MONTHRY EDITORIAL02

Vol.66 青木十良氏を想う text by Mariko OKAYAMA

 今年7月、福岡で、映画『自尊(エレガンス)を弦の響きにのせて〜96歳のチェリスト青木十良』が上映された。90歳を過ぎてからの青木氏の6年間を追ったドキュメンタリーで、その月、氏は99歳になった。
 残念ながら、私はその映画を観ていない。この元旦には「何とかヒクヒクと一日一日を過ごして居ります」との賀状をいただき、泰然とバッハの録音に取り組んでおられるだろう姿を思い、いつか出来上がるその音を楽しみに待っていた。
 が、夏が終わり、9月半ばに、氏の訃報を聞いた。この酷暑が、心身にさわったのだろう。最後の夏を、蓼科の山荘で過ごされたのかどうか。
 思い出す。蓼科湖から細い山道を一気に登ってゆく青木氏のワインレッドのフォードを追いかけつつ、もっとゆっくり行って下さいよ、と私はぶつぶつ言ったっけ。鹿が踊りに来るというその山荘のテラスからの眺望の見事だったこと。向こうに八ヶ岳の連山、こちらにアルプスの山々、眼下に小さな蓼科湖がエメラルドに輝く。あの高名な建築家、八ヶ岳高原音楽堂などを設計した吉村順三が、その眺めに、どうしても自分にやらせろ、とデザインしたという山荘だ。
 いや、それより、氏の車を追いかける最中での、突然の倒木騒ぎには、心底、驚いたものだ。道を遮る倒木に、「ちょっと待っててくださいよ、のこぎり持ってきて切りますから」と、車をあとに、薮に覆われた山の斜面をひょいひょい降りてゆき、あっという間にのこぎりを手に戻ってきて、木を切る前に足下の薮を素手で払ってくださった。チェリスト、何と言っても指、手が命の演奏家が、だ。「やめてください!けっこうです!大事な手に怪我でもなさったら!」と私は思わず叫んだものだ。リビングでのお茶のみ話に、夫人はテラス向こうの木を指し、「あら、主人はこの高い松の木だって、するする平気で登って、木の枝を上手に払うんですよ」と笑った。
 この時、氏は79歳。私は1年間のミュンヘン滞在から戻り、日本での音楽批評の仕事を素直に再開できないでいた。コンサートに行っても、索漠とした気持ちになるばかりで、筆が進まない。そんな時、青木氏と出会い、さまざまなお話を聞くようになった。その言葉の一つ一つが宝石のようで、私は日本に戻っての最初の仕事として、氏のお話をまとめて本にすることにしたのだった。(『翔べ 未分の彼方へ〜チェリスト青木十良の思索』楽社)
 とにかく、楽器を弾く人間が、平気で素手で薮を払ったり、ささくれ立った木肌をつかんだりするなんて、びっくり、だ。音楽をやる人間は、小さい頃から、あれは駄目、これはいけない、で育つことがほとんど。包丁を持ったことのない少年少女なんて、ざらである。コンクールを控えたピアノ科の音高生がバスケットの試合で指を骨折した。親は教師に怒鳴りこんだ。「この大事な時期にバスケなんて、どういうおつもりですか!」 よくある話である。
 そういう、普通の子どもがやることを、みんな取り上げられ、楽器とだけ向き合うように育てられた虚弱児に、どんな健全な音楽が可能だろう? そんなヤワな心と身体から、果たして豊かな音楽世界がひらけるだろうか? 青木氏の日常には、音楽と人間との関わりの、あるべき姿が、いつも示されていた。

   私は、大学の年間講義の最後を、いつも<生(なま)の演奏>でしめくくることにしていた。一般大学で、音楽といえばロックやポップスをCDで聴くのが普通な学生たちに、<生の音>に触れて欲しい、と思って。別にクラシックである必要はない。ただ、機械を通さない、人間の息とか、肌のぬくもり、とかを直に感じられる、そういう<音>があることを知って欲しい。
 で、その年は青木氏にお願いし、氏のチェロと私のピアノで、シューベルトの『アルペジョーネ・ソナタ』の第1楽章をやることにした。私は、音大でも、ピアノは下手なほうだったが、一生懸命、練習した。氏と、何度も、音を合わせた。それは、至福の時だった。だって、こんなに美しいチェロの音と一緒にピアノが弾けるんだもの。音楽とはなにか、ということを、音で教えてくださるんだもの。生きるとはなにか、ということを、音で優しく話してくださるんだもの。音で話し合うって、ひととひととが信じ合う、いちばん美しい姿なんだ。


