咋2014年12月16日、パキスタン北西部のペシャワルで起きた学校襲撃事件には震えるほどの怒りを覚えた。軍の運営する学校を狙った反政府武装勢力<パキスタン・タリバーン運動>(TTP)による無差別銃撃で、死者は児童、生徒、職員ら150人近くにのぼる。その大半が12~16歳の生徒という残虐さに、世界中から非難の声があがった。このタリバーンに頭部を撃たれ、奇跡的に回復、2014年のノーベル平和賞を受賞したパキスタンの少女マララ・ユスフザイ(17歳)はただちに声明を出した。「この愚かで冷酷なテロ行為を目の当たりにして悲しみにくれています。こんな恐怖が罪のない子供たちが通う学校で起きることは許されません。私たちはこのような残虐で卑劣な行為を非難し、パキスタン政府と軍とともに立ち向かいます。世界の多くの人たちと、子供たちを追悼します。しかし私たちは決してテロに屈しません。」
下校途中のマララが銃撃されたのは2012年。マララは父親の経営する学校の生徒だったが、2009年1月から女子生徒の通学禁止を布告したタリバーンに抗議する内容のブログを英国BBCを通じて発表、世界の注目を浴び、タリバーンの標的となった。当時、彼女は11歳。政府とタリバーンの戦闘に明け暮れる日々と、タリバーンの恐怖政治などを綴ったこのブログからはじまり、テレビなどの取材を受け、各地で平和への願い、教育を受ける権利を訴える発言を続け、2011年にはパキスタン国民平和賞を受賞した。こうした彼女の活動への脅迫は日を追って強まり、ついに通学バスに乗り込んできたタリバーンの銃弾を受けたのである。マララはイギリスの病院へと転送され、一命をとりとめた。現在、バーミンガムで、避難してきた家族とともに暮らし、当地の学校に通っている。16歳になった彼女は国連でスピーチを行う。テロリストたちの銃撃に対し、自分の心から「弱さ、おそれ、絶望が消え、強さ、力、勇気が生まれた」ことを告げ、世界にこう呼びかけたのである。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、何百万もの人が貧困、不正、無知に苦しんでいることを忘れてはなりません。何百万もの子供たちが学校に通えていない現実を忘れてはなりません。わたしたちの兄弟姉妹が、明るく平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはならないのです。
ですから、本とペンを手に取り、全世界の無学、貧困、テロに立ち向かいましょう。それこそわたしたちにとって最も強力な武器だからです。
一人の子ども、一人の教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えられるのです。教育以外に解決策はありません。教育こそ最優先です。」
マララの故郷パキスタンでは、2008年の間に200の学校が夜間にタリバーンによって爆破されている。ただ読み書きや足し算を覚えたいと、小さな子供たちが通う場所に、なぜ爆弾を投げ込むのか。なぜタリバーンは学校をそんなに恐れるのか。それが10歳の、医者を夢見る女の子マララの疑問だった。タリバーンは女子の通学を一切禁止した。音楽やダンスなども神を冒涜するものとして禁止したから、町からは音楽ショップも映画館も消えた。結婚式で踊ることを仕事としていた女性ダンサーは捕らえられ、射殺され、遺体は「血の広場」にさらされた。毎日、殺された「違反者」が見せしめに広場にうち置かれた。あるいは公開ムチ打ち刑が行われた。女たちは買い物にゆくことを禁じられ、緊急での外出の際は家族の男性を伴い、頭からすっぽりブルカをかぶらねばならない。砲声と爆弾の音におびえる毎日。マララの平和、自由、教育への渇望は、自分が声をあげるという強い決意を生む。マララはノーベル賞受賞時のスピーチで、こう言っている。
「私には二つの選択肢しかありませんでした。一つは、声を上げずに殺されること。もう一つは、声を上げて殺されること。私は後者を選びました。」
なぜ、教育が最優先か。なぜ、マララは無知こそがテロの温床と言うのか。私は2009年に行ったキューバでのことを思い出す。そこで出会った子供たちのキラキラした目と目力に、私はキューバの明るい未来を実感した。どんな僻地に行っても、立派な校舎と、こぎれいな児童遊園があり、子供たちは国から支給される愛らしい制服を着て、楽しそうに教室に並んでいる。キューバの革命政府が真っ先に手をつけた「教育」の実りが、そこにはあった。革命の士ゲバラは1961年の演説で「教育を国営化し、宗教色をなくして無償にし、教育制度の完全利用を可能にしたこと」を誇らかに語っている。
「今年、キューバから非識字が一掃されようとしている。それは素晴らしい光景である。現在までに104,500人の、年齢でいう10歳から18歳の学生部隊が、国中くまなく押しかけて行って、直接農村のボイーオ(小屋)を、または労働者の家を訪問し、今更勉強などしたくないという老人を説得し、そしてキューバから非識字を一掃したのである。
ある工場の労働者の中から非識字が一掃されるたびに、その事実をキューバ人民に知らせるための旗が掲げられる。農村の協同組合から非識字が一掃されるたび、同じく旗が掲げられる。」(『ゲバラ世界を語る』中公文庫)
このようにして、キューバは教育を徹底したのである。子供たちは、国の未来であり、希望にほかならない。それは物質的な豊かさ以上の、なにか、なのだ。
