Vol.65 | ハバナのゴンサロ・ルバルカバ/東京でチャーリー・ヘイデンに哀悼を捧げたゴンサロ・ルバルカバ

text by Masahiko YUH
photos by 米田泰久(写真提供:COTTON CLUB), *山路 ゆか(写真提供:ブルーノート東京)

 4月14日、オバマ米大統領が、キューバに対するテロ支援国家の指定を解除することを決定(承認)したニュースは世界中をかけめぐった。もし通告を受けて議会が承認した場合、大統領承認から45日以降に発効することになっているので、本ジャズ東京誌の次号の発行あたりではもしかするとその目鼻がついているかもしれない。ただ現時点では主導権をにぎる共和党の複数の議員が強く反対する意思表示を行っているので、その決着がどうなるかは定かではない。私は個人的にはキューバの肩を持つ。言い換えればオバマ大統領を支持する。(第一、いくら米西戦争で勝利した米国がキューバの独立を承認した代償に国土の一部〜キューバ島南部グァンタナモ湾に面した土地〜を永久租借し、国交断絶していたさなかにあってもなおグァンタナモ米海軍基地として使用しつづけているなんて馬鹿げている)。たとえ共和党が多数を占める上下両院の議会で反対法案を提出し、採決の結果可決されたとしても、最終的には拒否権をもつオバマ大統領が共和党の反対法案を拒否するだろうと思う。恐らくキューバ国民の大多数はオバマ大統領の決断を大歓迎するに違いない。なぜなら、米国が国交断絶(1961年)の翌年、キューバへの全面禁輸制裁に踏み切り、とりわけキューバがコロンビアの左翼ゲリラの肩を持ったことに危機感を抱いた米国がキューバ経済に対する制裁強化を断行(1996年)して以来、キューバ経済は危機的状況に陥ることを余儀なくされているからだ。
 特筆したいのは、キューバがテロ支援国家に指定(1982年)されてからというもの、他の国々との貿易などの経済関係にもヒビが入った結果、国内経済が大きな打撃を受け、カストロ国家評議会議長(当時)に絶縁状を突きつけた多くの人々が米国の裏庭ともいわれるカリブの海を越え、危険を冒して米国へ脱出する動きに出たことだ。このことはよくご存知だろう。なぜキューバの経済的危機をこの巻頭文の枕に置いたかといえば、ハバナで経験したある思い出が私の脳裏に常にわだかまっていて、ふとした折りにそれが顔を出すからだ。ゴンサロ・ルバルカバと初めて会って話を交わすことができたことや、チューチョ・ヴァルデスの自宅にお邪魔して話を伺ったのも無論そんな思い出の1つだが、脳裏にわだかまっていたのはそのことではない。
 実をいうと、私はジャズに負けず劣らずキューバ音楽が好きだった。戦時中にSP盤で聴いたレクオーナ・キューバン・ボーイズの「タブー」と「アマポーラ」のとりこになった私は、長じてジャズにのめり込む一方で隠れラテン・アメリカ音楽のファンとなって、中でもソンやチャチャチャをはじめとするキューバ音楽に熱中した。盟友の竹村淳氏からキューバ旅行を打診されたとき、飛びつくように誘いに乗ったのも生のキューバ音楽とじかに接したいという一念ゆえだった。病(悪性リンパ腫)の死地を脱出してわずか数ヶ月後の1990年12月、周囲からは無謀な試みとあきれられながら私は旅の人となった。
 結局私は、竹村氏らが帰国した後も居残って、現在もキューバ音楽界と日本との架け橋となって活躍している河野治彦氏のサポートにも助けられながら、マタンサス州や念願だったサンチャゴ・デ・クーバにまで出かけるなどキューバン・ライフを満喫した。滞在中は毎日のようにコンサートやさまざまなライヴ演奏を楽しんだが、あるとき演奏後に紹介されたプレーヤーのお宅にお邪魔したときのこと。洗面所で手を洗っていると奥方が申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい。実は石鹼がないのです」。詳細を知って驚いた。現在経済的な苦境のまっただ中にあるこの国では、手に入らないものが沢山ある。石鹼もその1つだというのだ。
 外国人旅行者はホテルなどにある専用の売店(Post Exchangeに類するショップ)でたいていの日用品は手に入る。そこで見つけた石鹼を買って、翌日くだんの演奏家にプレゼントさせてもらった。3年後に再度キューバを訪問したとき、お土産用に石鹼をいくつか買ってトランクに入れたことを懐かしく思い出す。もし米国が96年以来の経済封鎖を解除すれば、そうした不都合はすべて解消されるはずだ。何はさておき、32年以上に及ぶテロ指定の解除が本決まりになり、次に経済制裁を解くという段取りで進めば、他の国々がキューバとの経済的交流を促進するのは間違いない。すべての鍵をにぎっているのは米国政府であり、トップにいるオバマ大統領だ。
 本題に入ることにしよう。初のキューバ滞在で私が注目したバンドの1つにギジェルモ・ルバルカバ楽団があり、このバンドのティピカ・チャランガによるダンソン(ダンサの発展形)を何度か楽しんだ。ギジェルモ・ルバルカバって? 実はゴンサロ・ルバルカバの父親である。チャランガとはこのダンソンやチャチャチャなどを演奏するときの楽器編成で、このバンドはヴァイオリン4本、チェロが1本、フルート、ベース、キーボード、パーカッションが3人、そしてヴォーカルという、かなりの大所帯だった。ルバルカバ楽団のダンソンはアフリカ色が濃くなったスペイン風ダンサといってもよく、博物館の中庭(アルマス広場)で聴いた彼らの演奏は洗練と野生が抱擁し合うかのような、陽気な楽しさに満ちたものだった。かくして滞在中、私はこのティピカ・チャランガのダンソンやグアラーチャの虜になって、何度か満喫した。むろんチャチャチャも。河野さんの助けを借りて話を聴いた。ギジェルモはチャチャチャの第一人者で看板スターだったエンリケ・ホリン楽団で音楽家のキャリアをスタートさせたことを明かしたあと、言葉を継いで息子のゴンサロ(ゴンサリートと呼んだ)の生い立ちを話してくれた。
 「ゴンサリートは6歳で打楽器に興味を覚え、7歳のとき実際に叩きはじめた。といって学校ではこの年齢では打楽器は叩けないので、ピアノをやり出したんだ。でも本人は打楽器が諦められず、先生のすすめで両方を平行して勉強したというわけだ。ピアノに精を出すようになったのは、大学に進んでからだ。息子の才能を最初に認めた人がディジー・ガレスピー(93年1月6日死去)で、彼は息子を米国へ連れて行こうとしたのだが、ビザが下りなかったために泣く泣く断念したんだ。ゴンサリートの兄たち、つまり私の息子は兄弟3人でみな演奏家。私のバンドのベース奏者もそうだし、もう1人もアルゴ・ヌエボ楽団でピアノ兼リーダーとして活動しているよ」。
 ギジェルモが率いるこの楽団にも触れておこう。「私は1950年に君も大好きだというエンリケ・ホリン楽団でプロの演奏家のスタートを切った。ギジェルモ・ルバルカバ楽団の名で活動しはじめたのは70年。リーダーが亡くなったので私が跡を継いだんだ。もとは音楽学者のオビディオ・ウルフェが62年に始めたダンソンを演奏するバンドだった。私はメレンゲ、ボレロ、ボサノヴァまでレパートリーを広げた。若者向けにはダンソンやグアラーチャを。キューバ音楽のエッセンスを盛ることを忘れないんだ。クラシックの名曲をダンソンで演奏したレコード(エグレム)もあるよ」。

