MONTHRY EDITORIAL02

Vol.64 「エル・システマ」のこと text by Mariko OKAYAMA

 ベネズエラで生まれた音楽教育プログラム、エル・システマに関わるマネジメントKAJIMOTOの担当者から、テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラのDVDが送られてきた。エル・システマのユース・オーケストラ・オブ・カラカスは昨年2013年に来日して話題沸騰したし(本誌http://www.jazztokyo.com/live_report/report593.html)、このシステマから生まれた指揮者グスターボ・ドゥダメルの名を知らないひとはもういないくらい有名だ。私は残念ながら来日公演を見逃したが、DVDを見てその溌剌たる演奏と陶酔の表情に魅入られ、『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ〜エル・システマの奇跡』(トリシア・タンストール著/東洋経済)という本も読み、いろいろ考えた。

 以前、ベトナムに行った時の苦い経験を思い出す。人々の日常に触れたい、などと不遜な気持ちで、観光客の立ち入らない地域の通りを友人と歩いていたら、前方から3人の子供たちがバラバラと駆け寄って来る。と思った瞬間、肩から斜め掛けしていた布製のポシェットを思い切り引きちぎられ、はずみで飛び出した中身の一部が散乱すると同時に、ポシェットは奪い去られていた。周囲の大人たちが、慌てて集まってきて、なにか言葉をかけてくる。私は落ちたものを拾いながら茫然とし、ともかくシクロ(自転車タクシー)をつかまえてホテルへ一散に戻った。さほど現金が入っていなかったのは幸いだったが、しばらく震えがとまらず、自分の増長をはげしく恥じた。
 ベツレヘムのパレスチナ自治区に、分離壁を超えて入ったときに見た、パレスチナの少年たちの表情も忘れられない。路地ばたに、何をするでもなくたむろする彼らの閉塞感に満ちた暗い目と淀んだ空気。俺たちにどんな「未来」があるというのさ。そういう顔で、遠来の侵入者に刺すような視線を投げてよこす。エルサレムの都会の喧噪を闊歩するユダヤの若者たちの明るさと、それはあまりに大きい落差で、私は重い鉛をズンと喉元に落とし込まれたような感情を嚥下することができなかった。

 エル・システマは、犯罪やドラッグに走るほかないベネズエラの多くの貧困層の子供たちを音楽で救おうという理念から出発した教育プログラムである。音楽家であり、政治家であり、経済学者でもあるホセ・アントニオ・アブレウ(1939~)が1975年に創始した。
 そもそも、クラシック音楽は、その発祥からして富裕層の娯楽である。私は音大で学んだが、専門家への道は、幼少から早期教育のための高額なレッスン代を支払い続けうる経済力のある家庭でないと難しい。私が音大進学を決めたのは高校時点と非常に遅く、短期で遅れを取り戻すために、実技をふくむ5つの専門科目の個人レッスンに毎週通った。その個人レッスンも、目指す大学に席がある、もしくはルートを持った教師を選ぶことが必要で、その世界に全く知己のない親は、ずいぶんと苦労したようだ。有力なルートであればあるほど、レッスン代はつり上がる(私はそんな教師にはつかなかった)。出版社勤務のごく普通の経済状況の我が家であったから、つくづく親には負担をかけたと思う。
 こういう事情は、クラシックに関する限り、どこでも似たようなものだろう。だが、アブレウのそれはいささか異なる。彼は、幼少から修道会のシスターにピアノを習ったが、生徒には貧しい家庭の子が多かった。月謝を支払えない子に、シスターは無料で教えたという。過酷な環境で暮らす子供たちにとって、レッスンはなによりの楽しみで、この時だけは幸せそうだった。エル・システマの原点はここにある。金持ちの坊ちゃん、お嬢ちゃんたちの優雅な手習いや少数精鋭のエリートコースとは違う風景が、アブレウには見えていたのである。
 彼は音大に進んだが、ベネズエラの音楽界がエリートや富裕層のみを対象とし、北米や欧州の奏者ばかりで占められていることに疑問を持った。あるとき、カラカス音大でバスーンを学んだ若者が、卒業証書を受け取ってすぐさま大学の裏庭へゆき、楽器にガソリンをかけて火をつけ、こう叫んだ。「こうするしかないだろう? だって、僕が演奏できる場所は、この国にはないじゃないか!」 アブレウはこのとき、ベネズエラ人が愛する音楽を続けられるようにしたい、と強く思ったという。彼は仲間を募って、ベネズエラの若者たちのユース・オーケストラを創ろうと考えた。その最初の練習の日、使われていないガレージに集まった11人のベネズエラの若者からオーケストラの第一歩が踏み出された。1ヶ月もたたないうちに、若者の数は75人に増えた。アブレウは二つの原則を立てた。互いに協力し合い、教え合うこと、そうしてしょっちゅう人前で演奏すること。技術の未熟な奏者も、オーケストラの自分の楽器パートだけ習熟すれば、合奏ができ、合奏には音楽のとてつもない快感がある。出来る者は、出来ない者に教える。エル・システマの、互いに助け合う姿勢は、この時に確立された。
 このオーケストラは、人前でどんどん演奏する、という原則どおり、1年後の1976年にはユースの国際音楽祭に参加し、一躍、世界の注目を浴びた。アブレウは音楽ばかりでなく、すでに政治家としても活躍していたが(彼は1983年、文化大臣になった)、当時のベネズエラ大統領に、このオーケストラを国家プロジェクトとして支援する約束をとりつける。「芸術振興ではなく、青少年、特に低所得者層の子供たちと若者の育成プログラムとする」というのがこの時の彼の要望だった。アブレウらの活動は、こうして、国をあげて貧困問題と闘うためのプログラム、エル・システマとして定着するのである。今日ではベネズエラ全土に300近い教室を擁し、それぞれが複数のオーケストラを持ち、人口が3千万に満たない国で、およそ37万人の子供たちが参加している。そのうち貧困家庭の割合は全体の7〜9割にのぼるそうで、参加を希望する子は決して断らず、どの子にも無償で楽器やレッスン、制服、食事その他の福祉サービスが提供されるのである。
 その活動の柱が、なぜオーケストラか? それぞれの楽器を習い、互いに教え合い、合奏を経験し、コンサートを重ねることで、子供たちは人間としての自尊心を与えられ、達成感を味わい、連帯感と社会の規範を身につけ、生きる歓びと意味とを見出してゆく。成長してシステマで働くようになる若者たちも多く、また、さまざまな分野で活躍できる力を彼らはそこで身につけるのである。ドゥダメルはこう語る。「合奏には他者への思いやりと協働という概念が必要なので、人として成長することにつながる。つまりオーケストラというのはコミュニティなのです。みんなでハーモニーをつくりだす、ひとつの小さな世界なのです。これが芸術的な感性と結びつけば、どんなことも可能になる。」
 彼らのレパートリーはクラシックが中心だが(調性を基本とするクラシックはやはり人間のある種の普遍的快感を呼び覚ますのだろう)、自国作品や民族音楽も同時に学ぶ。アンコールで披露される踊るオーケストラのパフォーマンスは、ラテンの血を爆発的に滾らせて、観客を興奮の渦に巻き込む。それは、従来のクラシックのコンサートには見られない圧倒的な光景で、彼らの音楽する歓びに人々は完全にノックアウトされるのである。


