕ができるということでもあるし、余裕ができれば他のことが欲しくなるし、他のことでも得るところはたくさんあるわけですから、第一義的なものでなしに第二、第三のものというように拡散してしまって、自分のやりたいことが何なのか、自分が最も大切にしたいものが何なのかということが次第に薄れていってしまう危険性をかかえ込むことでもありますから。私、わからないんです。なんであんなに日本のジャズ・ミュージシャンたちがゴルフやったりしているのか、とてもわからない気がしちゃうんですね。
☆私の人生はジャズという名のゲーム
かつて日本にいた頃、なんで日本人のくせしてアメリカの音楽をやるのかなんて、よく言われたことがありましたが、私にとっては個人ということが非常に大切な開題ですから、民族意識というグループ意識での考えはできないのです。ですからアメリカで生まれた音楽をやっているということに対して、とりわけ意識したことはありません。実際に出会ったこともなく、観念の範囲で思っていることは、全て偏見にすぎず、経験とは別個のものであるはずです。日本人であることの誇りとか、猛烈に感じる日本への愛着とかも民族意識に連らなるものでしょうけど、昂揚したナショナリズムというものは偏見だと思うのです。ただアメリカという国は、いい悪いは別として、民族性というよりも、非常に人種を意識させる国なんです。
ジャズ・ファンを見ていても、黒人だと必ずうまいと思っている、うまいという先入観が働くから、またうまく聞こえるというヒップノウセスにかかっているようなところがあります。それは日本にも、ヨーロッバにもむろんありますけども、アメリカに於いても歴然とあって、目分が才能あるミュージシャンでも、はじめは黒人に認められるということを一つの誇りにしています。そりゃあもちろん、アメリカの社会形態の故にジャズは黒人の音楽として育ったから、歴史の長い方が多くの優れたミュージシャンを輩出しているのは当り前のことであって、もしも黒人のプレイヤーでなければ、本当のジャズは演奏できないと極端に言うのならば、日本のミュージシャンがジャズをやる必要もないわけですよ。もしそういう論理が成り立つとすれば、日本のミュージシャンは単に模倣しているにすぎないということになります。
音楽は、わけてもジャズは個人的なものです。平たく言うと、ジャズという名のゲームが私の人生です。人生といえばもう浪花節調です。自分のやっていることに自分の人間性は出るし、その人がバカじゃない限り、その人の思想はもちろん、存在の状態そのものをあけっぴろげているわけです。音楽ということは私にとって、私のゲームであり、それが私の生活態度であるわけです。私にとっては音楽が中心なのです。我々、ある年令になればなっただけ、いろんなことを経験し、観察し、いろんな矛盾に気がつく。そこで自分が生れて、何たる故に存在しているのかという一つの信念も出てき、それが全て、音楽の根になってゆくのだと思います。ですから過渡期のものが、その人のやっていることに出てくるのは当然のことですし、理性のある人は、音楽に於いても、その理性を否定し得ないでしょうし、否定すべきことでもないと思います。自己回避することは非常にむずかしいし、それは自分を愛することとはまた別のことです。根本的に言って、我々の存在、今、生きていることと、その存在との関係、対・対象との関係においての自分の位置というものは、どんな場合でも常に出ているわけですから。その存在、今、生きていることと、その存在との関係、対・対象との関係においての自分の位置というものは、どんな場合でも常に出ているわけですから。
☆つくづく女にはジャズは不向きです
最後に、ジャズという名の混合体音楽が育ったところは、アメリカのストーリービルという紅灯の巷、娼婦街です。それでガヤガヤとやかましい楽器を使うことになったわけです。娼婦街で必要とする音楽ということは、つまるところ、非常にセクシーな音楽ということですよね。もっともクラシックもその発生の頃は男女交際の社交のためにつかわれたことは同じですけど、ただそこが高級人種の世界だったために非常にきれいに洗煉されていて、直接的にはエロスというものか表現されていないというだけのことです。ジャズは一方、対照的にエレガントな要素がなく、直接的です。飾りっ気を全部むしっちゃったものです。直接的ということはつまり男性的だということですし、それはある意味において、より生き物的だということです。私、かつてミンガスのグループに半年いたことがありましたけど、彼はすごいどなり屋で、ステージの上でもギャー、ギャーやります。やられる方にしてみればステージの上ですから、ナチのキャンプに入れられたユダヤ人みたいにみんなちぢこまっちゃって、心理的に非常に良くないわけです。ところがミンガスは非常な生命力を持っていたんです。メロディだけ聞くと、天才的に高度なものが多いですね。そこが音楽になっていたところなんです。ところが彼が生命力を失うと、もう聞いていられません。精神憂うつ症、誇大妄想狂などが生命力とかさなって非常に幻想的な世界をつくり、そのためにエキサイトがあったんです。メキシコの絵でも思わせるようなきつい音楽が。そこがジャズという音楽のとりついて離れられないところです。大げさに、うんと大げさに、ロマンチックに言えば、ジャズはその人のその時の、単なる存在ではなく、存在の状態そのものを縦横に表わしていると思うのです。それが素晴しく、それしか私には、この世の中で吸収し統ける自分の存在価値を見出せないんです。音は離れていきます。それがいいんですから。ですから私はレコードというものは嫌いです。ときどき思うんですけど、地球が出来て以来、今まで出した数え切れないまでの音が、どこか宇宙のかなたに結晶していたらどうだろうかなんて...。
しょせん女には生理的にいってもジャズは不向きです。やはり台所をピカピカに磨いておきたいというようなことに気をひかれるのが女です。でも我々は生れて死ぬことの意味をもっているわけですから、終りを予告されている人生の中で何をやっても勝てっこないという気がしています。だから私はもう、レット・ミュージック・テイク・オーヴァ。浪花節的人生でもようござんす。
(月刊『JAZZ』1971.4-5から転載)