●ゴンサロ・ルバルカバ〜ピアノ・ソロ
 2015年4月8日、COTTON CLUB (丸の内コットンクラブ)
 ゴンサロ・ルバルカバ(piano)

 息をするのも憚られるくらい、いや息をするのがもどかしいくらいというべきか、ピアニストとしてのゴンサロ・ルバルカバの絶頂期の演奏を時間も何もかも忘れて、ただただ息をつめて聴き入った。絶頂期という判断は私の見立てに過ぎないが、そういって何の不思議もないほどタッチはむろん、透明で力強い奏法といい、集中力といい、楽想の展開といい、すべてにわたって、まもなく52歳を迎えるゴンサロ・ルバルカバのピアノ演奏の頂点といってもおかしくはない成熟し切ったソロ・プレイを心から堪能した。至芸といってもいいが、そんな言葉がむしろ安っぽく思えるほど、その演奏は思考力に富み、中ほどで演奏した「エル・マニセロ(南京豆売り)」ではキャンバスにデッサンされた笑顔と野性味がはじけるキューバの女性ムラート(混血)が活きいきと躍るよう。出だしのリズムで「ピーナツ・ヴェンダー」だと分かるが、モティーフや旋律の展開が一筋縄ではいかない。それはピアノのキーへのアプローチにもいえる。スペースの描き方にも、打鍵にも、音色の配慮にも、誰もが試みるようなありきたりの方法やアプローチをとらない。取っ付きにくいが、音楽家として生きている彼の真摯な姿がそこに投影されるのである。ミュージシャンが真剣に格闘している有り様は、ゴンサロに限らず美しいものだ。この夜の3日前にブルーノートで聴いたチャーリー・ヘイデンの「ファースト・ソング」が、2曲目に弾いた「ブルー・イン・グリーン」よりも心に響いたのは、親密に交流し合った彼とヘイデンの関係ゆえだったかもしれない。アンコールで演奏した「サイレンス」にも同様のいとおしみを覚えた。あたかも1人の瞑想的思想家の面差しを見る思いだったが、そこにジャズ・ピアニストの顔が見え隠れするところが私にはすこぶる印象深かった。

