MONTHRY EDITORIAL02

Vol.67 ひとりとみんな、あるいは、人となり text by Mariko OKAYAMA

 昨2013年10月に逝去した作曲家、三善晃の合唱作品をまとめて聴く仕事をしていて、<ひとり>と<みんな>のことを考えた。あるいは晩年に語ってくれた<人となり>について。

 三善の合唱処女作は28歳のときの作品『トルスU』(1961)で、混声、エレクトーン、ピアノ、打楽器という特殊な編成をとっている。器楽と混声をくっきりと対峙させる書法は、従来のいわゆる伴奏と歌という定型を打ち破るもので、合唱領域での新たな響きの地平を切り開いた。荻原朔太郎の『月に吠える』から“殺人事件”“見えない兇賊”をテクストとしており、その詩句には「まっさをの血」の戦慄が小刻みに走り、三善の音はそこに鋭く共震している。朔太郎の「人は一人一人では、いつも、永久に、恐ろしい孤独である」という言葉は、三善の魂の実感であった。
 翌62年には初期の名作『嫁ぐ娘に』が書かれている。この年、29歳の三善は、30歳を迎えるつもりはなかった。この作品の2004年上演時のプログラムで、氏は「ここに初めて書くことがある。」と言ってそのときの心境を告白している。氏は残雪の軽井沢にゆき「ここで“アト”を早めに断ち切るつもりだった。」そこにどんな理由があるかは知れないが、「永久に、恐ろしい孤独」に心身を食(は)まれていたことは確かだろう。個が孤であることの絶望と自虐的陶酔。青春の自意識と死の美学。三善のような大自意識家にとって、それは避けて通ることのできない関門だったのかも知れない。「私たちは、生まれてしまったことで死を予約し、毎日の生でこれを分割払いしつづけ、やがて人生の最期に支払い終えたものを手中にする。それならば、それを与えられるのではなく、どのような形であれ自分の意志により自分の手で、創れないものだろうか―――せめて、そうして永遠の時間のなかの人間的な一点として。」(三善晃著『遠方より無へ』1979/白水社)それが軽井沢での三善の意識だった。このとき、氏を生へと立ち戻らせたのは、探しにきた妹で、妹は結婚を控えていた。『嫁ぐ娘に』は、帰京してから書かれたものだが、そんな事情が背景にはある。そうして、この私的告白が『嫁ぐ娘に』初演から42年後、70歳を超えてはじめて(妹の他界ののち)、合唱の人々を前になされたことに、私は三善の合唱に寄せる想いの深さを感じる。
 「いつも、永久に、恐ろしい孤独」、「たった独りである私」が、「みんなのなかの私」であることを知ったのは、三善の場合、合唱を通してだった、と私は思う。私という存在は本当には何からも断ち切られ、何ともつながらない在りようしかできない。いや、そう思うのは傲慢で、実は何かとの「間」、「関わり」でこそ、私は私になることができる。<ひとり>から<みんな>へ、というのは、そういう意識の転換にほかならない。
 そういえば、と私は思い出す。氏との対話集『波のあわいに』(2006/春秋社)で、語ってくれたこと。―――ある自閉症とか分裂症とかの小さい子供たちの集団に、知り合いの教育者が行って、合唱を教えた。すごい騒ぎで、どうにも手がつけられない。3時間ぐらいたってからやっと、一つ歌えるようになった。みんな怒鳴るような感じで、大声で歌った。ヤレヤレよかった、と思って2、3日したら、一人の女の子から「このあいだはとてもよかった。」という手紙が来た。「みんながいたからよかった。みんながいたから私がいた。だからよかった。ありがとう。」と。つまり「みんながいて初めて、私がいた、ということがわかった」。私の証が見つかった。そのことが「すごくうれしい」とその子は言ったんですね。「自分が自分として居る」ということは「自分で証明できない」。でも「みんながいなければ」「自分も無に」なってしまう。「みんな」がいると「じぶん」の「分」も引き受けることができて、かえって気が落ち着くというか、軽くなるというのか、そういう境地なんだろう。―――


 