 

 その日。学生たちは、この80歳ちかいチェリストの話を、敬意と賛嘆のまなざしで熱心に聞き、私(なんたって、いちおう、彼らの先生である、彼女の腕はどんなもんか、という興味深げな視線!)との合奏を、実に楽しみに待っている。私は、もちろん、ドキドキした。氏の家で、二人で合わせるのとは、まあ、やっぱり違うから。そうして。指先震え、のピアノの前奏。チェロがそのうえにフワッと乗ってくる。優美に奏でられるその響きに、いつの間にか緊張もほぐれ、指も滑らかになっていた、そのとき。突然、私は落っこちたのである。音楽の流れから。つまり、ピアノ・パートがすっぽ抜けた。それは一瞬のこと。私の頭は真っ白になったが、たぶん、3、4小節抜けたあと、なんとかチェロの歌に合わせ、ピアノをまた弾きはじめた。私は明らかに、事故った。大穴をあけたのである。
 終わって、学生たちの盛大な喝采を浴びながら、私は氏にそっと謝った。学生たちにはわからなかっただろうよ、と思いつつ。「すみません、落っこちました・・・」 あろうことか、本番に。「あれ?そうでしたか?」氏はにこやかに笑い、とぼけられた。慈顔、であった。
 その後、私はずうずうしく、氏が研究しているバッハのガンバ・ソナタの練習台(ピアノ伴奏をさせてもらう)を申し出、半年ちかく、やはり至福の時を過ごしたのである。

 エレガンスとは、自尊、だ。という言葉は近年のもので、私の編著の本の中にはない。ただ、エレガンスこそが最高の美だ、とは、氏の演奏から、いつも実感していた。それを感じさせる演奏家など、世界を見回しても、もう、ほとんどいないだろう。エレガンスとは、魂の高貴だ、と私は思う。おのれを尊ぶとは、そこに大前提として、他者を尊ぶ、ということが含まれる。
 「私はどんな人とお会いしている時でも、やはり、この世に生命をもって生まれてきたんだから、尊い人として、共感をもって接しますね。生徒さんとも。
 生きていることが、尊い。みんな、それなりに考え、それなりに生きている。それなりの眼、自分とは違う眼をもっている。それが大切。それぞれの多様さ、人間というものの幅広さにふれて、自分と、その人とをすり合わせて、自分も幅広くあろうと努力する。」
 本の巻末、十良・語録、での言葉だ。

   80代、90代と、氏は音楽家として悠揚と歩まれ、多くの弟子を育て、ドイツ帰りのピアニスト、愛娘とのコンビでリサイタルを開き、ベートーヴェンやバッハのCDも出した。
 今ごろ、天界で、バッハやシューベルトと楽しく合奏していらっしゃるだろう。私もいつか、隅っこでいいから、その輪に入れてもらいたい。

♪青木十良略歴
 1915年生まれ。クレンゲルの弟子A・フィッシャーにチェロの手ほどきを受け、以後はほぼ独学で研鑽を積む。日本の音楽界の創成期より、山田耕筰、近衛秀麿らとともに活動、なくてはならないチェリストとして活躍した。NHKラジオ放送にも長く携わる。1964年より桐朋学園で後進の指導にあたる。レパートリーは、古典はむろん、近代、現代曲まで幅広い。88歳でのCD『バッハ/無伴奏チェロ組曲第6番』は絶賛を博し、2006年に『第5番』、2011年に『第4番』を録音。2006年、第16回新日鉄音楽賞特別賞受賞。

* 関連リンク
# 823『青木十良(チェロ)/バッハ:無伴奏チェロ組曲第4番』丘山万里子
http://www.jazztokyo.com/five/five823.html

『翔べ 未分の彼方へ
〜チェリスト青木十良の思索』
(丘山万里子編著/楽社 1995)
映画
『自尊を弦の響きにのせて
〜96歳のチェリスト青木十良〜』
ポスター(2012)
CD
『バッハ無伴奏チェロ組曲第4番』

丘山万里子

丘山万里子 Mariko Okayama
東京生まれ。桐朋学園大学音楽学部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。2010年まで日本大学文理学部非常勤講師。著書に『鬩ぎ合うもの越えゆくもの』『からたちの道 山田耕筰論』(深夜叢書)『失楽園の音色』(二玄社)、『吉田秀和 音追い人』(アルヒーフ)、『波のあわいに』(三善晃+丘山万里子/春秋社)他。本誌副編集長。

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