 ゴンサロ・ルバルカバが世界に向けてのデビューを果たしたのは1990年。スイスのモントルー・ジャズ祭だった。その翌年の91年、彼は初来日し、マウント・フジ・ジャズ祭に登場した(8月23日)。彼をスイング・ジャーナル誌(当時)を通して初めて紹介したのが折よくハバナに逗留していた私だった。
 私がゴンサロ・ルバルカバと初めて会ったのは、90年に初めてキューバの土を踏んだときの、年が明けて91年1月7日のことだ。父ギジェルモの話を補足する形で生い立ちから話しを訊いた。「私は1963年5月27日、ハバナ生まれ。父の楽団のリハーサルやジャム・セッション(キューバ音楽ではディスカルガという)を見ているうちに打楽器に興味を持ち、ティンバレやギロを叩くようになった。4つか5つのときだ。キューバにはチャンギートをはじめタタウィネスやギジェルモ・バレットら打楽器の世界的名手が当時何人もいたんだよ。ピアノは8つのとき。5年生のとき打楽器を正式に学ぶことになった。ピアノと打楽器の両道にいそしんだわけ。作曲は20か21のときインスティチュート・スペリオール・デ・アルテ(西洋のコンセルバトワール)で。私は14、5歳のころからキューバを代表する演奏家たちとソン、ダンソン、フォルクロリコ、フルバンド、時には歌い手の伴奏、ジャズなどさまざまな音楽を演奏してきた。ムジカ・モデルナ(キューバのビッグバンド)や人気グループのバンバンで演奏し、自分の音楽的質を高めることができた。チューチョ・ヴァルデスやエミリアーノ・サルヴァトーレらとデュエットしたこともあるよ。1985年初め、2枚組のコンサート・ライヴ『コンカテナシオン』を発表したけど、これはドイツのレーベルから『ゴンサロ・ルバルカバ・ライヴ・イン・ハバナ』として発売された。この85年は私にとって画期的な年だったね。オランダのノース・シー・ジャズ祭や英国のクラブ「ロニー・スコット」で演奏したのも、ディジー・ガレスピーと初共演(『ガレスピー、ルバルカバ・エンヴィーヴォ』として世に出た)したのもこの年だったからね。そう、あの『ハバナの夜』だよ」。
 翌86年、ディジー・ガレスピーが愛してやまぬキューバへやってきたとき、彼はピアニストを連れてこなかった。ここにはルバルカバがいたからだ。ガレスピーが88年にビッグバンドを率いてきたときも、ルバルカバは招待されて演奏した。付け加えれば、ガレスピーは米国のトランぺッターだが、フィデル・カストロは彼の演奏を愛した。つまり、ガレスピーは例外的な存在で、彼だけは自由にキューバに入国することができたのである。最後に好きな音楽家、影響を与えられた演奏家をあげて欲しい……私の頼みが終わらないうちに彼は次々と列挙した。曰くセロニアス・モンク、バド・パウエル、ビル・エヴァンス、70年以降のキース・ジャレット、ハービー・ハンコック、チック・コリア、あるいはジャック・ディジョネット、マックス・ローチ、ギル・エヴァンス、サド・ジョーンズ、等々。この青年がついこの間までハバナの交響楽団でパーカッションを叩いていたとは、にわかには信じられなかった。それほどあらゆるジャズに明るかった。
 そして続けた。「それにキューバのベニー・モレー。ほかにも沢山いる。今あげたような米国のジャズ演奏家、つまり北米の情報と、キューバ音楽の様式をミックスしたラテン音楽、それが私の目指している音楽なんだ。交響楽団と合唱団とバタの演奏(唱)をミックスした88年の『コンチェルト・ネグロ』はその最初の1つだった」。
 別れ際に私は父親のことを訊ねた。「父かい? 父は学校のようなものさ」。