 私が私であることを、私は証明できない、というのは、たとえば、周囲の人々すべてが私が居ることを無視して、まるで私など居ないかのように振る舞ったら、私はものすごく不安になり、私は本当にここに居るんだろうか、と最後にはわけわからなくなるだろう、ということだ。これは、デカルトの「我思う、故に我あり」という自我意識(おそらく朔太郎や、29歳の三善の自我意識もこれに重なる)の対極にある感じ方だ。「みんながいたから私がいた」なんて柔らかで、動的な人間認識だろう。三善の合唱作品は、ある意味、デカルト的な、いわば自己自足的な自我から、他者相関的(あまり適切な言葉ではないが)な自我へ、つまり<ひとり>から<みんな>への歩みを映しとったものだ、と私には思える。死を自分の手で、と願った若き三善に、合唱が拓いた<人>としての新たな世界。
 それは、三善の晩年、03年に書かれた自作の詩による混声合唱『であい』に象徴的だ。ここでの三善の言葉は、常日頃の難解さを脱ぎ捨てて、いたって易しく、優しい。「ここでであいましたね みんなは あなたの眼差し あなたの眉 あなたの声 そして みんなで歌いましたね ここで 秋のこの地で」からはじまり、「さよならは 別れではないのですね さよならは 信じていることの証し あなたを 未来を 地球を 地球のどこかで歌う人を」と続き、「さよなら いつかまたあう日まで さよなら みんな さよなら いつかまた さよなら」で閉じられるその歌声は、三善にひらけた<わたし>と<あなた>の<であい>、<ひとり>と<みんな>の<であい>を美しく伝えてやまない。私はこの曲を2008年の10月、二日間にわたって開かれた《三善晃作品展》の締めくくりで聴いたが、このときの「さよなら みんな さよなら」のリフレインは今も胸に深く刻まれている。ステージと満員の聴衆の想いが一つに溶け、ホール全体が感涙でうるむようだった。終演後、車椅子の氏がステージ下で、静かに答礼する。それが公での最後の挨拶になると、氏も総立ちの客席も予感していた。<みんな>に包まれた<ひとり>。<ひとり>に抱きとられた<みんな>。それは処女作の『トルスU』とは、全く異なる心の情景で、三善はそれを合唱の<みんな>によって手にしたのだ。プロの演奏家のために書かれる作品群とは異なり、合唱はアマチュアの合唱愛好家との出会いから、そのほとんどが生まれる。三善はむろん、プロでも難しい歌唱を求めつつも、音楽、あるいは人間への愛しさを隠そうとはしない。2000年代に入っての氏の創作が合唱に占められているのは、その愛しさへ素直に身をゆだねる心のありようを物語っていると思われる。合唱によって、三善はそのように育てられたのだ、と言ってもよい。遺作となったのは、07年、原爆をうたった混声合唱曲『その日-August6-』であった。

 もう一つ、<人となり>。これも忘れられない言葉だ。―――「人となり」と言いますけれど、「人となる」ということ。結果が「人となる」んで、それまでは「人」になれないんですね。―――私はこの言葉も、やはり、人は、さまざまな出会い(人ばかりでなく、事象もふくめ)によって、人となってゆくのだと受け止める。つまり、全ては関係性によって成り立ち、人はさまざまな関係性で編まれた存在なのだ、というようなこと。そう考えると、「私が、私が」と言い募ることの虚しさとおこがましさに思いが至る。誰かあっての私、という意識に、人間はなかなかなれないけれど、合唱の根底にあるのはまさにそれだろう。他者との声の距離をはかる、あわせる、響かせる・・・伸び縮みする声の関係性の編み目が合唱を紡ぐのだから。

 青春の大自意識から<人となり>まで。合唱によって三善は「さよならは 信じていることの証し あなたを 未来を 地球を 地球のどこかで歌う人を」と歌う<人>となっていった。私たちが氏の合唱作品から受け取るのは、<ひとり>から<みんな>への美しい航跡に他ならない。そうして、それらの作品との<であい>がまた、私たちの<人となり>を創ってゆくのだ。

2008年10月19日《三善晃作品展》
@東京オペラシティコンサートホール控え室にて
(撮影/林喜代種)
2008年10月19日《三善晃作品展》より
合唱作品ライブ録音

丘山万里子

丘山万里子 Mariko Okayama
東京生まれ。桐朋学園大学音楽学部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。2010年まで日本大学文理学部非常勤講師。著書に『鬩ぎ合うもの越えゆくもの』『からたちの道 山田耕筰論』(深夜叢書)『失楽園の音色』(二玄社)、『吉田秀和 音追い人』(アルヒーフ)、『波のあわいに』(三善晃+丘山万里子/春秋社)他。本誌副編集長。

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