読み書きを教えることは、かつてのキューバでは重罪だった。なぜか。キューバを訪れる前に見たゲバラを描く映画のなかで、中途から加わる兵士たちに、ゲバラが寸暇を惜しんで字を教え、算数を教えるシーンが出てきた。「疲れているのに、なんでやっと得た休息を勉強なんかに使わなきゃいけないんだ!」と愚痴る若者に彼は端的にこう言った。「字が読めないと、騙される。」
字が読めないと騙される、とはどういうことか。それを実感として理解するのは、義務教育を当然のこととして育った私には難しい。「女に読み書きは不要」という時代が日本にもあったが、私にはやはり遠い過去だ。ただ、人間全般にとって、「読み書き」とは、基本的人権なのだ、と言うゲバラやマララの言葉への想像力くらいは、ある。
無知な民衆、愚昧な大衆を操る権力者、という構図はどこの世界にもあり(日本だって例外ではない)、権力者にとって有用なのは「考えない労働力」に違いない。「考える」ことは、まずもって読み書きを基本とするわけだから、そこは一握りの人間が占有しておくほうが好都合で、民衆に教育など施してはならないのだ。タリバーンの狙いもそこにあろう。
もう一つ、2007年2度目のインドへの旅で目にしたこと。町の賑わいのなか、額に赤い印をつけた12,3歳の少女を指して、現地ガイドが、「あの赤い印は人妻、の意味です。」とさらりと言った。その少女の目の、虚ろだったこと。マララもまた、12歳の友達が、学校をやめ、結婚させられた理不尽を語っている。それが普通である社会への抗議。女の子だって教育を受けたい、夢を追いたい!マララはノーベル賞授与式でのスピーチで、自分は学校に行けない6,600万人の女の子の声の代弁者だ、と語っている。命を狙われても、彼女は声を上げ続ける。教育こそ、最大の武器だと。そうして、こうも言う。
「なぜ“強い”といわれる国々は、戦争を生み出す力がとてもあるのに、平和をもたらすことにかけては弱いのでしょうか?なぜ銃を与えることはとても簡単なのに、本を与える事はとても難しいのでしょうか?なぜ、戦車を作ることはとても簡単で、学校を建てることはとても難しいのでしょうか?」
ペシャワルの学校襲撃事件の後、タリバーンは犯行声明を出した。「政府がわれわれの家族や女性を攻撃しているため、軍の学校を標的に選んだ。彼らに痛みを味わわせてやりたかった。」と。これに対し、パキスタンのナワズ・シャリフ首相は、6年間にわたり停止していた死刑執行を再開すると発表。19日にタリバーンのメンバー2人の死刑を執行、さらに21日にも4人の死刑を執行する、という報復に出た。
憎悪と殺戮の連鎖は果てしない。マララは「政府と軍とともにテロに立ち向かう」と言ったが、それは武器を手に、あるいは死刑執行という形での報復とは違うだろう。彼女は国連でのスピーチで、こうも言っている。
「私は誰も敵だとは思っていません。ましてやタリバーンその他のテロ集団に対する個人的な復讐心もありません。私はあらゆる子供の教育を受ける権利を訴えているのです。タリバーンやすべてのテロリスト、過激派の子供たちにも教育を受けてほしいと思っています。
私を撃ったタリバーン兵さえ憎んではいません。銃を持つ私の目前に彼が立っていたとしても、私は撃たないでしょう。それこそ慈悲深い預言者マホメット、イエス・キリスト、そしてお釈迦様から学んだ思いやりの心です。それこそ私がマーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、ムハンマド・アリ・ジンナーから受け継いだ変革の伝統です。それこそ私がガンジー、パシャ・カーン、マザー・テレサから学んだ非暴力の哲学です。そしてそれこそ、私が父と母から学んだ寛容の心です。私の魂からも<平和を愛し、万人を愛しなさい>という声が聞こえてきます。」
本とペンでテロに立ち向かえるか。人の心に棲む憎悪を、消し去ることができるか。学校襲撃事件に私は憤怒したが、それもまた憎悪につながる心の様相に他なるまい。ただそれに、どのように対処するか、あるいは、向き合い、行動するか、で決定的な違いが生じることも確かなことだ。多くの先人に学んだというマララの「教育こそ最優先」という言葉は、「学び」のなかに、人類の叡智と規範と倫理とを知り、それを指針として世界の平和共存を生み出すことができるのだ、という希望と確信に満ちている。
日本も戦後70年を迎え、近隣国へのヘイトスピーチや軋轢は激しさを増している。一方、著しい富の偏在で(孫への教育資金贈与が1,500万円まで非課税となる、など、いったいどこの家庭を基準にしての話か)、貧困家庭が増大、貧富による教育格差も広がるばかりだ。ペンを持つ人間として、年明けに、マララのメッセージをしっかりと胸に刻みたいと思う。
【追記】
年初めの2015年1月7日、パリの週刊新聞社<シャルリーエブド>がテロの襲撃を受け、発行人や記者ら12人の死者が出るという事件が起きた。<シャルリーエブド>はイスラム教への風刺や漫画で、これまでもたびたびイスラム団体から非難されてきたメディアである。各国首脳は「報道と言論の自由への挑戦であり、許しがたい」との声明を出した。
一方、日本では、お笑いの<爆笑問題>がNHKの正月番組での政治家にからむネタを全てボツにされたことをラジオで語り、メディアでの「自粛」が色濃くなっていることを明らかにした。ちなみに大晦日のNHK紅白歌合戦で、サザンオールスターズの桑田佳祐が歌った『ピースとハイライト』が政権批判だと話題になってもいる。
ペンの持つ意味と重さ、表現の自由について。改めて、世界と時代と人間に、考える眼を働かせてゆきたい。
(2015年1 月9日記)