 ある日、滞在中に一度は行ってみたいと思っていたハバナの砂浜に出かけた。まばゆい太陽の光が降り注ぐ白銀のような砂浜に色とりどりのパラソルが立っていた。ほとんどが外国の旅行者だ。しばらく心地よい海風を満喫したあと、砂浜を歩きながら帰途についた。そのときひとつのパラソルが目に入った。パラソルの下で一人の白人男性がもの静かに本を読んでいた。何気なく一瞥したとき、見覚えのある顔にハッとした。何とチャーリー・ヘイデンではないか。私にとっても忘れがたいベーシストだが、不思議なことに彼とは面識がなかった。加えて、夢中で読書にふけっている彼を邪魔するのは憚られて、しばしたたずんだあと思い切って踵を返した。
 ロン・カーターもそうだが、ヘイデンと私は同い歳。ルバルカバは1993年5月14日に初の米国公演を行ったが、このコンサートの実現に骨を折った男がチャーリー・ヘイデンであった。というより、ルバルカバの音楽家としての才能に刮目し、米国がキューバとの国交を断絶しているという至難な状況の中でヘイデンがルバルカバの米国公演の実現に向けていかに精力的に奔走したかに注目するとき、ルバルカバのヘイデンに対する尋常ならざる深い思いがこちらの心に迫ってくるのだ。去る4月5日から7日までの3日間にわたって行われた彼自身のグループ(ゴンサロ・ルバルカバ・クヮルテット)によるブルーノート公演は、まさに亡きヘイデンをしのんで彼への思いをすべての音に託したルバルカバによる鎮魂歌を聴く夕べとなった。

●ゴンサロ・ルバルカバ・クヮルテット
 2015年4月5日、Blue Note Tokyo
 ゴンサロ・ルバルカバ(piano)、ウィル・ヴィンソン(alto sax)、
 マット・ブリューアー(bass)、マーカス・ギルモア(drums)

 アルトを吹いたウィル・ヴィンソンは私には初めてだったが、ベースのマット・ブリューアーもマーカス・ギルモアも切れのいいサウンドとアプローチの傑出した音楽性で注目していた。彼らのそうした能力にふさわしいハードな展開と変化にとんだリズムの妙味を期待した私の勇み足としかいいようがないほど、この夜(初日のファーストセット)のクヮルテットの演奏は沈痛なムードに終始した。演奏前に見た宣伝ちらしにも<Tribute to Charlie Haden>(チャーリー・ヘイデンに捧ぐ)と大きくうたわれており、それをそっちのけにしてあらぬ期待を抱いた当方に落ち度があったことはいうまでもない。
 それはともかく、冒頭からあたかも死者を黄泉の国に送るミサ曲のようだった。このオープニングは「Sandino」という曲らしいが、私には全体を縫う沈鬱な響きがチャーリー・ヘイデンをしのぶラメントのように胸に迫った。第3曲とスロー・ルンバ風の短調曲「Transparence」の2曲がピアノ・トリオだったが、これらがすべて単調のバラード。それが全体のムードに沈んだブルーな色とニュアンスを与えたのだろう。私の耳で判断して短調ではないバラードが1曲と、唯一の4ビートのミディアム曲「Hermitage」の2曲が、全体の悲痛な雰囲気を逆に和らげる効果を発揮して、つまりその2曲がアクセントになっているところがむしろユニークだった。そして、ここでもヘイデンの「ファースト・ソング(First Song)」が哀切をそそる。8日のソロでも演奏した「Blue in Green」や「Nightfall」、ソロでも涙を誘ったアンコール曲「サイレンス(Silence)」を聴きながら、ルバルカバがいかにチャーリー・ヘイデンへ敬愛の念を持ち続け、彼自身にとって恩義のある最も偉大なミュージシャンの1人であったかを、改めてしみじみと思い返した。
 ゴンサロ・ルバルカバはまさしく成熟の極みに達している。私が初めてハバナで会ったときの彼の初々しさを思い浮かべると、別人のような趣きさえ感じられた。コットンクラブでのソロを聴いたあと、楽屋に彼を訪ねた。ステージとは違って、にこやかな笑顔で応対する彼を見ていると、結婚してから人間がさらに大きくなったように見える。米国初公演を行った1993年以後、彼はマイアミとハバナを行ったり来たりする生活を送っていたが、結婚してからはマイアミでの暮らしに落ち着いたのかもしれない。故ガレスピーと同様に、彼も米国とキューバを自由に往来することを許された例外的なミュージシャンといっていいが、それでもキューバと米国が国交を回復し、経済交流や人の往来が活発になる自由な社会の到来を、誰よりも望んでいるのはゴンサロ・ルバルカバその人であることを私は疑わない。(2015年4月23日記)

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悠 雅彦

悠 雅彦 Masahiko Yuh
1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、朝日新聞などに寄稿する他、ジャズ講座の講師を務める。
共著「ジャズCDの名盤」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽之友社)他。本誌主幹。

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NEW1.31 '16

追悼特集
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#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
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by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
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第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


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#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

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