 

 システマのディレクターの言葉を紹介しよう。「ぼくたちはここで、子どもたちの未来をつくろうとしている。実際に音楽家になる子は少ないでしょう。でも彼らは<市民>になるのです。」
 子どもたちの未来をつくる。音楽がそれをつくる。エル・システマの揺るがぬ理念だ。ベネズエラだけでなく、このプログラムは、今や世界30カ国以上に広がりつつある。ベトナムの、あの子供たち。パレスチナのあの少年たち。彼らにも未来が開けたら、どんなにいいだろう。
 ちなみに、日本にも2012年、エル・システマジャパンが設立され、現在、東日本大震災の被災地、福島県相馬市で子供たちのためのプロジェクトが活動している。
 指揮者S.ラトルはこう言う。「ホセ・アントニオ・アブレウは革命家であり、ネルソン・マンデラに匹敵する。彼がこのシステマを築いたことで、多くの若者が音楽とともに生きるようになった。それほどたくさんの人の命を彼は救ったのだ。」「クラシック音楽の将来にとって、最も重要なことが起きているのはどこかと聞かれたら、私の答えは決まっている。ベネズエラだ。力強い感情表現に満ちている。あの国で見たり聞いたりしたことをじゅうぶんに消化するには、少々時間がかかるかもしれない。」
 ユース・オーケストラの精鋭集団に育ったシモン・ボリバル響の若者は語る。「合奏しているときは、家柄とか人種とか、すべての違いが取り払われます。<世界は調和してひとつになれる。戦争なんか必要ない>というメッセージを子供たちは受け取ることができる。」
 東西冷戦構造の崩壊後、グローバリゼーションの一方で、民族間の憎悪の連鎖と内部闘争、貧富の格差が激化する今日の世界に、エル・システマが音楽による社会変革の力となりうるかどうか。未来をになう子供たちが、争いのない平和な一つの世界の民への道を切り開いてゆけるかどうか。エル・システマはその意味で、人類の新たな理想のモデルの一つをも示しているように私には思われる。
 総勢約200人の高校生からなるテレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラは来秋11月に来日するという。今度は必ず出かけたい。世界の「未来」を体感するために。

●シモン・ボリバル・オーケストラが弾き踊る「マンボ」(ドゥダメル指揮)
http://www.tvplayvideos.com/1,xlAaiBNCYU4/ボリバル/BBC-Proms-Simon-Bol%C3%ADvar-Orchestra-Mambo
●テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラを指揮するドゥダメルと彼のスピーチ
http://www.ted.com/talks/astonishing_performance_by_a_venezuelan_youth_orchestra_1?language=ja



ホセ・アントニオ・アブレウ


紙と木で作った手製の模型ヴァイオリンを手にする子供たち
(こうすることで本物の楽器を大切に扱う心が養われる)


2013年来日公演


book『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ』


丘山万里子

丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。2010年まで日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」「からたちの道 山田耕筰論」(深夜叢書社)、「失楽園の音色」(二玄社)、「吉田秀和 音追い人」(アルヒーフ)、「波のあわいに」(三善晃+丘山万里子共著/春秋社)他。本誌副編集長。

JAZZ TOKYO
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FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
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#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


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